昨日は博多港からフェリーに乗って志賀島に行きました。
博多港は港の賑わいというのでしょうか、雑多なお店が異国情緒も生み出して、雑然とした雰囲気が素敵でした。
金印号に乗りました。
西戸崎に一度寄って、志賀島の棚の浜に到着します。
棚の浜というのは神功皇后が「棚を作ってほしい」と言って、急遽、棚をこしらえた場所なんですね。
神を祀る棚だったのでしょう。
昔も今も大型船が泊まれる港なんです。
昔、西戸崎から博多港にフェリーに乗って行ったことがあるのですが、島々が箱庭のように見えて、とても感動した記憶があって、今回はどんな風に感じるのか、楽しみでした。
今回は、バスハイクのメンバーと一緒です。
皆、デッキの席に着いたのですが、途中、気づくと皆さん総立ち。
座っていられないほど楽しそうでした。

博多港は荒津の東にあります。水深が浅く、今も浚渫(しゅんせつ)をして水深を確保しています。
神功皇后の時代は画像では周船寺(周船寺)付近の今津湾が港でした。
江戸時代の絵を見ると、小さな帆掛け船に船頭さんが立って竿を持って渡っています。
ですから、昔も大型船が着く港は限られていました。
これは歴史を考える時に重要なポイントになります。
今回フェリーに乗って景色を見たのですが、ずっとずっと福岡ドームが視界に入ってきました。
離れたかと思うと近づくような感じです。
そして能古島にも近づいたかと思うと、離れて行く。
そして、旅も終わる時、最後に金印公園に立って見ると、能古島は全く違う形で見えました。
倭国を守るのに、絶対重要な金印公園と能古島の間の海。
能古島と糸島の間も大切。
その間を通る船を監視することが国防上、とても大切だと分かりました。
おそらく、それより北の玄海島と志賀島~糸島はさらに重要で、監視体制もしっかりとあったと思います。
話は変わりますが、
志賀の荒雄が遭難して戻ってこない時、山上憶良が妻に代わって歌を詠んでいます。3866番
沖つ鳥 鴨とふ船の 還り来ば 也良の崎守 早く告げこそ
(おきつとり かもとうふねの かえりこば やらのさきもり はやくつげこそ)
夫が乗った船は「鴨」というの
戻ってきたら
也良の崎守よ 早く教えて
金印公園に立った時、也良の岬が目の前に見えて
この歌がぐっと身近に思えました。
何も知らないフェリーの旅も感動しましたが、
歴史を知って、あるいは万葉歌を知って旅するのはまた格別でした。
重層の響きの中で多くの感情を知る。
そんなフェリーの旅になりました。
<20240527>