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ひもろぎ逍遥

双方中円墳が うきは市に出たゆえ



今日は大晦日。


さすがに原稿を書くのは止めようと思っていたが、12月29日に九州初の「双方中円墳」が「うきは市」で発見された事が新聞に載ったため、頭の中を整理するために、連載の続きを書いてしまった。



双方中円墳が うきは市に出たゆえ_c0222861_11442906.jpg
西日本新聞 20211229





何せ、ウキハ物部の事を書いている最中だったのだ。

またもや、シンクロ。


秦氏が豊前に居たことについて書いていた。


秦氏を韓国まで迎えに行ったのが葛城襲津彦(かつらぎそつびこ)だ。


ところが、新羅の妨害に遭って三年も戻らないため、弟と息子が助けに行く所を書いている。息子というのが的戸田(いくはのとだ)だ。


葛城襲津彦の父親は武内宿禰。

すなわち「脇巫女」の時代の人たちだ。


的戸田の出自の「いくは」の場所が特定されていない。

地元民としては、「浮羽」(うきは)が「いくは」であることは当然の如く知っているのだが、これが世に出ていないのだ。


うきは市のことは、日本書紀に書かれている。


景行天皇の時代、筑紫では盃(さかずき)を「うき」「うきは」と言っていた。景行天皇が的邑(いくはのむら)に着いた時、村の食事係が「さかずき」を忘れたことから、地名が「うきは」となり、「いくは」となったという。

「生葉」と書いて「いくは」と読む。


また、風土記にも似たような話が書いてある。


ここには的物部がいたのである。


そうなると、最近まで世に出ていなかった物部神社や、神武天皇を迎えた八咫烏が居た賀茂神社に触れたくなる。


神武天皇や景行天皇を迎えた的の邑(うきは市)は弥生時代から栄えていた邑なのだ。


そこから、出たのが双方中円墳というのだから、関係ないはずがない。

時代は3世紀後半というので、接近している。


これに付いて考察して、少し記述したら、気持ちが収まった。


午後からおせち作りに取り掛かろう。

もう、例年、定番のおせちは作っていない。


黒豆は今年は小豆で代用した。

小豆を柔らかくなるまで煮ると、それを人は「あんこ」と呼ぶ。(*^-^*)


では、良いお年を!


20211231



by lunabura | 2021-12-31 11:46 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25