2025年 07月 18日
嬉野市の火の神、水の女神、倭姫と不比等の時代
この南が、かつては藤津郡と呼ばれていた所で、日本武尊の船の艫綱(ともづな)を大きな藤にかけたことから藤津郡(ふじつのこおり)と呼ぶようになった話が記録されています。その後、日本武尊が遊覧したとも記されています。

さて、この日のコースは「おつぼ山神籠石」を見学してから、いったん南に下って「道の駅・鹿島(かしま)」で食事をし、その後から北上するコースを取ったのですが、それがちょうど小舟で浅い海を遡上するルートになり、日本武尊も見たであろう景観を見ることになりました。
一番、印象的だったのが神奈備山です。
名前は唐泉山(410m)といいます。

明らかに火の山です。
古代の人は神奈備山に神を祀り、麓には遥拝所を作って祈りました。
弥生時代、景行天皇も日本武尊もこの山を目指して上陸したのでしょう。
味島神社
その山の手前に倭姫(やまとひめ)を祀る神社がありました。倭姫は景行天皇の妹か姉です。日本武尊にとっては叔母です。
倭姫を誰が祀ったか、と候補者を探す時、景行天皇が姉妹を祀ることは考えられないので、日本武尊が叔母を祀った可能性を考えてみましたが、そのようなケースは他に見当たりません。
しかも、日本武尊が「草薙の剣」を倭姫から預かったのは、九州での戦いが終わってからの話なので、時期的にも九州で叔母を祀る動機は弱いと思われました。

この神社は味島神社(あじしま)といいます。
今は「あじしま」と読みますが、「味」は「うまし」とも読める美称ですから、「美しい島」という意味を込められています。この島は、おそらく有明海の波が打ち寄せては引く、入江の小島だったのでしょう。
干潮になれば歩いて渡れる島を浮島(うきしま)と言います。
味島神社の境内もそんな島だったかもしれません。
社殿の建立は仁明天皇、承和年間(834~848)になされています。
当社は日本武尊が祀ったのか、後世の人が二人に縁のある倭姫を祀ったか、もうそれは分かりませんが、建立時期が承和年間というのが、この後参拝する丹生神社に繋がっていきましす。
八天神社
味島神社から、車で数分の所にある八天神社に行きました。

これが火の山・唐泉山を祀る神社です。
祭神は
火之迦具突智大神(ほのかぐつちのおおかみ)
建速須佐之男大神
火神の御神系の神神
明らかに、鉄など金属を扱う人々が生業の成功と安全を祀る火の神です。
江戸時代にも多大な尊崇を集めました。
とても風格がある神社です。
塩田川
私達は、そこから塩田川を遡上して嬉野市に向かいました。
塩田川のことも「風土記」に載っていて、
「満潮の時には流れが逆流して潮高満川(しおたかみつがわ)と呼ばれるようになり、訛って塩田川となった」とあります。
町に入ると、川の岸壁が高いので、今でも満潮時は高潮が遡るのでしょう。
丹生神社
その塩田の町で信仰を集めたのが丹生(たんじょう)神社でした。

「丹生」は、ここでは「にう」とは読みません。「たんじょう」と読みます。
祭神は
罔象女神(みずはのめのかみ)
水の女神です。
「丹生」の社号から、最初は祭神は丹生都比売かと思ったのですが、水の女神とは驚きでした。水銀汚染の無い水を願ったのでしょうか。
奈良の東大寺のお水取りを思い出させます。
ここに罔象女神を勧請した事情が掲示板に書かれています。
元明天皇の御代、和銅2年(709)に社頭造営の勅許を得て、当社の裏山の妙音山に仮宮を創建されたことが始まり、とあります。
その時、この神社について元明天皇に奏請したのが藤原淡海でした。
さらりと書かれていますが、「淡海」すなわち藤原不比等です。
当時、右大臣だった藤原不比等がここを知っていたのです。そして、この神社を奏上して、勅使が下向し、紀伊国の丹生山を勧請して罔象女神を祀りました。天皇が許可した古社となります。
和歌山県の丹生都比売神社を調べると、罔象女神は祀られていませんでした。
空海が高野山を嵯峨天皇から下賜されたのが弘仁7年(816)ですから、それよりも百年も前に、藤原不比等が丹生山の罔象女神を勧請したというのですから、和歌山の方に忘れられた歴史があったのでしょう。
その後、仁明天皇承和2年(835)に現地に遷座したという記録があります。おそらく山上から麓に遷されたのでしょう。
この時期が倭姫神社を祀った味島神社の社殿の建立の時期と一致しています。並行して神社建立と祭祀が行われたと考えられます。
嬉野市には七つもの丹生神社があり、ここが宗廟となります。
参拝を終えて丹生神社を出ると、正面にはあの火の山・唐泉山がそびえていました。
嬉野市は温泉地で、火山活動によって多くの鉱物が露出していたのではないかと考えています。藤原不比等が当地に強い関心を寄せたのは、鉱物資源があったからではないかという思いが強くなりました。
不比等の子の房前(ふささき)が同じ佐賀県小城市の晴気(はるけ)を下賜されているのですが、そこと密接につながっていると思われます。藤原氏の財源の一つが当地ではないか、と想像されるのでした。
和泉式部が育った町
そして、この塩田の町に大黒丸夫妻がいて、和泉式部を育てました。山の向こうの杵島の福泉善寺に捨てられていたのを引き取ったと伝わっています。
和泉式部が当地を偲んで詠んだ歌があります。
ふるさとに 帰る衣の 色くちて 錦の浦や 杵島なるらん
和泉式部も大黒丸夫妻に手を引かれて当社に参拝したかもしれませんね。
<20250718>









