2020年 11月 29日
追記あり 福岡の考古学では福津市が消えている?件
昨日は古賀市で出土した船原古墳の講演会を聴講してきました。
出土した馬具の杏葉に「玉虫の羽根」が使われていたことが判明しました。
国宝級の出土物ということで、その詳しい話を聞いてきました。
その話は別の機会に記すとして、最近、地理の話が変な方向に向かっているので心配になってきました。
私は機会を見つけては考古学の先生の話を聞きにいきます。
学ぶことは多いのです。ところが、地理の問題が少し気になるのです。
最初に気になったのは数年前です。「福津市」にある宮地嶽古墳を「宗像市」として発表する学者がいました。その人は福岡県外の人だったので、仕方ないかな、とその時は思いました。
ところが、別の講演会に行った時、配られた福岡の地図に、福津市が載っていませんでした。
福津市が出来て何年になるでしょうか。
まさか、福津市が無い地図が堂々と配られているなんて…。
そして、昨年、別の講演会に行ったら、「名児子山」(なちごやま)は福津市ではなく、香椎の近くにあるという話が紹介されました。香椎近くに良く似た地名があるらしく、古代道もあったということのようです。そういう新説を聞いて興奮して話してあったので賛同されているのでしょう。
でも、似た地名が見つかったというだけで、香椎説が正しいように結論づけるのは問題があります。
名児子山を詠んだ歌には大己貴や少彦名が詠まれています。
福津市の名児子山の周辺に大己貴や少彦名が祀られているのを知って、それに触発されて詠まれたものなのです。死んだ夫の名に似ていると。
海沿いの古代道ももちろんあります。
歴史ある福津市の名児子山を否定するなら、それなりの論理が必要だと思います。
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【追記挿入】
万葉集 963番
冬11月、大伴坂上郎女が帥の家を出立して、筑前国宗形郡名児山を越える時に、作る歌一首
大汝 少彦名の 神こそは 名付け始めけめ
おおなむち すくなひこなの かみこそは なづけそめけめ
名のみを 名児山と負ひて わが恋の 千重の一重も 慰めなくに
なのみを なごやまとおいて わがこいの ちえのひとえも なぐさめなくに
意味:「名児山」という名は大己貴と少彦名の神が初めて付けたそうだが、名ばかりナゴ山と付いていても私の恋の千分の一もナゴんだり慰められたりしない
坂上郎女の亡くなった夫の名が「すくなまろ」です。当地には「すくなひこな」を祀った神社がいくつかあって、夫の名を思い出したのです。詞書に「宗形郡」とありますね。当時は津屋崎まで宗形郡でした。香椎は糟屋郡(かすやのこおり)です。
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そして、昨日の講演会では宗像の範囲が広がって、糟屋郡新宮町や古賀市も宗像だったという説が紹介されました。万葉集から導き出したといいます。
福津市はもともと宗像郡に属してた時代があるので、そういう意見が出ても仕方がないですが、古賀市も新宮町はもともと糟屋郡(かすやぐん)です。
講師は新宮町の相島も宗像と言われました。
何故なら宗像を向いているからと。
え?
相島が宗像を向いている?
相島は福津市を見ていますよ。
積石塚群に立つと宮地岳が見え、宮地嶽神社の屋根が見える時もあります。
万葉集では相島は「玉勝間 安倍の島」と書かれています。
宮地嶽神社は安曇族の阿部氏です。
その旧殿は相島を見、「光の道」は相島に届いています。宮地嶽神社と相島は相思相愛です。
安曇族の聖地・志賀島も相島を奥津城とした証言があります。
志賀島もかつては糟屋郡でした。
福岡市東区もそうです。
安曇族の神社が並ぶ海岸を何故、宗像族と呼ぶのでしょうか。
宗像族の奥津城は宗像市にあります。
しかし、世界遺産登録の時、宗像市の古墳は無視して、福津市の津屋崎古墳群をセットにして宗像族の奥津城として発表しました。
福岡の考古学界?はいったい何をしたいのでしょうか。
昔のことですが、私が質問した時、「ああ、伝承ね」と小馬鹿にされたこともありますが、地元の伝承をないがしろにして、どんな歴史を作ろうとしているのでしょうか。
日本書紀も伝承の集まりです。
魏志倭人伝も伝承の集まりです。
新奇な説よりも、2000年も地元で伝えられた伝承の方が大切です。
と、考える一日でした。
<20201129>