2024年 11月 01日
3 星隈神社 南天を見る「つづらみびと くず」河童と呼ばれた国栖

そこは川のすぐそばで三隈川との合流点でもある。

江戸時代、慶長6年(1601)に小川壱岐守光氏が日田北部の領主になった時、月隈山に城を築く間、ここに一時、仮城を築いたというので、その時も手が加えられただろう。

南天を見る「つづらみびと」「くず」
広場の先から町が見渡せたが、写真を撮り忘れた。
地形図から見ると、東と南が見えている。この星隈山から星の出はよく観察できただろう。
星は当然ながら南にも北にもあるが、それぞれ異なる氏族が観測していたと真鍋は言う。
南天を観測していたのが物部氏と葛生(くず)氏である。
南天を「つづら」と呼んだ。南天を見る「つづらみびと」を葛生と呼んだという。
「くず」とは星屑(ほしくず)の語にも見られるように「星」のことである。「くず」は葛生、国栖、玖珠と書かれた。そしてこの地、三隈川の上流の名前が玖珠(くす)川なのである。
葛生は星も見るが、舟人でもあったという。舟人は鳥羽とも鳥部ともいった。
鳥羽なら、日田市の東部に鳥羽氏がいたことが分かっている。
真鍋の古語のキーワードがカチカチとはまっていった。
「クス」とは中国大陸では天壇、すなわち一定の星を祀る亭観があった所の地名で、河南固始、安徽固鎮がその例である。
葛生は近世になって河童に仕立て上げられた。水によく潜ることから手足に水掻きを付けられ、窮理の術に長けていたが、それが分からぬ人たちは胡瓜(きゅうり)を好むと作り変えた。
福岡県のみやま市の物部の里大神では、河童は大陸から来た人たちで、銅鏡の作り方も教えてくれたと伝えている。
また港の水位の変化に耐えうるように「丸い石」を築いて八の字の形の湊を築いた。
そして舟を操り、川の上流と下流の物産を届けた氏族でもある。
丸い石の技術は八女市でよく見かけるが、この日田市も各地で見かける。

こちらは日隈山に築かれた丸い石の壁だ。神社の参道や、川の中など、いたるところに丸石を用いた超絶技術が伝えられている。
国栖は近東辺りから来たといい、占星術の技術も持っており、暦も作っていたので、倭人が習いに行くと、快く教えてくれたという。
もう一つの物部の里に鞍手(くらて)があるが、そこにも河童伝説があり、物部氏と国栖は南天の星を見る点で融和性が高かったと思われる。
この「鞍手」そのものもまた国栖のことだ。さらに国栖を筑紫では玖珠(くず)と書いた。
結論として、ここ星隈山にも、国栖がいて、星の観測をしていたと考えても問題はなかった。
<20241101>









