2024年 11月 23日
13 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の出土地ダンワラ古墳と日高大神宮 鳥羽氏と魏の接点
余所山から流れる丘陵の東南にダンワラ古墳ができました。
久大線の向こうに家が建っていますが、そこから土を採って線路建造に使用された時に敷地から鉄鏡が出土しました。
所有者の渡辺音吉氏の話によると、二つの細長い形跡が東西に8メートル離れて残っていて、西側から鉄鏡、鉄刀、轡(くつわ)が出土し、東側からは碧玉製の勾玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉が出土したということです。
この鉄鏡を世に出した梅原末治は、古式古墳で竪穴式石室だろうと、推測しています。
火山灰の土壌の上に二つの竪穴式石室が造られ、さらにその上に横穴式石室が建造され、全体では30メートルほどの円墳だったようです。
鉄鏡が出た所には馬具が副葬されているので、5~6世紀のものと推測されています。この時代といえば、鳥羽氏から日下部氏へと変わる境目の時代になります。
大神宮といえば天照大神の可能性がありますが、岩戸山古墳のように大正時代に浸食されるように建立されたものもあります。
全国邪馬台国連絡協議会の大分県本部長の熊谷久美子氏が、神社まで案内してくださいました。
地元ではお伊勢様と呼ぶというので、やはり天照大神が祭神と思われました。
境内にある石祠は早吸日女神社で、地元ではセオリツ姫として祀られているとのことでした。
境内の敷地の土がしっかりとしているようすから、鳥羽氏の時代にすでに別の祭祀を行っていた場所の可能性も残っていました。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の復元画像の動画があります。
この美しさをご覧ください。
鳥羽氏と鉄鏡の接点
今考えるに、埋葬施設の上に横穴式石室が造られたというのは異様です。
糸島にもそのようなものがありますが、古い支配者の上に新しい支配者が示威的に古墳を建造したのだろうかと考えました。
その時代が5~6世紀なら、鳥羽氏から日下部氏への過渡期に当たります。
鳥羽氏が2世紀から連綿と当地を治めていたので、最後の長が伝世の鉄鏡と共に埋葬され可能性も出てきます。
鳥羽氏は真鍋大覚によると、竜座のツバーンが北極星だった時代に、エジプトの首都をテーベ(ツバーン)と名付けたエジプト民族です。
やがて紅海を渡ってチベットに至ります。チベットは吐蕃(とばん)と書きますが、これもツバーンのことです。そこからインドに至り、川の開拓を行い、やがて雲南四川(しせん)から日本に渡来したといいます。
これが驚くことに、DNAの移動ルートと重なっており、真鍋大覚の話も素通りは出来ません。
四川から陸路を辿れば魏を通ります。鉄鏡が生産されたのは1世紀から3世紀というので、鳥羽氏と魏には接点があります。
シリウスの胡名、エソが残っているのも、鳥羽氏由来かもしれません。
宝玉があしらわれた鉄鏡を持って日本に渡った鳥羽氏は、その技術を見込まれて日田に行き、土蜘蛛の久津媛の一族を支配して農業を教え、金などを生産したのかもしれません。そして鉄鏡を伝世したのでしょう。
この後、磐井の乱を経て日下部氏が日田に来て屋敷を構えます。靭部(ゆぎべ)という軍組織を置いて守るものがあったのです。
磐井君は豊前でも求菩提山周辺の土蜘蛛を支援したという話が地元にあります。磐井の二回目の乱の時にも土蜘蛛が一緒に立ち上がっています。ここもその時の影響があったことでしょう。
もう一つ、日田市に注目したのは天文観測です。
日、月、星の隈と石井の隈。
「隈」が天文観測所という意味を持つことを伝えていたのも真鍋大覚です。
実は京都の門の開閉時間が現地の日没時間と合っておらず、熊本付近の時刻と合致しているという研究があります。では、熊本の何処で暦を作ったのだろうと、痕跡を探していたのですが、この日田で観測されたものが倭国と日本国の暦の基準となった可能性が出てきました。いずれにしろ、特殊な地形を持つ所でした。
以上、バスハイクで訪れた日田市の神社や遺跡のレポートを終わります。
一日で回ったコースですが、書くのには一か月かかりましたねえ。
明日のバスハイクは肥前に行くので、今日、仕上げられて良かったです。
今回予定していたもう一人の土蜘蛛・五馬媛の郷には行けませんでしたが、来年の三月、里の花が美しい季節にでも行きたいなと考えています。
<20241123>