2025年 07月 06日
肥前風土記 倭姫が何故嬉野市に祀られているのか、謎を追って行ってくる
来週の 13日(日)はバスハイクで佐賀県の嬉野市、鹿島市 長崎県佐世保市などを訪問します。
倭姫(やまとひめ)が嬉野市(うれしのし)の味島神社に単独で祀られているので、行ってみたいというリクエストがあり、行くことにしたのですが、風土記を見ると、景行天皇も日本武尊も訪れているんですね。
倭姫は天照大神を祀る場所を求めて歩いた巫女として知られていますが、兄弟が景行天皇なんです。日本武尊は甥っ子に当たります。
ですから、景行天皇や日本武尊の縁があって祀られているのかなあ、と想像しています。日本武尊が叔母を祀ったとかね。
風土記には景行天皇の時代、当地に土蜘蛛三兄弟がいた話が書かれています。景行天皇がこの三兄弟を制圧しますが、三兄弟はもともと古代中国の熔鉄の優れた技術集団で、遡れば楚国の王家に辿りつく話を真鍋大覚が記しています。今、準備している真鍋大覚のトリセツにもそれを書きました。
今回はその現地に行くわけですが、調べていくと、その周辺には、おつぼ山神籠石があり、火の神を祀る八天神社、水の女神を祀る丹生神社、三大稲荷社の祐徳稲荷(ゆうとく)がありました。

稲荷は何度か記していますが、鉄と天体観測の関連地です。
神籠石はいくつかありますが、その中には鉄の選鉱作業施設のケースもあるんですね。
ですから、当地に火や水の神々が祀られているのは、鉄や水銀を生産した人々が祈った可能性が考えられます。
しかも、そこに海童神社がありました。水運は安曇族になります。安曇族が航海の安全を祈ったところです。
そして、磐井の乱の後の時代になると、百済の聖明王が亡くなる戦いが朝鮮半島で起きます。
その時、磐井君の孫の鞍橋君(くらじのきみ)が百済に行って共に新羅と戦い、百済王子を助けたのですが、聖明王が殺されたので、王子たちが聖明王の遺骨を以って日本に亡命します。その場所が稲佐神社で、海童神社のそばなのです。
当時、百済王家は八艘の船に乗って逃れて来て、湊に着くと、王家の紋を書いた帆を港近くに埋めました。それが八艘ケ崎(はっすぼがさき)という地名になっています。
そばの稲佐神社に聖明王が祀られているのはそんな事情があったからです。余昌王子は日本に亡命したあと、一年ほど経って百済に戻って威徳王(いとくおう)となりました。
こうしてみると、佐賀県の南部は弥生時代から古墳時代にかけて、かなり高度な金属生産加工を行い、栄えた土地だったのが分かります。もちろん、吉野ヶ里という大都市もあり、それを支えた所かもしれません。
実は、佐賀県って弥生時代の栄え方が凄いんじゃない?とバスハイクでよく話し合うんです。その理由の一つがここかも!
そして、平安時代になると、藤原不比等が天皇に頼んで丹生神社が勧請されます。そんな所に、和泉式部が誕生するんですね。
すごい。
今回も風土記を読みながら、行きます。
かなり高温になりそうなので、お互いに熱中症対策をしましょうね!
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