嬉野市 八天神社八天神社の縁起には、
「藤原不比等から500年ほど経った鎌倉時代、田村良真という人が京都からやって来て、唐泉山の社を中興し、新たに麓に下宮を奉斎した」
という内容が書かれていますが、
田村良真はここに来る前に「小城晴気」(おぎ・はるけ)に下向した
とも書かれています。
田村良真の最初の目的地は晴気で、そこから嬉野まで足を延ばして、火の山を祀りなおしているのです。
晴気は「はるけ」と読みます。
そこには「天山神社」(てんざん)があります。
佐賀県には天山神社が三社あり、完全に一直線に並んでいます。
一直線に並ぶ天山神社と明星山
その中央部にあるのが小城市(おぎし)晴気(はるけ)の天山神社ですが、地理上、三社を完全に一直線に並べるには、強い意思を持って測量しないと成し得ないと、祭祀線研究家のチェリーは語ります。
晴気の天山神社そして、晴気の里こそ、不比等の子の藤原房前が対馬を守った褒賞として、持統天皇から下賜された所なのです。
その事情は広瀬の天山神社の縁起の方に書かれています。
「持統天皇の御世に対馬に異国人が来て異国の風俗を広めようとした。これを防ぐために参議藤原安弘に持統天皇は討伐を命じ、退治した褒賞として晴気の里を賜う」
と。
この藤原安弘(康弘)こそ、房前(ふささき)の幼名なのです。
異国人の対馬侵略に対する討伐は西暦690年から697年の間に行われており、房前はまだ十代でした。
藤原房前は西暦701年に佐賀県に下向して、広瀬、本山、岩蔵の三社に天御中主神を勧請しました。
その後、不思議な事が次々と起きて三女神も祀ることになりました。
そして、藤原房前自身もまた黒尾大明神(九郎大明神)という神名で祀られています。
藤原不比等が嬉野市の丹生神社を奏上したのが709年ですから、その情報は現地入りした房前から得たと考えられるのです。
褒賞として授けられた晴気の里とは、何を産していたのでしょうか。鉱山だろうとは想像したのですが、具体的には分かりませんでした。これが嬉野市の八天神社と繋がりました。
不比等と房前の親子。火の山・唐泉山が結ぶ晴気の里と丹生神社。
こうして、不比等の財源として、小城の晴気に加えて嬉野市の丹生神社が加わったという仮説を立てたのでした。
持統天皇が何故、佐賀県の晴気の価値を知っていたのかという謎が残りますが、白村江戦のために斉明天皇や天智天皇が筑紫に来ており、持統天皇も若き頃に一緒に来ていたことが背景に考えられます。
朝倉橘廣庭宮がある朝倉市から筑後川を隔てた佐賀に重要な地があることを聞き知っていたと思われました。
さて、藤原房前が対馬を守った話は今は誰も知りません。
当時でも、すぐに忘れられてしまいました。
しかし、一人だけ覚えてくれた武人がいました。
それが大伴旅人です。
和琴
大伴旅人が太宰府に長官として赴任していた時に、対馬産の琴が手に入ったのですが、それを誰に贈ろうかと考えた時に、藤原房前を思い出しました。
旅人は房前に琴を贈る時、
夢の中に琴の精霊が乙女の姿で現われて「君子の琴になりたい」と願ったので房前がふさわしい人だと考えた、
という話に仕立てました。
その時に「乙女と旅人」、そして「旅人と房前」の間に次のような歌が詠み交わされました。万葉集から。
乙女が旅人に詠んだ歌。
810番
如何(いか)にあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我が枕(まくら)かむ
(どんな時にか どんな日にか 音楽が分かる方の 膝の上を 枕にできましょうか)
大伴旅人が答えました。
811番
言問(ことと)はぬ 樹にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし
(物言わぬ 樹ではあっても うるわしい方の手馴れの琴になるでしょう)
これを聞いて乙女が喜びました。旅人はしばらくして目が覚めました。
そんな夢物語を書き添えて大伴旅人は都にいる藤原房前に琴を贈りました。それを見て房前は喜んで返歌をしたためました。
812番
事問はぬ 木にもありとも わが夫子(せこ)が 手馴(てな)れの御琴(みこと) 土に置かめやも
(もの言わぬ 木であっても わが背子の手馴れの御琴は 地に置けましょうか)
旅人の歌には
「対馬は貴殿が守った島ですよ。私は覚えています。その対馬産の銘木で造られた琴なのです」
そんなメッセージが込められていたのです。
大伴旅人もまた隼人の乱の時、制圧の大将軍となった経験がありました。
藤原房前の対馬での異敵討伐も、三十年も経ってしまい、都では覚えている人もいなくなったのを、旅人が覚えてくれていたのですから、嬉しかったことでしょう。
武人同士が知る思いです。
この時、旅人は65歳。房前は49歳でした。
<20250721>