2022年 12月 06日
「玉垂」とブログの始まり
昨日は、来年317の「玉垂」の舞台監督を現地に案内しました。
香椎宮で待ち合わせて、まずは参拝。
「ひもろぎ逍遥」は香椎宮から始まったんですね。
かつては手を合わせると海の香りがして不思議に思いましたが、今はそれが何だったのか分かります。
また、ブログを始める時にペンネームが欲しくて、ここに参拝した事を話しました。
「るな」はもともと自分で成りたかった名前なのですぐに決まりましたが、名字が思いつかなかったんですね。
そこで、香椎宮の神様に教えてもらおうと思って参拝した訳ですが、手を合わせるなり、「あやすぎ」と男の人の声が聞こえきて、それで「綾杉るな」になりました。
そんな話をしながら狭庭斎場へ。
そこでは「スピカ」を祀っていたという話を真鍋の本で知って、信じられずにしばらくは、そのことを書けませんでした。

そして志式神社の海に行ったのですが、そこでは氏子さんから、神功皇后の陣営地だった話を伺いました。
そして、「神楽があるから是非見に来てください」と言われ、夜中に出掛けて「磯良舞」を見ました。
内容は、武内宿禰がここに来て、安曇磯良に干珠満珠を頼み、磯良が海神の元に行くと、「良い舞を舞うなら授けよう」と言われ、磯良が舞ったけど、よぼよぼだったので、「帰れ、帰れ」と言われ、手ぶらで戻って来ると、今度は豊姫(武内宿禰の妻)が代わりに行って舞い、干珠満珠を授かるという話です。
それから一週間ほどだって久留米市の高良大社に行くと、高良大社の縁起絵巻の前でほぼ同じ話を聞かされました。
志賀島の海ノ中道と久留米市の高良大社が同じ話を伝えてる????
何故?
山と海なのに。
「安曇磯良って、誰?」
古事記を見ても、日本書紀を見ても出てこない。
そこから手探りで探し始めました。
一方、合気道の祖の植芝盛平にも「高良玉垂の干珠満珠は豊玉姫と玉依姫」というような一文が出て来て、高良大社に電話して尋ねると、干珠満珠の話をしていただきました。
志式神社の奈多の浜はその舞台だった訳です。
だからそこを「神楽坂」とか「踊り岸」とも言う。
そして、干珠満珠を授かる前に神功皇后が志賀島の神と皇祖に祈るために船で行ったのが志賀島の沖津宮でした。
そこで、神楽を奉納しようとするけど、天鈿女の舞が出来る人がいない。
磯良なら舞えるが…。
しかし、磯良はなかなかやって来ない。
「音曲が好きなイソラなので、神楽を始めると必ず来ます」
と陪従が言ったので、磯良抜きで天の岩戸神楽を始めると、七回目に我慢できなくなった磯良が黄金の亀に乗ってやってきた。
その時、白い布で顔を隠し、鞨鼓(かっこ)という大きな鼓を胸に下げて鳴らしながら。
その衣装は白。
こんな話を現地で話しながら歩くと、
「これってブログの始まりから、今に続いていたんだ」と思ったんですね。
十年かけて教えられた話。
そして、藤枝守さんが現れて、2019年に「イソラの三つ目は綾杉さんにお願いします」
と皆の前で言われて、断れずに「はい」と言った。
そうして出来上がったのが「玉垂」。
ひもろぎを逍遥した事がここに集約されていくんだな、
そんな感想を持った志賀の島巡りでした。
香椎宮の拝殿の海の香りはここに繋がっていました。
安曇磯良は志賀海神社の拝殿の左手、今宮神社に祀られています。
<20221206>