2020年 08月 09日
11 三野王 挽歌 馬を愛した男
他の歌を探すために開いたページに「三野王」の名を見つけた。
たまたま開けたページだった。
たまたまは良く出てくるパターンだが、偶然は必然なのだろう。
三野王のことを知っているのは、このブログの読者ぐらいなのだ。
それは三野王への挽歌だった。
3327
百小竹の 三野王 金厩 立てて飼ふ駒 角厩 立てて飼ふ駒
(ももしのの みぬのおほきみ にしのうまや たててかうこま ひむかしのうまや たててかうこま)
草こそは 取りて飼ふといへ 水こそは 汲みて飼ふといへ
(くさこそは とりてかうといえ みずこそは くみてかうといえ)
何しかも 大分青馬の 鳴え立ちつる
(なにしかも あしげのうまの いばえたちつる)
※「百小竹の」は枕詞
※金厩=西の厩 陰陽五行説から。木は東、火は南、金は西、水は北。
※角厩=東の厩 五音から。 宮は中、商は西、角は東、徴は南、羽は北。
※大分青馬=葦毛の馬。灰色の馬。
訳
【三野王が西の厩を建てて飼う馬 東の厩を建てて飼う馬
草を採って飼ったとはいえ 水を汲んで飼ったとはいえ
どうして葦毛の馬が いなないて立っている】
反歌
衣袖 大分青馬の いばえ声 情あれかも 常ゆ異に鳴く
(ころもそで あしげのうまの いばえごえ こころあれかも つねゆけになく)
※衣袖は枕詞
【葦毛の馬の いななく声よ 亡き王を慕う心があるのか いつもと違うように鳴いている】
三野王は西と東に厩を建てて何頭もの馬を飼った。その中でも最愛の馬が葦毛の馬だったのだろう。いななく声がいつもと様子が違うのは王が亡くなったことに気付いているからか。
三野王がさっそうと馬を乗りこなしていた姿が目に浮かぶ。

「大分白馬」とは葦毛の馬のことで、オグリキャップの毛色がそうだ。

日本画でもその斑(まだら)模様が美しく描かれているのを良く見かけるので、古来、日本人が愛した色なのだろう。三野王の身分でないと飼えない馬だったのかもしれない。
「みぬおう」はもう一人「美濃王」がいるので、橘諸兄の父かどうか特定できないが、「三野王」の表記から、諸兄の父その人と考えて構わないだろう。
三野王は父に随行して大宰府に行き、天武期に大宰総領となって近津神社の「高津の森」再興にひと役買った。
天武11年(681)天皇の命を受けて『帝紀』など上古の記録に従事した。日本書紀にも関わったと言われる。
持統8年(694)筑紫大宰率として再び筑紫へ。
大宝元年(701)造大幣司長官に任ぜられる。この年、元妻の橘三千代が藤原不比等の子を出産した。
その後、左京大夫、摂津大夫、治部卿などを歴任して、和銅元年(708)5月30日に卒去した。
天武11年以降の事績は三野王か美濃王かは特定できていない。
もし、これらが三野王だとすると、仕事を的確にこなす人だったと思われる。
そして708年に亡くなったのが三野王なら、三千代との生き別れは、不比等の略奪のせいだったのかもしれない。
それなら、橘諸兄が不比等の孫・広嗣を謀反者に仕立て上げていく気持ちも説明できる。
思いがけない挽歌との出会いで、広嗣の乱の心理的背景が少し見えたような気がした。

<20200809>









