2020年 08月 13日
12 藤原宇合 山道の杜に手を合わせればお前に逢えるのか
分厚い万葉本を机に置いて、適当な所で広げた。
すると「宇合」(うまかい)の字が目に飛び込んで来た。
たまたま開いたページにしては、偶然が続く。
ということで、流れに任せて、宇合の歌も読んでみることにした。
広嗣の父親だ。
広津神社に黄金の神体を奉納した人。44歳で薨去。

藤原宇合卿の歌一首
1535
わが背子を 何時そ今かと 待つなべに 面やは見えむ 秋の風吹く
(わがせこを いつぞいまかと まつなべに おもやはみえむ あきのかぜふく)
【あの方を 今か今かと 待っていると そろそろお顔が見れそう 秋の風が吹いてきたわ】
「背子」とは女性が好きな男性を呼ぶときの呼び方なので、この歌はどうやら宴席で「秋」の御題を与えられて、女性の立場で詠んだもののようだ。風が吹くと恋しい人が訪れるという俗信があったという。
式部卿藤原宇合卿、難波の堵(みやこ)を改め造らしめらるる時作る歌一首
312
昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は京引き 都びにけり
(むかしこそ なにわいなかと いわれけめ いまはみやこひき みやこびにけり)
【昔こそは 難波田舎と 言われたが 今は都を移して 都らしくなったなあ】
宇合は神亀三年(726)に知造難波宮事に任ぜられて、後期難波宮造営の責任者になった。
宇合32歳の時だった。工事が上手くって完成した喜びの歌だ。
次は大行天皇が難波宮に行幸された時の歌
72
玉藻刈る 沖へは漕がじ しきたえの 枕辺の人 忘れかねつも
(たももかる おきへはこがじ しきたえの まくらべのひと わすれかねつも)
【玉藻を刈るために 沖へ漕いではいくまい 枕辺にいる人を 忘れられない】
「しきたえの」は枕詞なので訳さない。
「玉藻刈る」は前回、危険を冒す恋に使われていたが、ここはどうだろう。都に残してきた妻がいるので、浮気はしない、という解釈でいいのかな。
「大行天皇」とは亡くなったばかりで諡号(おくりな)が付いていない天皇のこと。「先帝」という意味で使われる。ここでは文武天皇とされる。
が、文武天皇が行幸したのは文武三年(699)1月。宇合は5歳。このため、宇合の歌ではないとされる。
それよりも、大行天皇が文武天皇ではないと考える方が良いのではないか。
これを調べると数日かかるので、誰か専門家に任せるとしよう。

もう三首、宇合の歌が載っている。
宇合卿の歌三首
1729
暁の 夢に見えつつ 梶島の 磯越す波の しきてし思ほゆ
(あかときの ゆめにみえつつ かじしまの いそこすなみの しきてしおもおゆ)
【暁の 夢にお前が出て来た 梶島の 磯を越す波のように しきりに思い出される】
明け方の夢に想い人が出て来たのでずっと考えている。その思いは梶島の寄せる波のように休むことが無い。
この梶島は宗像の勝島ではないかという説がある。宇合が遣唐使の時や西海道節度使で大宰府に来たことがあるからだ。
るな的に驚いた。昨日、ちょうど勝島の海岸の画像を選んでいたからだ。
勝浦漁港の東側にアチメ浦を探しに行った時のもので、波が寄せたり引いたりするたびに、石がガラガラと音を立てており、その波の力に驚いた。ゲンコツほどの石が容易に波に動かされているのだ。

勝島と磯。磯にある小石は波によって打ち上げられたものだ。
梶島が勝島なら、宇合もあの激しい波音を聞いており、普通ではない、激しい恋心を詠んだ心だと理解できる。
1730
山科の 石田の小野の 母蘇原 見つつか公が 山道越ゆらむ
(やましなの いわたのおのの ははそはら みつつかきみが やまぢこゆらむ)
【山科の 石田の野の 柞の木が立ち並ぶ原を 見ながら君は 山道を越えているのだろうか】
これは京都市伏見区辺りで、奈良大和から近江に出る山道を通る公を思う歌。公が誰かは分からないが、父や身近な人なのかもしれない。
1731
山科の 石田の杜に 布麻置かば けだし吾妹に 直に逢はむかも
(やましなの いわたのもりに ぬさおかば けだしわぎもに ただにあはむかも)
【山科の 石田にある神の社に 幣を捧げれば もしかしたらお前に 直接逢えるだろうか】
宇合もこの山道を何度も通ることになった。途中にある神社に祈れば想い人に直接逢えるのだろうか。
宇合は22歳の頃から、遣唐副使として唐へ、按察使として常陸へ。持節大将軍として蝦夷討伐へ。知造難波宮事として難波へ。長屋王の変では六衛府の兵を率いて討伐へ。西海道節度使として筑紫へ。
愛する人とゆっくりと日常を過ごすことは出来ない人生だった。44歳の死は早かったな。
<20200813>









