2020年 12月 22日
巫女を出す家系 水沼君 と三女神信仰圏と道主貴
RKBラジオの収録の予定が急に入ったので、拙著を読み直している。
今シーズンは『神功皇后伝承を歩く下巻』78の大善寺玉垂宮からだ。
当社の主祭神は玉垂命。
神功皇后の朝鮮半島出兵の後、長崎回りで有明海から凱旋した時、久留米市の大善寺に御座船を乗り付けたのが玉垂命だ。
「玉垂」の語源は『高良玉垂宮神秘書』には高良大菩薩(玉垂命)が干珠と満珠を高良山に持ち込んだことから付いたと記されている。
船を操縦し、かつ干珠満珠を司ったのは安曇磯良だ。
新羅では干珠満珠を使って引き潮と満ち潮を起こし、敵の船を引っ繰り返した。
日本書紀では国の半ばまで波が上がったというので、津波を起こしたのがこの干珠満珠だ。
敵の船がひっくり返った時、神功皇后の御座船はひっくり返らなかった。
その理由は「にな貝」が船の底にびっしりとついていたからだ。このことから「にな貝」は干珠満珠と共に勝利のアイテムとなった。その一センチほどの白い巻貝が大善寺玉垂宮の「船つなぎ楠」に生息している。
さて、氏子に尋ねると、この大善寺玉垂宮はもともと「女の神さま」が祀られていたという。
大善寺はもと三潴郡(みずまぐん)で、水沼(みぬま)とも言った。
すなわち、水沼君の都がここ、大善寺だったのだ。
それを記録していたのが赤司八幡神社の方だ。
赤司八幡神社も水沼君で、社家ももともと水沼だったのが、戦国時代に神殿を焼くか、名を捨てるかと迫られて、結局、名を捨て、神殿を守った歴史がある。
二つの神社は同じ久留米市だ。
赤司八幡神社は景行天皇を案内した水沼族の猿大海の居館があった所で、景行天皇はそこを三女神の降臨した聖地として祭壇を設けて祀った。
日本書紀にも、水沼君は三女神をいつきまつる一族と記されている。
三女神が神に「道主貴(みちぬしのむち)として祀られよ」と言われたのは水沼三女神の方だ。
景行天皇は三女神をよほど信仰していたのだろう、朝倉や飯塚など、各地で三女神を祀っている。
その水沼三女神の信仰圏は大変広く、筑後平野の各地に分布しており、さらには安心院などにもその祭祀が見られた。
水沼族は赤司八幡神社を聖地とし、南の大善寺を都とした。また、その近くにある高三潴(たかみずま)は政治の地だった。
その政治の地にいたのが国乳別皇子(くにちわけのみこ)だ。国乳別皇子は景行天皇の子で、水沼と通婚した。赤司八幡神社では天皇代行として三女神を祀り、高三潴に居を構えて、そこで薨(こう)じた。その墓は前方後円墳だ。
この国乳別皇子は弓頭大将として神功皇后と共に出兵して再び高三潴に戻って来た。
で、先程の、もともと祀られていた「女の神様」とは水沼三女神のことということになる。
この水沼君は巫女を出す家柄で、この筑後川流域には三女神を祀る巫女が代々いて、あるいは巫女自身が女神として祀られるようになった可能性も考えられる。

水沼の巫女は月にある変若水(おちみず)という若返りの水を泉に写した。まさしく鞍馬山のウエサク祭と同じだ。
筑後川流域の三女神を祀る神社は宗像三女神に名を変えたが、もともと水沼三女神と呼ぶべきものだろう。
水沼様という意味で「水沼方」(みぬまかた)というのが「むなかた」に変化したのだろうと考えている。
神功皇后の時代、水沼族は三女神信仰を持って半島出兵に従った。凱旋すると名島神社で三女神が祀られるようになったのは、この水沼族の三女神だ。そして敬意を表して水沼族の三女神を「みぬま方」と呼んでいたのが「むな方」となったのではないか。
そう考えれば、宗像族を育んだ釣川流域に三女神の姿が見えない説明がつく。
この話をラジオでするのは難しいなあ。その一部でも伝えられたら良しとしよう。
水沼君については、良く質問を受ける。
拙著では、実はこの大善寺玉垂宮の所でしっかりと書いているので、赤司八幡神社と組み合わせて読むと、概要が掴めるようになっている。水沼族の奥津城については、弓頭神社のところに記している。
(主題が神功皇后なので、水沼君や安曇族は副主題になっています)
<20201222>
いずれ書けるかなあ。
いや、いつか必ず書きましょう(^^♪









