2020年 07月 24日
5 観世音寺3 玄昉は落成式の日に死んだ
藤原広嗣が憎んだ、もう一人が玄昉だ。
玄昉もまた広嗣の父宇合が遣唐副使として唐に渡った時、留学僧として派遣されていた。
生まれた年が分からないので乗船した年齢は不明だが、他の人たち同様に20歳前後だったと思われる。
玄昉は吉備真備と共に18年間、唐に残留した。
その才能は高く、唐の玄宗皇帝に認められて、紫の袈裟を下賜されたという。
帰国する時には経論5000巻の一切経と多くの仏像を持ち帰った。
法相宗である。
玄昉は都で内裏の仏堂(内道場)の僧正となり、聖武天皇の母の病気を祈祷によって回復させた。
聖武天皇の母は藤原宮子という。
聖武天皇を生んで精神の病になっていた。
今でいえば産後鬱だろうが、当時のことなので、悪霊の仕業と考えられた。
玄昉の祈祷で宮子が回復すると、聖武天皇は36年ぶりに母と面会できたという。
しかし、宮子の回復が劇的なことから、世間は二人の密通を噂するようになった。
どうやら広嗣はその噂を真に受けたようだ。宮子は広嗣の叔母に当たる。
広嗣は玄昉の排斥を訴えるようになった。
一方、聖武天皇の想いを想像すると、母が回復して会えた喜びもつかのま、嫌な噂が立ち、そして従兄弟の広嗣が事を荒立て始める、という状況に何とも哀しい思いをしたと思われる。
玄昉は橘諸兄に重用されて出世していくが、その排斥を訴えて広嗣の乱が起きた。
そしてまもなく、広嗣の死を聞いた玄昉は千手経1000巻の書写を発願して広嗣を供養したという。その愛は深かった。
政権が橘諸兄から藤原仲麻呂に移ると、玄昉は観世音寺別当に左遷されて大宰府にやって来た。
観世音寺は斉明天皇を供養するための寺だが、80年経っても完成していなかった。
玄昉の時にようやく完成をみる。そして事も有ろうに、その落成式の席で玄昉は急死した。
世の人は広嗣の祟りだと噂した。
さらに後の世には道鏡と混同されてあらぬ噂が重ねられていった。
玄昉は請われて藤原宮子の病を癒す祈りをしただけだった。
祈祷した婦人がこれほど高い身分でなかったら、こんな顛末にはならなかったのかもしれない。
その墓は観世音寺の境内にある。

観世音寺
<20200724>










