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ひもろぎ逍遥

12 余所山神社 土蜘蛛の郷にシリウスとテーベの一族


余所山神社と久津媛神社はバスハイクでは時間の都合で行けなかった。


山上は草が生い茂っているのではないかと案じて、ジーンズを履いて行ったが、ネットで調べると、やはり藪漕ぎ状態の時もあるようだった。バスハイクで行かなくて良かったな……。


しかし、ここは風土記に出てくる所で、その地域の東南にダンワラ古墳があるので、把握しておく必要がある。


『風土記』と『先代旧事本紀』、地元の伝承から、時系列に整理してみようと思う。


12代景行天皇は豊国に側近の菟名手(うなて)を派遣した。(風土記)


かつて湖だった日田盆地はウガヤフキアエズの時代に水が抜けたあと、景行天皇の時代には泥沼から湿原へと変化していたのだろう。景行天皇が浮羽からやって来て、盆地の南の鏡坂に登って国見をした時、盆地は鏡のように見えたという。


景行天皇を出迎えたのは土蜘蛛の久津媛で、友好的に国状を説明した。土蜘蛛とは異国から来た冶金の民のことなので、当地でも何らかの鉱物資源の開発をしていたのではないかと思われた。


聞けば近くの川からは砂金が採れるという。金が産出するなら、わざわざ訪れる価値がある土地だ。


菟名手は豊国国造になった。のちに余所山には久津媛と景行天皇が祀られた。



13代成務天皇が即位した。


豊国造には宇那足尼が任ぜられ、比多国造には止波足尼(とはのすくね)が任ぜられた。(先代旧事本紀)

止波足尼は地元では鳥羽宿祢と書かれている。


鳥羽宿祢は余所山に館を構えて政を行い、農業を教えた。その墓も山上にあるらしい。ヨソ山はかつてはエソ山と呼んでいたという。(掲示板)


真鍋大覚によれば、鳥羽氏のトバの語源はエジプトのテーベで、北九州市の戸畑(とばた)や鳥羽はエジプト渡来人が参集した所だという。また、エソとはシリウスのことだ。鳥羽氏は治水技術があり、高度な文明を持って渡来したという。


エジプト人渡来に関しては、浮羽(うきは)にある珍敷塚古墳の壁画にエジプトの葬送思想と同じものが描かれていることが指摘されている。


その浮羽から景行天皇が日田に来て、成務天皇の時代に鳥羽氏が日田国造になったのも、何らかの関係があるかもしれない。土蜘蛛の産出する鉱物を鳥羽氏は警護し、流通させたのではないか。



14代仲哀天皇の時に、神功皇后が軍を集めるために日田に来た時、鳥羽宿祢は将兵を集めで軍議を行った。(地元掲示板)これは西暦190年代のことだ。


軍を集めることが出来るほど、近郊に軍組織があったことになる。


豊国国造は大原足尼が任じられた。その住まいは京都郡(みやこぐん)にある。


のちに宮地嶽神社に勝土比女の神名で神功皇后が祀られた。安部高麻呂、助麻呂神が脇神なので、二人は親衛として付き添ったと思われた。


一方、魏の曹操が亡くなったのは220年。その墓に銀メッキに宝石がついた鉄鏡が副葬された。何らかの事情で同じタイプの鉄鏡が日田にももたらされた。


29代欽明天皇(在位539~571)の時代、磐井の乱から十数年程経って、日下部氏が入植した。


日下部氏はおそらく磐井城があった久留米市の高良山麓から来ただろう。その長の名は邑阿自(おうあじ)といった。靭部(ゆぎべ)というので、ここに軍組織があったことになる。


この時代は筑紫君磐井が滅んでも、その跡を葛子君が継いでいる。筑紫君こそ倭国王だ。


朝鮮半島では争乱が続き、新羅が伽耶諸国を侵略し続け、百済の聖明王は「筑紫」を指定して援助を求め続けている。葛子君は百済に武器を与え、馬を与え、船まで与えた。そして我が子を百済に派遣して新羅と戦った。(日本書紀)


そんな時代に余所山に日下部邑阿自が来て屋敷を構えて住んだ。軍の長だったのである。邑阿自が靭部(ゆぎべ)だったことから、靭負(おい)村と呼び、のちに靭編郷となった。(風土記)


今は刃連(ゆきい)町という。余所山はよほど重要な所だったのだ。仮説だが、やはり金を産出して加工し、武器生産を行っていたのではないかと考える。そしてそれを護衛したのが鳥羽氏であり、日下部氏なのだろう。

 


鉄鏡が、もし久津媛や鳥羽氏の時代の古墳に埋納されたのなら、余所山山上やその周辺から出るのが妥当だ。時の流れ共に南東部に横穴墓群が広がっていく。ダンワラ古墳はその終着点に近い。鉄鏡はリアルタイムに埋納されたのではなく、伝世されたものだった可能性が高い。


 さて、卑弥呼の銅鏡だとする説があるが、鉄鏡である以上、それは無理である。中国の冊封制度は厳密だ。


久津媛を卑弥呼とする人がいるが、土蜘蛛である以上、倭の女王として捉えることは出来ない。



また、九博では「黄金の鏡」がキャッチコピーだったので、金メッキと思い込んでいたが、銀メッキと言う方がふさわしいらしい。これは誤解を生じるコピーだ。


20241121


by lunabura | 2024-11-21 16:05 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

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