2020年 07月 23日
4 高祖神社 吉備真備は怡土城を築造すると鎮護の神とした
藤原広嗣が排斥を訴えた吉備真備は唐に二度渡っている。
最初は広嗣の父藤原宇合が遣唐副使の時に、留学生として乗船した。
それは霊亀2年(716)の時で、メンバーには
多治比縣守(押使)、藤原宇合(副使)阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉がいる。
吉備真備は唐に18年間残留し、天平7年(735)に帰朝した。
21歳頃に唐に渡り、帰国した時には40歳位になっていた。
唐では阿倍仲麻呂と共に知識人として著名になったという。
時の皇帝は玄宗皇帝だった。
吉備真備が日本に持ち帰った書物のリストを見ると、経書、天文暦書、日時計、楽器、音楽書、弓、矢、史書があったというので、日本の文化が一変しそうな豪華さだ。
唐のまばゆい文化をもたらした吉備真備に、人々の視線が集まったのは当然で、出世も早かった。
有力者の御曹司というだけの藤原広嗣から人々の関心が消えていった。
広嗣はその矜持によって嫉妬を憎悪に変化させたのは想像に難くない。
さて、その後の吉備真備は筑紫に縁が深い。
吉備真備は天平勝宝2年(750)に筑前守、そして肥前守に任ぜられた。
そして天平勝宝4年(752)には再び遣唐船に乗る。この時は遣唐副使だった。
唐で高官になっていた阿倍仲麻呂の協力を得て宮殿の府庫の見学が許されたという。

楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受けていた頃だ。
吉備真備は帰国すると天平勝宝6年(754)に大宰大貮となり、二年後の天平勝宝8年(756)に怡土城を築造した。
この間に安史の乱が起こり、楊貴妃は死んだ。
日本でも安史の乱の拡大を警戒して備えがなされた。
吉備真備は大宰府から日本の軍事的弱点を進言した。
その中で博多大津、壱岐、対馬などに100隻以上の船を備える定めがあるのに、使用できる船が無い点を指摘した。
また、防人は武芸の修練をするが、50日間を武芸の修練に当て、10日間を築城のために労役に就かせるような案を提出し、認められている。
この頃は新羅と問題が起きており、新羅征討の決議がなされた。吉備真備は西海道節度使に任命されたが、征討は未発に終わった。
吉備真備が築城した怡土城の鎮護の神としたのが高祖神社(たかす)である。

拙著『神功皇后伝承を歩く上』では28番に掲載したが、神功皇后の時代は五十迹手(いとて)が崇敬していた。
祭神は彦火々出命、玉依姫、息長足姫命だが、『日本三代実録』には「高礒比咩神」の記述がある。
吉備真備がどちらの神に祈ったのかは分からない。
この人物が当時の日本に必要な物を見抜く力があり、身を粉にして防衛に務めたことを、広嗣の乱を通して知ることになった。凄い人物だ。
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