2020年 07月 26日
6 到津八幡神社2 大将軍大野東人は広嗣討伐勝利を祈った 広嗣と桜花
北九州市小倉北区にある到津八幡神社は板櫃川(いたびつ)を見下ろす丘の上にある。
社号の「到津」(いとうづ)は神功皇后が船でこの「津に至った」ことから付いたものだ。

祭神は神功皇后、応神天皇、市杵島比売命、多紀理比売命、多岐津比売命と、豊日別命。
板櫃川は筑前と豊前を分ける川で、広嗣の乱の決戦はこの川を挟んで行われた。
到津八幡の社前付近が古戦場跡と言われている。
広嗣討伐軍の大将軍だった大野東人はこの神社で戦勝を祈ったという。
朝廷軍は板櫃川の東側に布陣した。
で、拙著『神功皇后伝承を歩く下巻』91番に地図を載せているので、それを見ながら布陣図を描こうとしたら、上手くいかない。

到津八幡神社は板櫃川の西側にあるのだ。
どうやって大野東人は神社に到達したのだろうか。
まずは神社前に船を付けて戦勝祈願をして、対岸に渡って東側に布陣したのだろうか。
それとも、布陣した後、川を渡って祈願したのか。
西側に既に広嗣軍が布陣していたとしたら、上手く説明がつかない。
一方、広嗣軍は西側に布陣したという。
鞍手道からここに至るのに広い遠賀川を渡ってきた。
陸路、水路を通ってここまで到達したとして、もし勝利したら、海を渡って下関に着いて陸路を行くつもりだったのか。
どうしても、この戦いの目的地が見えない。
やはり、広嗣は「吉備真備と玄昉の排斥」を言いたかっただけだろう。
それが、こんな大事になってしまい、しかも敗戦してしまう。
この板櫃川の戦いで勝敗を決したのが、隼人の方言だったという。
隼人の兵は両軍にそれぞれ数十人いた。
朝廷側の隼人が「官軍に歯向かえば、罪は妻子や親族に及ぶぞ」という内容を叫んだという。
広嗣軍側の隼人は故郷の言葉を思いがけない所で聞いて、泳いで渡って投降したという。
それを見た他の兵士も次々に渡って行って、広嗣軍は崩れていった。
広嗣本人も、何故ここにいるのか、ふと、我に返ったかもしれない。
側近に促されるまま船に乗って、何処か知らない所に逃げていくはめになった。
板櫃川の戦いは10月9日。
広嗣が弟の綱手と共に処刑されたのが翌月の11月1日だった。
藤原広嗣はこの近くの荒生田神社(あらうだ)に神として祀られている。
時は遡って、広嗣が華やかな都にいた頃、恋人に贈った歌が万葉集に残されている。
他の人と少し違う訳をした。違う点は「一与」を一般には「一枝」とするが、そのまま「与」の意味で訳したことだ。
藤原朝臣広嗣が桜の花を娘子(おとめ)に贈る歌一首
1456
この花の 一与のうちに 百種の 言そ隠れる おぼろかにすな
(このはなの ひとよのうちに ももくさの ことぞかくれる おぼろかにすな)
【君にあげる この花の内に たくさんの言葉が隠れているよ おろそかにしないでおくれ】
娘子の応えた歌一首
1457
この花の 一与のうちは 百種の 言持ちかねて 折らえけらずや
(このはなの ひとよのうちは ももくさの こともちかねて おらえけらずや)
【あながたくれたこの花には あまりに沢山の言葉が込められていたので 折られてしまったのね】
広嗣が梅ではなく、桜の歌を詠んでいた。
まるで彼の人生を象徴するような歌だ。

<20200726>










