2024年 10月 29日
1 日と鷹と三隈
大分県日田市の三つの丘に「隈」の字がついていることから、真鍋のいう「天文観測所」ではないか。
また、月と星と日の三天体の名がそれぞれの丘についていることから、それぞれの天体を観測する所ではないか。
それを統括するのが三丘の中央部に鎮座する玉垂神社ではないか。
そして、そこで倭国の暦が作られたのではないか。そんな仮説を立てた。
天文観測所の条件としては、もう一つ、稲荷神社があることも手掛かりになる。
稲荷の両脇に並ぶキツネ像は「玉」と「巻物」をくわえているの基本だが、「玉」とは隕石のことで隕鉄を象徴し、巻物は暦のことだと真鍋はいう。「キツネ」そのものの語源が「日経」(ひつね)という暦だともいう。
この原則が日田市の三隈で成り立つのか。
また三つの丘は人工の可能性はあるのか。
そんな疑問を解決すべく現地をまわった。
日と鷹神話と三隈
三つの丘の成り立ちは「日と鷹神話」になっていた。
それによると、日田盆地は、もともと東西5キロ、南北10キロの湖だったという。
地神の第五代ウガヤフキアエズ命の時代に東からやってきた大鷹が湖で羽をひたして北へ去った直後、大地が鳴動して雷光が走り、湖の西の端が崩れて湖水が流れ出した。
その直後、三つの丘が現われた。三つの丘は日隈、月隈、星隈と呼ばれ、川は三隈川と呼ばれて筑後川に流れていった。(豊西記)
地理的には阿蘇山の9万年前の大噴火による火砕流によって台地がいくつも形成された所に湖が出来たと考えられ、ウガヤフキアエズの時代に西の壁を壊して平野を作ったことが神話として語られたと思われる。おそらくここも葦原だったのだろう。褐鉄鉱の宝庫だ。
これまで九州の各地を回りながら、湖の水抜き伝承にいくつが出会ったが、ウガヤの時代前後に集中しているのが分かった。
ウガヤフキアエズの母は豊玉姫だ。もちろん阿曇族の姫だが、弟に穂高見命がいる。名は宇都志日金拆(うつしひかなさく)命といい、志賀海神社の今宮に祀られている。日金拆が安曇野の水を抜いて開拓したことから、当地の象徴的な山である穂高山の名を採って穂高見命とも呼ぶようになったという。その地は安曇野と呼ばれるようになった。
大分県の由布院もかつては湖だったが、宇奈岐比売が従者の道臣命に命じて西の壁を蹴破らせて平地を作ったという神話がある。その残りが金鱗湖だ。
宇奈岐比売の時代がいつなのか分からないが、道臣命といえば神武天皇の従者にもその名が見える。
宇奈岐比売の道臣と神武の道臣が同一人物か、資料があればと思うが、今のところ見つかっていない。個人的には同一人物ではないかと思っている。大伴氏だ。
さらに、阿蘇山のカルデラ湖にも水抜き神話がある。
カルデラ湖はもともと介鳥湖といった。神武天皇の孫の健磐龍(たけいわたつ)が西の壁を蹴破って水を抜いて平野にしたという。
これらの水抜き神話を時系列に並べると、
長野県安曇野(宇都志日金拆)⇒日田盆地(ウガヤフキアエズ)⇒由布院盆地(神武期・道臣)⇒阿蘇のカルデラ湖(健磐龍)
となる。
まさしくウガヤフキアエズの時代の前後に開拓神話は集中している。
弥生時代の初期だ。
山がちな九州の大地に、まだ海水が高かった弥生の小海進期、海岸線には平野は少なく、あっても干潟の状態だった時代、湖の水を抜いて平地を生み出して農業を始め、葦原の褐鉄鉱を採掘したのが、水抜きの目的ではないかと考えている。
阿蘇のカルデラ湖が一番広大なので、各地の盆地で技術を向上させて、最後に巨漢の阿蘇湖に挑んだのではないか。
今回のテーマである日田盆地もまた、東から来た日と鷹をシンボルとする集団が水を抜いたのだろうと想像する。
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