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ひもろぎ逍遥

15 志賀の荒雄は対馬への食糧輸送中に遭難した



今日も開いたページシリーズだ。

志賀の荒雄(あらお)の歌が出て来た。

志賀村の荒雄宗像の津麿に頼まれて対馬に向かう途中で遭難した話は良く知られているが、それは万葉集に記されていたからだ。

目に留まった文字は「神亀年間」。
これは天平の直前の年号だ。
つまり、前回の光明子の時代でもある。

神亀年間の出来事としては、光明子が基王(もといおう)を出産したが、その基王が亡くなったり、長屋王の変が起きたことが挙げられる。



さて今回のテーマ、志賀の荒雄の話は長く、十首も載っているので、手を引こうとしたが、今朝の目覚めのヴィジョンは「志賀の荒雄」だった。
やはり、スルーはできないようだ。



志賀の荒雄の話は万葉集の3860番から3869番に出てくる。

後書(あとがき)に詳しく状況が書かれているので、それを先に現代語訳して読んでいこう。

自分で訳してみると、志賀島と宗像には上下関係があるのが分かった。

「宗像の津麿」が志賀村に行く時は「詣でる」の字を使い、自分のことを「僕」と呼んでいる。
「僕」とは下僕の僕で、しもべ、下位に立つ意味だ。


(後書き)
右の歌(3860番から3869番)について。
神亀年中に、大宰府が筑前国宗像郡の百姓宗形部津麿を指名して対馬に食糧を送る船の舵取りに充てた。すると津麿は糟屋郡志賀村の白水郎(あま)の荒雄(あらお)のもとに参上して言った。

「僕(われ)にはちょっとした事情があります。多分許されないだろうとは思いますが」
と言うと、荒雄が
「われはそなたと郡は違えど、船乗り同士として長い付き合いだ。志は兄弟に対してよりも篤く、死に殉じることがあろうとも、どうして話を受けないことがあろうか」
と答えた。

津麿は
「大宰府の役人が僕(われ)を指名して対馬の食糧輸送船の舵取りに任命しましたが、顔も歯も衰え、海路を渡る体力がありません。ゆえにこうしてわざわざ参りました。願わくば、わたくしめの代わりに行ってはくださいませぬか」と申し上げた。

荒雄は承諾して、それを引き受け、肥前国松浦縣の美祢良久(みねらく)の崎から出港し、まっすぐ対馬を目指して海を渡った。ところが急に空が暗くなり、暴風に雨を交えて、順風なく、海中に沈んでしまった。

これを聞いた妻子たちは子牛が母牛を慕うように悲しんでこれらの歌を詠んだ。

また、ある人は「筑前国守山上憶良臣が妻子の心の痛みを悲しく思って、代わりにこの歌を作った」ともいう。


上の要旨は、大宰府が対馬に食糧を運ぶ船の船長として宗形津麿を任命したが、津麿は老体であることを理由に志賀島の志賀村に詣でて、荒雄に相談をした。荒雄は代わりに行くことを快諾したが、五島列島の美祢良久を発つと、暴風雨に遭って遭難したというものだ。

先述のように、荒雄に対しての敬語がみられることから、志賀の荒雄は広範囲の海人族らを統率する存在だったことが伺える。

また、ここには魏志倭人伝とは違う航路が具体的に書かれていて、当時のようすが分かる例となった。


荒雄は志賀島から北上して対馬に向かわず、いったん長崎の五島列島に向かっている。
それは対馬海流のせいだ。

志賀島から対馬に渡る時、対馬海流があるのでそのままでは東に流されてしまう。
そこで、一旦長崎まで行ってから海流に乗っていく航路を使っている。

松浦縣の美祢良久(みねらく)は今、長崎県五島市 三井楽町という地名で残っている。





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これと違う航路を辿ったのが神功皇后だ。

この時には、「中西の風」を利用したので、まっすぐ北上することができた。
「中西の風」とは冬の暴風で、「大西の風」とは春一番などの春の暴風だ。
だから、年に二回ほどしか直線北上の航路は利用できなかった。

この中西や大西の風を逃すと、荒雄のように遠回りをしなければならない。

神功皇后がこの時の風の名を尋ね、「中西の風」と教えた志賀の白水郎は神功皇后から中西姓を賜った。
そんな話を箱崎の氏子さんから伺った。伝承にも残っている。



また、対馬への食糧運搬を大宰府が担っていたこともこれで分かった。
延喜式主税上には
「筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後などの国は、毎年、穀を二千石、対馬島に送る。それで島司や防人の食糧に充てる。」
とある。


