2020年 08月 03日
9 近津神社 大宰総領の三野王が「高津の森」の社殿を再建した
近津神社に再びやって来た。

ここには前回出て来た栗隈王(くるくまおう)の子供の三野王(みぬおう)の名が出てくる。
三野王は父の栗隈王が筑紫率として筑紫に赴任していた時に、弟の武家王(たけいえおう)と共に大宰府にいた。
そんな折、天智天皇が崩御して壬申の乱が起きた。
天智天皇の子の大友皇子が即位するかと思いきや、大海人皇子(天武天皇)が挙兵した。
大友皇子は各地の朝廷軍に招集をかけた。
栗隈王は大海人皇子に仕えていたことがあったため、板挟みになった。
栗隈王と同じ立場の吉備守は殺された。
三野王と武家王は朝廷の使者が来たら、父の側に控えて守ることにした。
佐伯連男が大宰府にやって来た。
父が、太宰府の軍は外国に対する防衛軍なので出せないというと、佐伯男は剣の柄を持ち、父に近づこうとした。
三野王と武家王は剣を下げたまま、立ちはだかって父を守った。
佐伯男はそれを見ると、あきらめて何もせずに帰った。
西暦672年のことだった。
この後、天武天皇が即位すると、栗隈王は天武天皇に奏上しながら直方市の鳥野神社を再興した。
そして同じ直方市の近津神社には三野王がやって来た。
正確には直方市頓野にある小野牟田の西にあった「高津の森」だ。
やはり天武天皇の御代だった。
この時、三野王は大宰総領になっていた。
近津神社の祭神のうち、伊弉諾大神と伊弉册大神が「高津の森」に祀られていた。(福岡県神社誌)
この夫婦神は最初この「高津の森」に降臨し、のちに英彦山に移ったという。
三野王が国人に命じてこの聖地の社殿を再興させたので、「三野宮」とも呼ぶようになった。
そして、天平期になると藤原宇合がやって来て近津神社に合祀した。

地図で「高津の森」を探してみた。現在小野牟田池の西に丘がある。ここだろうか。拡大すると、石段が描かれているので、祠があるかもしれない。
この付近からは福智山と六ケ岳が見えるというので、なかなか面白そうだ。
結婚
三野王の妻は県犬養三千代だ。のちに橘姓を賜(たまわ)って橘三千代となる。
三野王と三千代の間には、三人の子が生まれた。
葛城王、佐為、牟漏女王だ。
三千代は三野王に付いて大宰府に来ただろうか。
西暦684年に三千代は葛城王を生んだ。
この直前に軽皇子(文武天皇)が生まれていて、どうやら三千代はその乳母(めのと)となったらしい。
このため、都に残って皇居に住んだことになる。
よって野王は単身赴任で、大宰府に行ったのだろう。
その後、持統8年(694)に三野王は筑紫大宰率になって大宰府に再び赴任した。

系図を見ると、近津神社に縁の深い三野王と藤原宇合だが、それぞれの子供、葛城王(橘諸兄)と広嗣が対立して広嗣の乱へと発展することになろうとは、誰も想像できなかったことだろう。
さて、のちに三千代は不比等の子を生む。
ウィキペディアでは三千代は三野王と離別したと書かれている。
三野王の死は708年と記されているが、701年に三千代は不比等の間に光明子を生んでいるので、これでは離婚説となる。
ただし、岩波万葉集の頭注では死別後の結婚とする。
つまり、三野王は600年代に死んでいる。
この混乱は当時「みぬおう」と呼ばれる人物がもう一人いたからだ。
「みぬおう」には三野王、美努王、美濃王など、複数の表記があるため、どちらがどっちか、特定できていない。
よって、三千代と不比等、そして前夫の三野王の関係は分からない。
三野王が大宰総領だったと近津神社の縁起に書かれているのは、新しい発見だ。
大宰帥と総領の関係もまだ研究途上にある。
神社の縁起から意外なものが出てきて興味深い。
<20200802>









