2023年 03月 30日
ワダツミ43 相島積石塚 石の龍を伝って昇魂の葬送をしたのか
私は二人を積石塚に案内した。
いきなり四角の古墳、相島大塚に出た。

墓道が整備されて、歩きやすくなっていた。
発掘調査報告書によると、初めから墓道が作られていた。
私が訪ねた頃は、それがやや狭い形で残っていたが、最近道幅を広くして整備されていた。
この石だらけの浜辺は下を掘っても掘っても、石しか出ないという。
この墓域を形成したのは安曇族だ。
地元でも、そう伝え、志賀島からの証言もあった。
加えて、島にまつられている女神が豊玉姫と玉依姫だということがそれを裏付けている。
宗像族の墓域とする説があるが、それは勘違いだ。
相島には三女伸は祀られていない。
この墓域の左手の一番奥の円墳が、最後の時代の築造となる。
それが磐井の乱の時代と重なっている。
だから、磐井の乱と関連付けて語る人もいるが、私の印象では、この墓域の面積の限界が来ただけのように見える。墓地が満杯になったのだ。
だから、その後は対岸の津屋崎地方に土の古墳を作るようになったと考えている。
さて、相島大塚については、かつて志登神社で崋山に懸かった豊玉姫から、ここで遺体が燃やされたという話を聞いていた。
崋山が実際に見ると、大塚の下の方の話だと言う。
つまり、かつて火葬が行われた場所に古墳時代になって積石塚が作られたということだ。
崋山は、当時の海の民は肉体を海に戻すために、その灰を海に流したと語った。
私は二人を左手の奥の方に案内した。
墓域の奥には私が勝手に「龍頭石」と呼ぶ磐座がある。
蛇の頭の形をした磐座で、その足元には供物が置かれていて、誰かが祈っていた。
そこに至るには、長い石塁の横を通って行かなければならない。
石塁は蛇のようにくねっていて、左右に足が交互に出ている。
歩きづらくて仕方がない。
足がある蛇といえば龍だ。
だから、この石塁は龍を模したものではないか、と以前、ブログに書いたが全く反応はなかった。
この説を私が出したのは、当時、熊本の久米八幡宮にやはり足のある龍の石塁を見たばかりだったからだ。
久米八幡宮もまた安曇族だった。
「龍頭石」まで案内しようとしたら、山の土砂が崩れて、石を半分飲み込んでいた。
わずか、数年の間に変化していた。
この先、数年したら、「龍頭石」は埋もれてしまうのだろう。
写真は最後の姿になる。
私は崋山に「石塁は龍を模したものではないか」と説明した。
すると崋山も同意して語り始めた。
「この地の人は亡くなると、海に戻るために火葬して灰を海に流し、魂は天に戻るためにこの龍を伝って昇って行った」
という内容だった。
なるほど、墓と龍はそんな仕組みだったのか。
この地で行われた葬送の儀式の跡だ。
ただし、これは古墳時代の前の話になる。
「龍頭石」に行くのはあきらめて、戻ると、眼鏡岩と小さな砂浜が見えた。
海の色も深くて美しい。
崋山は「あそこで重要な儀式が行われた」と言って、ずっと見ていたが、具体的なものは語らなかった。
それを聞いて私が思い出したのは、風読みのべガの話だ。
「ウーナ」に記録しているが、あの眼鏡岩で鏡の儀式が行われているのをべガは視たという。
ベガが言うには、
「浜辺から二艘の小舟を出して、眼鏡岩に向かった。
それぞれの船に鏡を一枚ずつ持った人が乗っていて、太陽の光を反射させてお互いに照らし合った」
という内容だった。
今思えば、それは六ケ岳のウーサの洞窟でアミラとカミラが試みた内容とそっくりだった。
六ケ岳の洞窟の中にはマナの壺があって、扉でふさがれていた。
その扉を開けるには、鏡を使って太陽光を当てなければならなかった。
アミラとカミラはそれぞれ鏡を持っており、太陽光を反射させて扉に当てれば鍵が開くという仕組みだった。
ところが、木が邪魔をして上手く照射できなかった。
二人が必死で試みている間に、日が沈んでしまった。
こうして二人は扉を開けることに失敗したのだが、その後悔を三千年も抱えて転生していた。
現代になって分かったのは、二つの鏡を反射し合って、扉に当てる仕組みだった。
ベガが語る、相島の眼鏡岩と二つの鏡。
崋山が語る、ウーサの洞窟と二つの鏡。
これが妙に相似形を成していた。
<20230330>










