2021年 12月 31日
双方中円墳が うきは市に出たゆえ
今日は大晦日。
さすがに原稿を書くのは止めようと思っていたが、12月29日に九州初の「双方中円墳」が「うきは市」で発見された事が新聞に載ったため、頭の中を整理するために、連載の続きを書いてしまった。

何せ、ウキハ物部の事を書いている最中だったのだ。
またもや、シンクロ。
秦氏が豊前に居たことについて書いていた。
秦氏を韓国まで迎えに行ったのが葛城襲津彦(かつらぎそつびこ)だ。
ところが、新羅の妨害に遭って三年も戻らないため、弟と息子が助けに行く所を書いている。息子というのが的戸田(いくはのとだ)だ。
葛城襲津彦の父親は武内宿禰。
すなわち「脇巫女」の時代の人たちだ。
的戸田の出自の「いくは」の場所が特定されていない。
地元民としては、「浮羽」(うきは)が「いくは」であることは当然の如く知っているのだが、これが世に出ていないのだ。
うきは市のことは、日本書紀に書かれている。
景行天皇の時代、筑紫では盃(さかずき)を「うき」「うきは」と言っていた。景行天皇が的邑(いくはのむら)に着いた時、村の食事係が「さかずき」を忘れたことから、地名が「うきは」となり、「いくは」となったという。
「生葉」と書いて「いくは」と読む。
また、風土記にも似たような話が書いてある。
ここには的物部がいたのである。
そうなると、最近まで世に出ていなかった物部神社や、神武天皇を迎えた八咫烏が居た賀茂神社に触れたくなる。
神武天皇や景行天皇を迎えた的の邑(うきは市)は弥生時代から栄えていた邑なのだ。
そこから、出たのが双方中円墳というのだから、関係ないはずがない。
時代は3世紀後半というので、接近している。
これに付いて考察して、少し記述したら、気持ちが収まった。
午後からおせち作りに取り掛かろう。
もう、例年、定番のおせちは作っていない。
黒豆は今年は小豆で代用した。
小豆を柔らかくなるまで煮ると、それを人は「あんこ」と呼ぶ。(*^-^*)
では、良いお年を!
<20211231>









