2022年 11月 03日
三つの兜(かぶと)を比べてみた
12月に行く古墳の一つに鶴見山古墳があります。
この古墳は岩戸山古墳の後に築造された古墳で、大きさは八女古墳群の中でNO3です。
NO1と言えば、もちろん岩戸山古墳です。
鶴見山古墳から出た石人は岩戸山古墳の歴史資料館で堂々たる雄姿を見せています。

画像の右がその石人です。
で、ふと、この兜は岩戸山古墳とはタイプが違うなと思って並べてみました。
上の三つの兜(かぶと)は左から、船原古墳(復元)、岩戸山古墳、鶴見山古墳となります。
船原古墳の兜は細長い革の板を綴ったもので、岩戸山古墳とそっくりだと以前紹介しました。
このデザインは、身分の高い人が付けるもので、遠くから見ても、すぐに偉い人だと分かるものだそうです。
出土物から、このデザインは岩戸山古墳から船原古墳の時代まで、すなわち西暦528年頃から西暦600年頃まで、言い換えれば聖徳太子が新羅討伐を決意する頃まで、続いていたわけです。
これに対して鶴見山古墳の兜を見ると、明らかに異なった様式です。
二つの兜の大きな違いは鉢が丸型と山型という点にあります。
岩戸山古墳の兜は丸いので、多分、ミヅラに結った人が使うものです。
戦国武将が甲冑姿になる時に髪を降ろすのは、髪を結ったままでは被りにくいからと考えています。
これに対して、山型になっているのは多分、サイヅチ型。つまり、韓国や中国の歴史ドラマで良く見るように、頭頂で髪を結ってる人が被るタイプに見えます。
両者は兜の形は違っていますが、どちらも石人ですから、同じ石人文化圏です。
鶴見山古墳の石室のデザインを見ると、腰の辺りまで板石がぐるりとあって、何となく熊本の装飾古墳で見た石室に雰囲気が似ているんですね。
もしかしたら、肥後の人が埋葬されているのかな、とか考えたりしました。
磐井君は豊や火国と通婚して北部九州の結束を固めたので、肥後の人と言っても、磐井の一族の可能性がある訳です。
鶴見山古墳を葛子君の墓という説がありますが、私は疑問を持つようになっていました。
今回兜を見比べると、葛子の墓としてはやはり糟屋郡の鶴見塚古墳の方が有力だろうと思いました。
<20221103>