2024年 10月 31日
2 月隈神社 稲荷と横穴墓群
丸山城、あるいは永山城という。日田が天領だった時代の代官所跡地でもあるという。この南にはひな祭りで知られる豆田町がある。すぐ隣には野球で知られる日田林工もあり、素晴らしい環境にある高校だったことを知った。
正面から入城するとすぐに月隈神社の鳥居があり、緩やかな石段が続く。
そして、横穴墓が次々に現れた。
石段は玉石とコンクリートを組み合わせた珍しいものだ。真鍋のいう河童と呼ばれた国栖(くず)の技術が今に生かされている。国栖については、また日を改めよう。
ゆるやかな歩きやすい石段を何度か曲がると月隈神社に出た。稲荷神社の旗が並ぶ。
祭神は大宮賣神、猿田彦神、武甕土神、経津主神、天児屋根神、比賣神の六神と崇徳天皇だ。
かなり珍しい組み合わせで、確かによく分からない。いくつかの神社が集合していったとみられる。
祭神の中で初めて出会う神が大宮賣神だ。
天照大神が天岩戸から新殿に移った時の侍女だったとされる。宮中などで臣下たちの平安を守る女神だという。また天皇を守護する八神の一柱であり、伏見稲荷神社の三神の一柱でもある。
月隈神社に稲荷信仰があるのは、後者の伏見稲荷神社からくるのかもしれない。
そして、「伏見」こそ天体観測の名であり、京都の伏見神社もまた天文観測を記した古書がある。
この社の正面には高い石垣があった。そこに上ると視界が広がった。日田市内が一望できた。
この月隈の丘は日田市の北に位置する。東からの月の出、日の出が観測でき、南の星空が観測できる所だった。
稲荷と展望、伏見の女神という天文観測地のキーワードが満たされた。
横穴古墳の壁は今も形を保っている。
素人の目から見て、阿蘇噴火による凝灰岩ではないかと思われた。
壁の様子は灰色で、硬く、崩壊していない。中間市の埴生(はぶ)横穴墓群を思い起こした。埴生の方は砂取りのために壊された古墳もあり、赤色で土のイメージが強く、崩落の危険があった。それと比べると、月隈は石棺を思わせる硬くて掘りやすい石だった。
横穴墓が造られた古墳時代には日田は日下部(くさかべ)氏が勢力を有していたという。
日下部氏は欽明天皇の時代に入植したので、磐井の乱後にこの地に来たことになる。
久留米市の高良山の麓で磐井城が陥落したあと、その地の中心的存在となる物部氏だ。
日下部氏もおそらく磐井君一族と通婚したと思われ、この日田入植は論功行賞上、どういう意味なのか気になった。
日下部氏が日田に来たことは豊後国風土記に書かれている。
靭負村こそ、あの鉄鏡が出た所だ。主力はそちらに埋葬されたのではないかと思われた。
ただし、鉄鏡は魏の曹操時代と同じというので、卑弥呼の時代、弥生の終盤だ。その後、かなり経ってから日下部氏はここに来たことになる。
その祖は武内宿禰なので、日田市の玉垂神社の祭神が武内宿禰となっている点と繋がってくる。
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