2020年 08月 19日
14 光明皇后 私は藤三娘 阿修羅像と陰陽の太刀への思い
橘三千代の娘・光明子は万葉集では「藤原皇后、藤皇后」とも記されている。
藤原不比等の娘という意味だろう。
光明子自身は自分という存在を藤原家の人間と思っただろうか。あるいは橘家と思っただろうか。
そんな疑問が浮かんだ。
当時の貴族の結婚形態を考えると、初めは男が女の家に夜に三日間通って「三日夜の餅」を食べると正式な結婚となった。しばらくは通い婚で、男が独立して家を構えるようになると、女を迎えて同居した。
光明子の母の橘三千代の場合は、軽皇子(文武天皇)の乳母として多くは皇室で過ごし、単身赴任の三野王が帰宅すると屋敷に戻るような暮らしをしていただろう。
その三千代が不比等との間に光明子を生んだ時、三千代は推定36歳。不比等は42歳。
三千代は不比等の家で出産したと思われる。
だから光明子も父の家で成長し、自分は藤原家の娘だ、という自覚が生まれたことだろう。
光明子は16歳で同じ年の皇太子・首皇子(聖武天皇)に嫁いだ。
そして、すぐに女の子が生まれた。阿倍内親王だ。
それから二年後、父の不比等は薨去した。
母の三千代は、乳母として代わりに乳を与えた元明女帝が病気になると、その病気平癒の祈願のために出家した。もちろん、夫の供養もしたかったのだと思う。
この時、光明子は20歳になっていた。
光明子が24歳の時、夫の首皇子が即位して聖武天皇となった。
それから3年後、待望の男の子を出産した。基王(もといおう)という。
ところが、基王は一年足らずで死んでしまう。
光明子の哀しみは計り知れない。
この頃、母方の県犬養広刀自も聖武天皇の皇子を出産していて、そちらは元気に成長していた。
聖武天皇には妃(きさき)が五人いたが、聖武天皇が皇后としたかったのは光明子だった。
ところが、問題があった。
当時は皇后になるのは皇族出身という決まりがあったのだ。しかし皇族の妃からは子は生まれていなかった。
聖武天皇が光明子を皇后にしたくても、長屋王が反対した。
長屋王には皇位継承権がありながらも、祖母の尼子娘が皇族ではなかったために父が即位できなかったという経緯があり、聖武天皇のごり押しを認めることは出来なかった。
これも一因となって、長屋王の変が起きる。
禁軍を指揮して長屋王の屋敷を包囲したのは光明子の義兄の藤原宇合だった。
長屋王が自決すると、聖武天皇は光明子を皇后にした。
それは平民から皇后が出た先例となった。
しかしその数年後、733年に母が死に、さらに数年後、母方の橘諸兄が父方の藤原広嗣を討った。
光明子はどう思っただろうか。
母方と父方の間に血の争いが起きた。
この時、夫の聖武天皇は家出するかのように都を出て行った。
両家の板挟みの中、光明子の苦悩は大きかっただろう。
ゆえに私は思った。
橘家と藤原家の血筋を受けた光明子はアイデンティティをどちらに持ったのだろうか、と。
そんな私の疑問に答えるサインがあった。
それは光明子の書に書かれていたものだ。
「藤三娘」(とうさんじょう)
そこには「私は藤原氏の父と三千代の母の娘」という意味が込められていた。
切ない思いで書いたのだろう。
光明子の心には両家の分離はなかった。どちらも愛おしいものだった。
光明子の書を見た時、なんと深く筆を入れるのだろうと思った。
力強い字だ。
こんなに強い字を書ける人だから、貧しい人を救うことができたのだと納得した。
光明子には後宮の中で、心を突き動かす夢があった。
それは、衆生(しゅじょう)の救済だった。
仏教への深い信仰に目覚め、行動していくのである。
母の出家からも影響を受けたろうが、愛児の死は発心の大きなきっかけとなっただろう。
興福寺の西金堂に納められた阿修羅像を発願したのは光明皇后だ。
興福寺は父不比等が建立した。
そこに納めた阿修羅像などの少年の顔は、六歳児や十歳児の顔だった。
それは死んだ基王の架空の成長を重ねたものだろうという説がテレビで紹介されていた。
そこに愛児を失った光明子の尽きない哀しみが見える。
しかし、光明子は立ち上がった。
光明皇后は全国に国分寺を作るように夫に頼み、貧しい人、病の人のために施設を作った。
その行動力はその書体を見て納得できた。
東大寺は聖武天皇によって建立された。
光明皇后はその正倉院に天皇や自分の宝物を納めた。
そして、そこから二振りの太刀を持ち出して東大寺の大仏の足元に埋納させたのも光明皇后だ。
私自身がこの二振りの太刀を知った時、ちょっとしたシンクロがあった。
それは鞍手町の古墳から出た銀冠を調べに図書館に行った時だ。
正倉院の宝物のリストに多くの太刀があるのを見て興奮した。
しかも、現代と同じような付箋が付いているのも面白かった。
その直後だ。
ニュースで、そのリストの筆頭にある太刀が、正倉院から移されて大仏の足下に納め直されたという発見が流れた。
記事を見ると、十年前だ。
今、ようやく光明子の思いに触れることが出来たと思った。
万葉集には、光明皇后が聖武天皇に贈った、ちょっとした歌がある。
1658
藤皇后の天皇に奉る御歌一首
【光明皇后が聖武天皇に奉った御歌一首】
わが背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし
(わがせこと ふたりみませば いくばくか このふるゆきの うれしからまし)
【あなたと 二人で見たなら どれほどか この降る雪が 嬉しいでしょうか】
光明皇后が後宮で一人過ごしている時、雪が降り出した。帝と一緒だったらどれほど嬉しかっただろうか。
そんな気持ちを、何の力み(りきみ)もなく、思うがままに歌っている。
二人の間の愛情が穏やかな、信頼に満ちたものだったことを伺わせて、微笑みが生まれる。
<20200818>
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読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。