2022年 08月 29日
古墳時代の沼にはまっている
磐井の一族について、続きを書いている。
締め切りは来年の夏だが、いつ書けない事態が来るか分からない、混沌とした時代なので、書ける内に書こうという魂胆だ。
あちこち、バラバラに知った古墳や神社が磐井の系譜で繋がっていくので、一人で推理小説を読んでいるような気分になっている。
古墳の沼にはまっている。
が、どうしても分からない人物がいる。
それが「勝守」(かつもり)という人だ。
飯塚市の宮地嶽神社に祀られている神で、その両脇には「勝村、勝頼」が祀られている。
「勝村、勝頼」は葛子の子だ。
だから、謎の勝守とは三兄弟だったのかもしれないと思って、飯塚市の図書館で調べたが、何年も分からないままだ。
無人の神社なので、氏子さんも分からない。
総本社の方で分からないかと、福津市の宮地嶽神社で尋ねたが、やはり分からなかった。
祭神の祀り方としては、左右の脇神が兄弟なら、親神が祀られるのが一般的だという。
そうなると、葛子=勝守となる。
葛子とは、磐井が死んだあと、筑紫君を継いだ人だ。
粕屋の屯倉(みやけ)を献上したことが日本書紀に書かれている。
葛子の読み方は「くずこ」が一般的だが、神社の方では「かつこ」と呼んでいる。
「かつむら、かつより」の父・葛子を「かつこ」と読む可能性は大きいし、実名が「勝守」だったとしても不自然ではない。
「葛」が「ふじ」と読まれる例が万葉集に出て来る。
「葛成」という人だ。これは「ふじなり」と読む。
宮地嶽神社の祭神が「阿部」と呼ばれたり、「藤」と呼ばれるのはこの植物が絡んでいると、思うようになった。のちの藤原氏だ。
私の中には「勝守」は「鞍橋君」(くらじのきみ)ではないかという思いがまだ残っていた。
宮地嶽神社で、ついついアピールした。
「鞍橋君って、弓が強いんです。
百済の聖明王の子供に余昌王子という人がいるんですが、その人を助けた人です。
聖明王が戦死した時、鞍橋君は余昌王子と一緒に新羅に侵入して城塞にいたんです。
敵に囲まれて、どうしようもなくなった時、鞍橋君が敵将を射て、敵の包囲網を崩して、間道から逃げたんです。
弓が強いといえば、宮地嶽の古い祭神の高麿、助麿も筑紫の弓の強者でした。
神功皇后の親衛だったんです。
神社には弓の神事など、伝わっていませんか」
と、何か手掛かりが欲しくて、ぶちまけると、
「宮地嶽神社は三又の鉾です。鉾なら伝わっているんですが、弓については伝わっていません」
と言われた。
この時、私はある事を思い出した。
それは、実家の墓を作り変えた時、修験僧の方に来てもらって神事をしてもらったのだが、神事を終えると、
「三又の鉾が現れました。何か分かりますか?」
と言われたのだ。
だが、実家に三又の鉾の言い伝えはない。
「いえ。何も伝わっていませんが」
と答えた。その時は剣岳の話題も出て来たが理由は覚えていない。
三又の鉾を先祖は持っていたのだろうか。或いはそれを象徴としたのだろうか。
とその時は思ったが、あるいは先祖は宮地嶽神社関係の人に道案内されたのではないか、とふと思った。
宮地嶽神社は修験道と関係が深い。
修験者なら、あの山の山の奥のことも知っていた可能性がある。
清らかな水が流れ、巨大な磐があり、敵がとうてい探せない場所。
後日、宮地嶽神社の宮司さんから連絡をいただいた。
修験は英彦山が一番で、次が倉持山だという。
倉持山は京都郡の犀川の近くにある。地名は片島という。
飯塚市の宮地嶽神社の住所も片島と言う。
奇妙な符合だった。
「くらもち」山は「くらじ」とも読めるが、偶然だろう。
倉持山(片島)ー勝守山(飯塚市片島の宮地嶽神社)-宮地岳(福津市の総本社)の修験の流れが考えられるという。
何だか、修験道でアプローチする方法がありそうだ。
この辺りは、チェリーさんにバトンタッチしよう。
<20220817>
祠が残っているだけみたいですが、小高い山の上に鎮座している古い写真等グーグルマップで見れますよ。(°▽°)
3月に飯塚の宮地嶽神社に行きました。
御祭神等が書いてありましたが、私はあれは、神功皇后を勝守大神と呼んでいると解釈し、どうして神功皇后を勝守大神と呼んだんだろう?という方向で疑問に思ったものでした。
単に、勝利を守護する神様って意味なのかなぁとは思っておりますが…。
個人的には、志賀海神社に現れたという勝馬明神が、勝村・勝頼大神や勝守大神に何か関係しないだろうかと気になっております。