この神亀年間の大宰帥(だざいのそち)は誰だろうか。

神亀四年(727)の年末からは大伴旅人だ。神亀は五年で終わる。
だから、荒雄の遭難事件は旅人の赴任中か、あるいは赴任直前の事となる。

さらに、後書きには十首の作者について、妻子説と山上憶良説が記されている。
山上憶良は大伴旅人より少し前に筑前守となっていた。

だから、大伴旅人も山上憶良も赴任直前だったかもしれないが、よくこの事件を知っていたはずだ。

作者については、十首を実際に読めば、荒雄の妻子自身が詠んではいないのは一目瞭然だ。
妻子自身が詠めば一人称となる。しかし歌は三人称となっているので、憶良が詠んだと考えらえる。



その十首を読んでいこう。

筑前国の志賀の白水郎(あま)の歌十首

3860
王の 遣わさなくに 情進に 行きし荒雄ら 沖に袖振る
(おおきみの つかわさなくに さかしらに いきしあらおら おきにそでふる)
【王が 遣わしたわけではないのに 情を優先して 行った荒雄が 沖で袖を振っている】
※「荒雄ら」の「ら」は複数ではなく、愛称。



3861
荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出で立ち 待てど来まさぬ
(あらおらを こむかこじかと いいもりて かどにいでたち まてどきまさぬ)
【荒雄を 帰って来るか来ないかと 飯を盛って 門に出て立って 待つが帰ってこない】



3862
志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが よすかの山と 見つつ偲はむ
(しかのやま いたくなきりそ あらおらが よすがのやまと みつつしのばむ)
【志賀の山の木を ひどく伐らないでください 荒雄が心を寄せる山として 見ていたいから】



3863
荒雄らが 行きにし日より 志賀の海人の 大浦田沼は さぶしくもあるか
(あらおらが いきにしひより しかのあまの おおぬまたぬは さぶしくもあるか)
【荒雄が 行った日から 志賀の海人の住む 大浦田沼は さびしい】

※大浦は勝馬にあり、田沼は「田沼田」として残っているという。
五句「さぶしくもあるか」は原典は「不楽有哉」で、「たのしくない、つまらない」。



3864
官こそ さしてもやらめ 情出に 行きし荒雄ら 波に袖振る
(つかさこそ さしてもやらめ さかしらに いきしあらおら なみにそでふる)
【役人から 指名されたなら仕方がないが 情をかけて 代わりに行った荒雄が 波間に袖を振っている】



3865
荒雄らは 妻子の産業をば 思はずろ 年の八歳を 待てど来まさぬ
(あらおらは めこのなりをば おもわずは としのやとせを まてどきまさぬ)
【荒雄は 妻子の生業を 考えていないのか 長年 待っても帰ってこない】

※「八歳」は長年の意味。



3866
沖つ鳥 鴨とふ船の 還り来ば 也良の崎守 早く告げこそ
(おきつとり かもとうふねの かえりこば やらのさきもり はやくつげこそ)
【鴨という名の船が 還ってきたら 也良の崎守よ 早く知らせよ】

※「沖つ鳥」は鴨にかかる枕詞で訳さない。「也良の崎」は能古島にある。



3867
沖つ鳥 鴨とふ船は 也良の崎廻みて 漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも

(おきつとり かもとうふねは やらのさきたみて こぎくと きこえこぬかも)
【鴨という船が 也良の崎を廻って 漕いでくるぞと 聞こえてこないかなあ】



3868
沖行くや 赤ら小船に 嚢遣らば けだし人見て 披き見むかも
(おきゆくや あからおぶねに つとやらば けだしひとみて ひらきみむかも)
【沖を行く 赤い公の小船に 包みを託したら もしかしてあの人が 開いて見るかもしれない】



3869
大船に 小船引き副え 潜くとも 志賀の荒雄に 潜きあはめやも

(おおぶねに こぶねひきそえ かづくとも しかのあらおに かづきあわめやも)
【大船に 小船を引き添えて 潜って探しても 志賀の荒雄に 海の中で会えるだろうか】



荒雄の乗った船の名は「鴨」。彼が住む所は勝馬だ。
志賀村は当時は志賀島全体を指していたのだろう。
也良の崎は能古島の北端にある。


航路を考えてみた。

博多湾は浅くて大正時代まで大型船が通れなかった。
よって、大宰府の荷は那の津辺りに集約され、そこから小舟で能古島の港に移して、そこから公船の「鴨」に乗せたのだろうか。

一方、志賀島の荒雄は自船で能古島に行って、公船の「鴨」に乗船したのだろう。
「也良の崎」には見張り所があって、いち早く知らせがあった。


しかし、勝馬に住んでいる妻子の視点では捉えられない。

多分、 山上憶良の想像で描いたものだろう。









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海の中道からは能古島が良く見える。


<20200823>


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by lunabura | 2020-08-23 11:04 | 万葉と広嗣の乱 | Comments(0)

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