2025年 07月 31日
3風土記 金星の名を持つ土蜘蛛三兄弟から吉野ヶ里遺跡を思い出した
『肥前国風土記』に、藤津郡に土蜘蛛三兄弟が住んでいた事が書かれています。景行天皇が討伐しようとしたところ、三兄弟は戦わずに頭を地面にこすりつけて降服したといいます。
『風土記』の該当部分を読んでみましょう。
<能美郷(のみのさと)
郡役所の東にある。
昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が行幸された時、この里に土蜘蛛三兄弟がおり、兄の名は大白(オホシロ)、次の名は中白(ナカシロ)、弟の名は少白(ヲシロ)と言った。
この者共は、砦を築いて隠れ住み、天皇に背いて降伏することは無かった。
そこで、天皇は紀直らの祖である穉日子(ワカヒコ)を遣わせて誅滅させようとすると、三兄弟はただ叩頭(のみ=頭を地面にこすりつける)して、己の罪を述べて共々に命乞いをした。
これによって能美郷と呼ばれるようになった。>
「叩頭」(のみ)が「能美」という字に変化したといいます。
三兄弟が住んでいた能見郷は現在の佐賀県鹿島市の能古見(のごみ)と言われています。
三兄弟の名前、大白、中白、少白について、真鍋大覚は金星の満ち欠けの状態を表す名前だと記しています。
真鍋大覚は物部氏の星の名を伝えた人です。
なるほど、金星と言えば「太白」ですが、満月、半月、三日月……いや、金星なので月とは言えないか…… その状態を「大白、中白、少白」と呼んだんですね。
そして、金星を「能美星」とも呼んだといいます。
つまり、この土蜘蛛は金星をシンボルとしていた民だったわけです。
さて、「太白」を訓読みすると「おしろ」と読みます。
「おしろ」の字が含まれるのが景行天皇の名です。
景行天皇は「大帯日子((おおたらしひこ)淤斯呂和氣(おしろわけ)天皇」といいます。
この「淤斯呂」もまた金星の別名ということになります。
ですから、古代の金星の名を知っている人は、「景行天皇って、惑星の中でもひときわ青白く輝く美しい星の名が付けられた人なんだな」と理解した訳です。
これが分かると、風土記の話は、「金星の名を持つ大王」が、「金星の名を持つ三兄弟」を討伐しようとした話となります。
土蜘蛛三兄弟について、真鍋大覚はその氏姓は熊氏(ゆうし)だったと伝えています。彼らは熔鉄の業に卓越した技能を伝える一族だったといいます。
熊氏を調べていくと、楚の王家が熊氏なんですね。
中国の戦国時代に戦った各国の一部が日本まで逃げてきて冶金を行っていたということになります。そうすると、金星の青白い輝きとは出来上がった鉄がその輝きを持ちますように、成功しますように、と祈って付けられたものなのでしょう。

佐賀県と言えば吉野ヶ里遺跡が有名ですが、景行天皇の時代にも栄えていました。その「北内郭」は高度な天文観測所でもあり、紀元前から大陸からその技術を携えて伝えた人がいた訳です。
徐福が伝えたのかな、と思ったんですが、真鍋大覚の話からは、もっと沢山の渡来人がいたことが分かりました。
さて、
8月3日(日)のバスハイクは藤津郡からスタートです。
風土記の能美郷はバスの中から地形を観察するだけになります。
だれか、付近に日本武尊や景行天皇を祀る神社を見つけたら、教えてくださいね。その時は立ち寄りましょう。
藤津郡に意外に多いのが古墳です。
海が見える古墳とか、楽しみです。
暑さ対策を忘れずに
体調を整えて参りましょう。
なお、金星の話は近刊予定の真鍋大覚ノートにもう少し詳しく書いていますよ。
<20250731>
そこは何処かというと遺跡の北側に位置し、石棺墓のエリアがある円形の墳丘墓部分が後円部に相当し、北側に延びる舌状台地が前方部に相当し大きさで言うと南北約500メートル規模にもなるでしょうか、とにかく巨大です。
1979年頃の航空写真ではっきりと確認できます。
以前の投稿で神道vs仏教の事を書いたのは、
筑紫の君磐井の乱後にこの地形の破壊の痕跡があるためです。
一つは古代仏教寺院(辛上廃寺)によって台地の東側が大きく抉られています。あと一つは官道によって前方部に当たる部分と後円部に当たる部分が分断されている事で意図的なものが感じられます。
私はこの地形が巨大な古代神道的宗教施設だったとのではないかと見ています。








