2024年 06月 23日
枕草子に書かれた手長足長とは小熊座と大熊座だった 藤原氏とは
NHK大河ドラマ「光る君へ」を見ていると、時々、かつて読んだ枕草子の中の単語が頭の中をリフレインします。
例えば「手長足長」とか。
手が長い人と足が長い人を描いた絵が宮中にあって「おそろしげ」だと清少納言は書いています。
ずっと変な絵だな、と思っていました。
そして、今『儺の国の星』の「星と神話」を書いていますが、「手長足長」が出てきました。
それは「小熊座と大熊座」のことだと書かれていました。
清少納言は中宮・定子に仕えていましたが、定子は弘徽殿(こきでん)に住んでいました。
そこから天皇の住まいの清涼殿は繋がっているので、清少納言は行き来するのですが、弘徽殿の戸を開けると、目に飛び込んでくるのが「手長足長」が書かれた「荒海障子」(あらみのしょうじ)でした。
荒れた海に手が妙に長い男と、足が妙に長い男が描かれているのですが、「おそろしげなる」と言って、気味が悪かったのか、「にくじ」をしては笑ったと書いています。
手長族と足長族は古代中国の地理書「山海経」(せんがいきょう)に出てくる民族で、漁をする時には協力し合ったそうです。
漁をする時には、足長が手長を背負って海に入り、手長が長い手を利用して魚を捕ると。
何ともいえない協力関係です。
これが実は「小熊座と大熊座」の象徴だというわけです。
二つの星座は北で協力しあってずっと回っている。
これを観測すれば、時刻が分かった。
そして「荒海」(あらみ)とは「星見」(あらみ)のことで、「時を正しく違えぬよう」という戒めの絵だったといいます。
置かれた場所も清涼殿の「北東」なので、方角もバッチリです。
「北の星の観測を心せよ」と言っていたのです。
藤原氏などの貴族にとって、これは当然の戒めだったのですが、清少納言はそれを知る由もありませんでした。
ただ、気味の悪い絵と思って、尋ねもしなかったのでしょう。
藤原氏は弓が強かったということで、ドラマでは競射するシーンもありました。
私は藤原氏のルーツは宮地嶽神社だと突き止めてから、白村江戦のあとの藤氏の姿として「ひかる君へ」を見るようになりました。
宮地嶽神社は阿部氏であり、藤氏なのです。
どうして二つの氏があるのか、ずっと考えていましたが、もともと藤氏であったのが、葛子君が婿入りして阿部氏も名乗るようになったのだ、と考えるようになりました。
そして、中臣鎌足は、死を迎える直前に「藤氏」の姓を受け継ぎ、倭国王家の名を残そうと願ったと。
だから、藤原四兄弟の藤原房前(ふささき)とか、対馬に異国人が侵略して来た時、わずか十代で総大将として軍船を率いて戦うことができたわけです。
対馬もまた安曇族の拠点です。
大事なルーツの地だったのです。
藤原広嗣も大宰府に来て、二十代でいきなり反乱軍の総大将に持ち上げられています。
刀伊の入寇の時には、たまたま藤原隆家が大宰府に来ていたので、総大将となって女真族の侵略を食い止めました。
筑紫勢にとってはいずれも「御大が戻ってきた」という歓迎ムードあったのです。
清涼殿に置かれた荒海障子のメッセージ、「星見で時を違(たが)うな」
これはまさに安曇族や物部氏の星見の技術を伝える事なのでしょう。
そして、藤原隆家にはその知識があったので、捕らえた女真族が星見の技術に長けていたのを知って、大変感銘を受け、大宰府に伝わる星見の技術を書き残そうとしたのだと。
それが『儺の国の星』の原点。
すべてが繋がりました。
<20240623>