2024年 11月 18日
11 宮地嶽神社 祭神の勝土比女神は神功皇后
そこから車道を通って数十メートル歩くと宮地嶽神社に着いた。
祭神は
勝土比女神、安部高麻呂、安部助麻呂
となっている。
勝土比女神
勝土比女(かつとひめ)神とは神功皇后のことだ。
その由来は星の名前からきている。
神功皇后が肥前松浦で鮎占いをした話が知られているが、神功皇后が立った石をそれ以来、勝門比売と呼ぶようになったと古事記に記されている。
勝門星とは琴座リラのことだ。
「勝」には北と言う意味がある。
「とと」とは小魚のことだ。
神功皇后の時代、琴座リラは四月に北の空に出た。
その頃、鮎が川を遡ってくることから、北の小魚(かつのとと)と言う意味で「勝門星」と呼ばれたという。
松浦川でも人々は鮎の到来を知らせる琴座リラを心待ちにしたのだろう。
そして、四月、琴座と共にやって来たのが神功皇后だった。
琴座リラは平行四辺形の形をしている。
神功皇后が鮎釣りで立った石にも偶然にも平行四辺形の形が見える。
こうして神功皇后は琴座リラ・勝門星の名を採って勝門比売と呼ばれるようになった。
日田の宮地嶽神社もその伝承から勝土比女と記されたものだ。
安部高麻呂、助麻呂神
脇神の安部高麻呂、助麻呂神は神功皇后の親衛隊だ。
筑紫の弓の強者として知られ、神功皇后を守護して随伴している。
神功皇后が日田に来た時も、おそらくこの二人が護衛していたのだろう。
しかし、この二人は新羅軍が下関市の豊浦宮(忌宮神社)に攻めて来た時、天皇と皇后と守って討ち死にをしている。
当社では、のちに神功皇后と共に祭祀されたことになる。
福津市の総本社の宮地嶽神社では、葛子君の時代に、その子の勝村、勝頼が活躍したので、祭神が加わり、最終的に神功皇后と勝村、勝頼神の三柱になった。
しかし日田の方では、古式のまま伝えられたと思われた。
「安部」の表記は本社では「阿部」となっている。
さて、この岬には宮地嶽神社と大原八幡宮があり、どちらが古いのか、分かるだろうかと思っていたが、大原社は四度の遷宮ののちに現地に鎮座したので、宮地嶽神社の方が古いことが分かった。
そして大原社から名前が消えたと思われる豊国国造の大原足尼(すくね)も神功皇后の時代の人なので、何か失われた伝承があるのだろう。
当時、三韓征伐の会議が行われた話が近くの余所神社にあるので、そこでまた詳細を描いてみようと思う。
<20241118>