2024年 08月 29日
安曇族の謎の杯状穴 高良山―安心院―安曇野をつなぐもの
RKBラジオの「古代の福岡を歩く」が長野県安曇野の安曇族の足跡を放送中ですが、第20回で鼠穴についての放送がありました。
北安曇郡松川村鼠穴地区にある鼠石は岩についた一つの穴が特徴で、当地は安曇族のいた所とされているといいます。
これを見て、私が探し求めていた安曇の痕跡の一つではないかと放送を聞きながら思いました。
同様のものが久留米市高良山にあり、そこでは馬蹄石となっています。また、宇佐市安心院(あじむ)では足一騰の石(馬蹄石)となっています。
二つの馬蹄石については、高良山の方は玉垂命が付けた印で、安心院の足一騰は玉依姫が付けた印とそれぞれ伝えています。
共通するのが二人とも安曇族だということです。
岩に付けた不定形の小さな穴は安曇の印ではないかと、類例を探しているところでした。
そして、今回、安曇平の鼠石の穴を知りました。もちろん、こちらも安曇族。
安曇野は宇都志日金拆(うつしひがなさく)が開拓した地と言われています。
宇都志日金拆は穂高見命ともいいます。
豊玉姫の弟で、志賀海神社では今宮の方に祀られています。
少し、記憶を巻き戻して、当初の謎を思い起こしてみました。
それは『高良玉垂宮神秘書』』を訳していた時に始まりました。
久留米市高良山の馬蹄石
高良山の神籠石は明治時代に、本来は「八葉の石畳」と呼んでいた列石を「神籠石」と当時の学者が発表したために、混乱が生じました。
神籠石は巨大な岩盤です。
そこにある杯状穴は馬のヒズメの足型をしており、馬蹄石(ばていせき)と呼ばれて玉垣で囲まれています。
これについて『神秘書』には次のように書かれていました。口語訳を記します。
まずは神籠石について。
129条
【訳】
神籠石は「八葉の石畳」を築き始め、また築き終わるまでしばらく神が立っていらっしゃったことから「神籠石」と書いて「こうごいし」と読む。
328条
【訳】(訳をさらに読みやすく改変)
神籠石の上に大菩薩(安曇磯良)の神馬の爪の型がある。
これは安曇磯良が高牟礼命に御宿を借りられる時、上宮より高牟礼命が下ってこられ、道の途中で、
「こちらへいらっしゃった訳は」と仰せになった。
大菩薩が重ねて
「こちらへ留めてください」と言われたので、
「それならば、その印を」
と高牟礼命が仰せになったところ、大菩薩は神馬のヒヅメの型を岩に付け、
「これを印に召されよ」
と言って、その高牟礼のおわします所に留まられた。
その夜、出し抜いて「八葉の石畳」を四方に築き、高牟礼命をその外に出された。このために高牟礼命は今も変わらず外にいらっしゃるのである。
これは、もともと高良山には高牟礼命がいたのを、安曇磯良が一晩の宿を貸してほしいと言って、高牟礼命が応じたところ、安曇磯良が八葉の石畳を敷いて結界としたため、高牟礼命が戻れず、その外に祀られたという伝承があり、その古い形と思われます。
ここに出てくる「大菩薩」とは玉垂命(安曇磯良)のことで、白鳳2年に出家したことによって高良大菩薩となったと『神秘書』に書かれています。
この結界騒動について、『神秘書』では高牟礼命が玉垂命に「印」を求めたとあります。玉垂命は神馬のヒヅメの跡を付けると、高牟礼命は納得して宿を貸したというんですね。
何故、高牟礼命が納得したのかは書かれていません。
馬蹄の形の穴に何の意味があったのか。
その謎がずっと心に引っかかったままでした。
安心院の馬蹄石 足一騰(あしひとつあがり)
そして、安心院に行って、そこにも馬蹄の穴があることを知りました。
足一騰は「片足上げた」という意味で、北斗七星を指したり、賀茂氏の炉の炎を見つめる片足立てた座り方を指したりします。
ここでは、神武天皇が母の玉依姫を祀った時、川の石の上に玉依姫が現われて「信心を忘れないように」と言って、神馬のヒヅメの跡を付けて山に飛びあがったという話があります。
玉依姫はもちろん安曇族の姫です。
そこにある妻垣神社は、一時期、八幡神関連の祭神となっていましたが、神殿から本来の祭神が玉依姫であることが書かれた書き付けが出てきたことから、玉依姫を表に出されました。
今年、再びバスハイクで安心院に行きましたが、これまでと違うルートを通った御かげで、二つの山があり、それぞれ玉依姫と豊玉姫が祀られていることが分かりました。海神も一緒です。
豊玉姫が誰によって祀られたのかはわかりませんが、二人の姫が祀られたということは、安心院が安曇の地であることの宣言に他なりません。
そこにある馬蹄石。
二つの杯状穴は同じ意味を表している。
安曇族の印としての杯状穴。
ただ、二つだけでは推測に過ぎず、他に類例がないか、と考えていました。
安曇野の鼠石の鼠穴
そして、今回のラジオ放送で出てきた「鼠石」。
安曇族が開発したという安曇平の「ねずみ石」。
それは「あづみ」の変化とも言われているそうです。
ただし、いわれは全く不明。
安曇野を開拓したのが豊玉姫の弟の宇都志日金拆。
安曇野の開拓の目的は先日書いたように、葦原の褐鉄鉱の開発だろうと思っています。
宇都志日金拆の「ひかな・ひがな」の字にあるように、鉄を開発した意味が込められているのだろうと考えていました。
そして、その妃の名は氷鉋斗売(ひかなとめ)。
文字からは出来上がった鉄の氷のような輝きと切れ味が想像されます。
鉋はその道具。あるいは「鉄穴流し」(かんなながし)の「かんな」すなわち「鉄製品」
二人に共通する「ひかな」とは求めた鉄の輝きだと思います。
そして、斗売(とめ)とは鳥部(とべ)の変化。
鳥部とはエジプトのテーベを漢字にしたもの。
真鍋の本に、エジプト渡来の一族を指すとあります。
(これについては、今執筆中)
まとめ
時系列に並べ変えると、
【長野の安曇野 鼠石】 おそらく宇都志日金拆の時代に付けられたもの 豊玉姫の時代
【大分の安心院 馬蹄石】 玉依姫の馬の蹄跡 神武天皇の時代
【高良山の馬蹄石】 安曇磯良が付けた馬の蹄跡 神功皇后の亡き後の時代
こんな感じになりました。
安曇族の印として、馬蹄の形の杯状穴があったのでしょう。
さて、これが何を表すのか。
もう少し、詳しく分かればいいのですが。
とりあえず、備忘録。
<20240829>