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ひもろぎ逍遥

18 金富神社 宇努男人が創建に関わったのは隼人の乱の直後だった



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金富(きんとみ)神社は福岡県の築上(ちくじょう)町に鎮座している。


築上町は周防灘(すおうなだ・豊前海)に面した所にあり、古代も瀬戸内海の航路の出発あるいは終着点として賑わったことだろう。


北は行橋市、南は豊前市に接している。


祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、木花咲耶姫命、高淤加美神となっている。 


高淤加美(たかおかみ)神は水の神だが、明治時代に合祀された。

木花咲耶姫が祀られている事情は分からなかった。


金富神社の創立は神亀元年(724)というので、当ブログでは比較的新しい時代に属する。


当時の天皇は即位したばかりの聖武天皇。豊前守(かみ)は宇努男人(うぬのおひと)という人だ。


当社は宇佐神宮の造営と大きく関わっていて、宇佐神宮の元宮、あるいは霊地とも言われているという。


福岡県神社誌から縁起を復元してみた。


<聖武天皇の御世、神亀元年(724)に豊前守(かみ)だった宇努男人(うぬのおひと)と藤井連毛人が勅命を受けて宇佐小倉山(宇佐神宮)に神殿を造営した。


この時、大神某(おおがのなにがし)に神託が降りて、築城郡(ついき)にある安岐の水戸(別名赤坂の湊)の金富の岡に宇佐の神の神幸があった。これが現在の金富神社の境内に当たる。


当時、ここに三間の仮殿を造って、斧立(おのたて)の行事が行われた。その翌日には本庄村の楠宮で杣立(そまたて)があり、そののち神輿(みこし)は再び当社に戻って来た。そして、翌日、神輿は宇佐神宮に還幸した。


この時以来、宇佐神宮が造営される時には当社に神幸があり、斧立の行事が行われるようになった。>


聖武天皇の勅命で宇佐神宮の神殿が造営された。

その時、神殿に使う木材の斧立が当社で行われ、それが当社の起源となったという。


ここで、注目したいのが豊前守の宇努男人という人物だ。


神社誌には「豊前守男人」としか書かれていないが、当時の豊前守は宇努男人(うぬのおひと)である。


宇努男人は福岡市の香椎宮の海・香椎潟で歌を詠んだ人として紹介したことがある。

その時詠んだ歌は次のようなものだ。


959

 豊前守宇努首(おびと)男人の歌一首


行き帰り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し

(ゆきかえり つねにわがみし かしいがた あすゆのちには みむよしもなし)


【行き帰りに常に見ていた香椎潟も 明日から後は 見ることもない】


宇努男人は豊前守の任期が終わって都に戻る時に、香椎宮に参拝してこの歌を詠んだ。


常にわが見し」とあるので、宇努男人は豊前から大宰府政庁に何度も登庁していたのだろう。


この時には大宰帥(だざいのそち)だった大伴旅人が、彼を見送るためにわざわざ香椎宮まで来て一緒に歌を詠んでいる。


それが著名な次の歌だ。


957

いざ児ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ

(いざこども かしいのかたに しろたえの そでさえぬれて あさなつみてむ)


【さあ、みんな、 香椎潟で 袖を濡らして 朝の玉藻を刈ろう】


大伴旅人と宇努男人と言えば、隼人の乱を鎮圧したときの大将軍と将軍の関係になる。

だから、この二人は戦友としても、格別に思いが通じ合っていたのだろう。


この二人が関わった「隼人の乱」が起きたのが、養老四年(720)だ。


乱は一年で制圧された。


乱が起きた時、宇努男人は宇佐神宮で戦勝祈願をしている。


聖武天皇が宇佐神宮の神殿を建てるように勅命を出したのは、この四年後の事なので、戦勝のお礼として宇佐神宮の神殿を建てたのが分かる。


このための木材の斧立がこの金富神社の地で行われた。

宇努男人は京都郡(みやこぐん)にあった豊前国府からここに来て、その行事を取り仕切ったのだろう。


隼人の乱後、その慰霊のために放生会が始まった。


また、大伴旅人はあの、令和の典拠となった「梅花の宴」催したあと、隼人の民の困窮ぶりを聞いたのだろう。


朝廷に対して、隼人の免税などを上奏している。それが隼人の乱から十年後の天平2年(730)の事だった。


大伴旅人の言葉でずっと気になっているものがある。


それは大伴旅人は大宰府に赴任した時、香椎宮で詠んだ歌で、


「わが大王が治められる国は 日本此間(ここも)同じだと思っています」(956番)

というものだ。


大伴旅人は「日本」と「此間」という表現をしている。

つまり、九州は「日本」ではないという意識があるのである。


それでは「此間」とは何か。

その答えは中国の歴史書に書かれている。


それが「倭国」のことだ。


大伴旅人は倭国が滅んだ後も、倭国と日本はまだ別のものだという意識が残っていたのである。


「広嗣の乱」が起きたのは、その十年後の天平12年(740)だった。


広嗣が初めて来た九州でいきなり謀反を起こすほど、九州の豪族をまとめる力などなかった。


九州に来ると、すぐに小郡(おごおり)市に連れて行かれて大中臣神社の創建に関わっている。


「連れて行かれた」と私が書くのは、当然ながら、小郡市が何処にあるか、広嗣が知っているはずがないからだ。


九州では旧倭国の豪族たちの、新日本に対する政権奪回の思いがずっと醸成されていて、たまたまその旗頭として藤原広嗣が持ち上げられたのである。


44代 元正天皇 在位:715年(霊亀元年)- 724年(養老8年)

45代 聖武天皇 在位:724年(神亀元年)- 749年(天平勝宝元年)


養老4年(720)隼人の乱

神亀元年(724)聖武天皇の勅で豊前守・宇努男人が宇佐神宮の神殿を造立 金富神社にて斧立神事。

神亀五年(728)豊前守・宇努男人が帰国 香椎宮参拝

天平12年(740)広嗣の乱 大富神社にて紀宇麻呂らが戦勝祈願 翌年凱旋 


20220709




Commented at 2022-07-12 02:24
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by lunabura | 2022-07-11 09:39 | 万葉と広嗣の乱 | Comments(1)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25
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