人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

17 広嗣の乱の鎮圧凱旋を伝える大富神社の神幸祭 紀宇麻呂たちは寝返った


バスハイクなどで神社巡りをしていると、時々、広嗣の乱に出くわす。

それを調べて行くと、どうしても藤原広嗣の哀しみに心が動かされる。


6月のバスハイクで行った豊前市には大富神社があった。


当社では豊前市最大の祭と言われる春季神幸祭・名越祭が催行されているが、これは広嗣の乱を鎮圧した時の紀宇麻呂(きのうまろ)の凱旋がきっかけで始まったという。

 


紀宇麻呂という人物は上毛郡(こうげぐん)の郡擬(ぐんぎ)だった。

当時の天皇は聖武天皇だ。


藤原広嗣は大宰府から上表文を送ったが、その意図が悪意に解釈され、広嗣は謀叛人に認定されてしまう。


広嗣討伐の勅命が下され、大野東人(あずまんど)が大将軍に任命された。

大野東人は1万五千の軍を率いて下関までやってきた。


藤原広嗣は遠賀郡の郡家に本営を定めていた。

豊前地方の「鎮(兵営)」は広嗣の配下にあった。


北九州市の板櫃(いたびつ)鎮、京都郡の京都(みやこ)鎮登美鎮(上毛郡付近)の三つだ。


天平12年9月21日に、大将軍・大野東人は豊浦郡少領である額田部(ぬかたべ)広麻呂に精兵40人を授けて関門海峡を渡らせた。


さらに、その翌日には4000人の兵士を九州に渡らせ、まずは北九州市にあった企救(きく)郡板櫃鎮を襲わせた。板櫃鎮の大長である三田塩籠(しおこ)は命からがら逃げ出した。


朝廷軍はその二日後、24日には京都(みやこ)郡館長や板櫃鎮の小長らを捕えて殺害し、生け捕りは176人に上った。


朝廷軍はわずか3日で、重要な兵営を掌握したのだ。


翌日の25日、京都郡大領の楉田勢麻呂(しもとだのすぐまろ)ら、豊前の長官たちは官軍に帰順した。この中に先程の紀宇麻呂が含まれていた。


9月29日には九州諸国に広嗣が逆賊であることが布告された。


そして、10月9日に、北九州市の板櫃川で朝廷軍と広嗣軍が対峙し、広嗣は釈明することなく前線を離れた。


以上は史書に書かれた記録だ。

大野東人の作戦は見事だった。


これらを知った上で、大富神社の名越祭を見てみた。


福岡県神社誌によると、

「聖武天皇天平12年9月に藤原広嗣を征討する時、京都郡・楉田勢麻呂、仲津郡・膳東人、下毛郡・男岐美麻呂、築城郡・佐伯豊石、上毛郡・紀宇麻呂らが戦勝祈願をした。」とある。



朝廷軍の容赦ない攻撃に豊前の将軍たちは緊急に話し合ったのだろう。


その結果、豊前は広嗣方から官軍方に寝返った。

そして、一同は打倒藤原広嗣を誓って、大富神社に戦勝祈願をした。



17 広嗣の乱の鎮圧凱旋を伝える大富神社の神幸祭 紀宇麻呂たちは寝返った_c0222861_13474134.jpg

では、いったいどの神に祈願したのだろうか。

当社には八幡三神、宗像三女神、住吉三神が祀られている。


神社誌によれば、もともと創立は景行天皇の時で、岩屋の土蜘蛛を討伐して凱旋した日に当社は祀られた。


続いて仲哀天皇が下関市の豊浦宮におられる時に宗像大神を本社に合祭したともある。


ウィキペディアの方には

「はじめ真早という者に宗像三女神の神託が下されたのに始まり」とあった。


景行天皇は福岡県の各地で三女神を祀っているので、当社もその一つなのだろう。


のち、白鳳元年(671)に神託が降りて、住吉大神、八幡大神を祀ったという。


そうすると、紀宇麻呂が戦勝祈願をした時には当社の神々はすべて揃っていた時になる。


戦勝祈願は天平12年(740)9月で、凱旋は翌年の13年だった。


広嗣は10月9日の板櫃川の決戦後、10月23日には官軍に捕えられて11月1日に処刑されている。事件の処理は天平13年(741)1月22日に行われたという。


紀宇麻呂らは、事件の処理が行われた1月以降に帰国したのだろう。

当社の神々にお礼参りをし、それが春季神幸祭の起源となった。


広嗣が都にいた頃、恋人の元から朝帰りして送った歌が万葉集に残されている。

訳は他の人のとは違う。私の訳だ。

1456

この花の 一与のうちに 百種の 言そ隠れる おぼろかにすな

(このはなの ひとよのうちに ももくさの ことぞかくれる おぼろかにすな)


【君にあげる この桜花の内に たくさんの 言葉が隠れているよ おろそかにしないでおくれ】


あの板櫃川で、言葉足らずだった広嗣。

それを象徴するような歌に思えてならないのだ。


大富神社 福岡県豊前市大字四郎丸256


20220708


Commented by ペコ at 2022-07-20 15:58
 この花の 一与のうちは 百種の
言持ちかねて 折らえけらずや
この花の一枝は、あなかの伝えたかった たくさんの言葉の重みで折れたのでしょうか? ちゃんと言いなさいよ💢
恥ずかしくて言葉に出来ない思い、どうか察しておくれよ… という男心
たとえ分かっていても、言葉にして伝えて欲しいのが女心というもの…
広嗣は、口下手で不器用な生き方の人だったのでしょうね。
だから、弁明をしたとしても結果は同じだと悟ったのか… 言い訳を良しとしない真の もののふとしての潔さだったのか…
結果的に政敵の謀略に屈するという悲しい最後になってしまったのですね…
歴史というものは、真実はどうであれ
勝った側の正義になってしまうものですから…
by lunabura | 2022-07-08 13:49 | 万葉と広嗣の乱 | Comments(1)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31