2020年 08月 06日
10 橘三千代 なぜ葛城王は橘諸兄になったのか
橘諸兄はもともと皇族で葛城王といった。
臣下に降って橘諸兄と改名した理由は何だろうか。
気になったので、母の橘三千代から考えてみることにした。
橘三千代の旧姓は県犬養(あがたいぬかい)だ。
「県犬養」姓は屯倉を守護する伴造氏族のひとつというので、裕福な豪族の娘のイメージがある。
生まれた年は不明だが、当時、豪族の娘が出仕する年齢が15歳前後だったので、天智4年(665)頃に生まれたと考えられている。この仮説に従って年齢を記していこう。
三千代は三野王(美努王)に嫁ぐと、19歳で葛城王を生んだ。
たまたまその前年に天智天皇の娘である阿閉皇女(阿部皇女)が軽皇子(かるのみこ)を生んでいた。
そのため、三千代が軽皇子の乳母(めのと)に選ばれたと考えられている。

話は変わるが、こちらは松田聖子。デビューは18歳。三千代もこの年頃だった。
こんな人が我が家にやって来たらどんな感じなんだろうか。
さて、話を戻そう。
三千代はその後、佐為と牟漏女王を生んだ。
その後、軽皇子が即位して文武天皇になった。わずか14歳だった。
それでは実際に誰が政治を執ったかというと、持統太上天皇だ。
(この時、小城の天山神社で房前と光と泉の話が出てきた。話が逸れるので、別稿にて)

701年、三千代は36歳の時、不比等の子・光明子を生んだ。前夫とはどうなったのか、分かっていない。
707年、三千代が42歳の時、わが乳を与えた文武天皇が25歳で崩御してしまった。
三千代の落胆は大きかったろうが、次の天皇は遡って母の阿閉皇女が即位して元明天皇となった。
即位した元明天皇は大嘗祭の時に三千代の功績を称え、盃に橘の花を浮かべて「橘宿禰」の氏姓を与えた。
この時から「橘氏」が始まった。
三千代の夫の不比等は右大臣になった。長男の葛城王(橘諸兄)も上奏文を挙げている。
716年、51歳。三千代の子・光明子が首皇子(おびとのみこ・聖武天皇)に嫁いだ。
720年、55歳の時に夫の不比等が薨去した。続けて元明天皇が危篤になると、三千代は出家した。
元明天皇の崩御によって、娘婿の首皇子が聖武天皇として即位し、娘の光明子は光明皇后となった。
727年62歳の時に光明皇后に皇子が誕生した。我が孫の誕生だ。
この時の祝宴で三千代は和歌を聖武天皇に献上している。読んでみよう。
序に出てくる「県犬養命婦」とは三千代の事だ。
太政大臣・藤原の家の県犬養命婦が天皇に奉った歌一首
4235
天雲を ほろに踏みあだし 鳴神も 今日に益りて 畏けめやも
(あまぐもを ほろにふみあだし なるかみも きょうにまさりて かしこけめやも)
【天雲を ゴロゴロと踏みちらして鳴る雷も 今日の天皇よりも 畏れ多いことがありましょうか】
わが娘の夫である聖武天皇を鳴神よりも畏れ多いと褒め称えた。どれほど喜ばしいことだったか。
天平5年(733)68歳で三千代は薨去した。女性の最高位になっていた。
苦労はあっても、華やかな人生を辿った人だと思う。
葛城王はその三年後、天平8年(736)11月11日に弟と共に「橘宿禰」の氏姓の継承を朝廷に申請し、許可された。こうして葛城王は「橘諸兄」となった。
当時、女性に姓が与えられることは格別なことだったはずだ。
三千代が死ぬと橘姓は一代限りで消えてしまう。それを惜しんで葛城王は姓を受け継いだのだろうか。彼は皇族なので、もともと姓を持っていなかった。
橘諸兄は多比能を娶った。多比能は母の娘(義理の妹)だ。義理の父になっていた不比等の子でもあり、藤原氏の中に紛れ込んでしまいそうだった。橘諸兄は橘姓にアイデンティティを求めたのかもしれない。
三千代の事を考えてみた。
元明天皇(阿閉皇女)からよほど慕われたのだろう。乳母として皇子と我が子を育てた献身的な姿が印象的だが、不比等からも慕われたのは、場を明るくし、人々を元気づけるような健康的でパワフルな女性だったからではないか。
そこで、どんな女性だろうかと考えて、松田聖子の画像を選んだ。

筑後橘氏
橘氏は筑後にも伝わっていて、蒲池家がそれにあたる。
松田聖子の本名は蒲池法子であり、橘家の末裔となるのだ。
生き方も橘三千代に似ているような気がしないでもない。
子育てで大変な時に松田聖子が自分の家に助っ人に来て、我が子に乳を与え、子守歌を歌ったら、と想像すると、元明天皇が三千代に大いに感謝し、姓と共に橘の甘い香りを浮かべた盃を与えた気持ちが理解できる。不比等もその姿に心魅かれたのだろう。
不比等が亡くなり、元明天皇も崩御すると、三千代は髪を切って出家した。潔い人だったと思われた。
<20200805>









