2020年 07月 31日
8 鳥野神社 大宰帥・栗隈王は三宮を再建した

橘諸兄はもともと皇族だった。系図を見ると、祖父は栗隈王(くるくまおう)だ。

栗隈王は栗前王と同一人物だと言われており、二度も大宰帥になっていて、筑紫と縁が深い。
この栗隈王もまた直方市(のおがた)に来ている。
あの鳥野神社だ。
鳥野神社はもともとニニギノ命が猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)の夫婦神に命じて、福智山に神を祀らせたことから始まったという。
祭神は保食(うけもち)大神、軻遇槌(かぐつち)神、天照大神、月讀大神
となっている。
のちに日本武尊が登って戦勝を祈り、凱旋すると感謝の祈りを捧げて上中下宮を創立した。
この時、当社を衣食の太祖、西州の鎮守としている。天照大神には機織りの女神という側面があるからだ。
その後、神功皇后や武内宿禰も三韓討伐の折に戦勝祈願とお礼参りをした。
そして、今回のテーマの栗隈王が天智10年(671年)5月に筑紫率(太宰帥)として二度目の赴任をした時のことだ。
栗隈王が大宰府に居た時に天智天皇が崩御して壬申の乱が起きた。
天智天皇の子である大友皇子の即位を阻(はば)んで、大海人皇子が挙兵した。
大友皇子は朝廷として各地の兵を招集した。
大友皇子は使者に、「吉備守と栗隈王はかつて大海人皇子に仕えていたことがあったので、命令に従わなかったら、殺すように」と命じた。
やはり吉備守は従わなかったので、使者に殺された。
一方、大宰府には佐伯連男が派遣された。
栗隈王は息子の三野(みぬ)王と武家(たけいえ)王を側に控えさせて佐伯男を迎えた。
佐伯男が符(文書)を授けると、栗隈王は
「筑紫国はもともと海外に対して国を守る立場にあります。今、命令を受けて兵を出すと、国の防衛が空白になります。もし、急に外国勢が攻撃してきたら、国を守れません。国を失ってからでは私を百回殺しても、どうにもなりません。ですから、兵は動かせません」
と言った。
佐伯男はこれを聞くと、剣を持つ手に力を入れて進もうとした。三野王と武家王は栗隈王を守って剣を佩(は)いたまま動こうとしなかった。
佐伯男は、このままでは返り討ちに遭うと観念し、あきらめて還った。
こののち、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。
以上の話が日本書紀に書かれている。
そして、その後のことだ。
天武天皇の御代になると、栗隈王は鳥野神社の神威を感じて朝廷に奏上した。
すると、天皇より勅命があって、三所神宮を再営し、西州鎮護の惣社とした。
栗隈王は白鳳2年(673・寺社暦)に太府宣(公文書)を出して、西州鎮護の惣社として社域十二里を寄付した。
翌年の白鳳3年3月には天皇からの綸旨があって、英彦山、宝満山(竈門)に加えて福智山を本朝衣食の始祖、海西鎮護の三峯とし、鳥野神社には鞍手の粥田(かゆた)などが寄付された。
(福岡県神社誌)
こうして、鳥野神社は栗隈王によって再建された。
想像だが、栗隈王は大海人皇子を応援して鳥野神社に戦勝祈願をし、戦勝の暁には神社を再建しますと祈ったのだろう。祈りが通じ、大海人皇子が天皇となった。それを天武天皇もまた知って当社の再建を命じたと思われた。
天武天皇は白村江の戦いの時に、母の斉明天皇に付いて中間市にしばらく滞在したので、鳥野神社の霊験をもともと知っていたのだろう。
<20200730>










