2025年 10月 31日
真鍋大覚:星の覚え方は子午線の星を覚えるだけ 刀伊の入寇がきっかけで誕生した星の本

11月に出版する『星の迷宮へのいざない』の後書きに、真鍋大覚の簡単な紹介文を書きました。新著で資料とした真鍋大覚の本が誕生した背景に触れたものです。ここに出しておきますね。
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『儺(な)の国の星』とは福岡県那珂川市が昭和五十七年に発行した本です。
著者は九州大学工学部応用力学科(現・航空工学科)助教授の真鍋大覚(1923年~1991年)で、続編に『儺の国の星拾遺』があります。
この本が発刊されたきっかけは、昭和の初め頃、高松宮宜仁(のぶひと)親王が星の古名に深い関心を寄せられており、
「日本人の祖先が空に輝く星々に向かって懐(いだ)いていた心と、その呼び名について調べることを、香椎宮宮司・木下祝夫(いわお)に指示され」たことに応えたものです。
当時、木下祝夫宮司は古事記のドイツ語訳に取り組んでいたため、友人の真鍋大覚が執筆することになって『儺の国の星』が誕生しました。
真鍋大覚の家系は藤原宇合(うまかい)、藤原保昌(やすまさ)の南家の末裔であり、物部氏の末裔でもありました。
真鍋家の祖先は大宰府の代々の天文暦官を務め、天子に面会できる身分でした。大宰府では外国の船が入って来たとき、その国の暦と日本の暦を比較対応して検算していたといいます。
『儺の国の星』の参考となった本は『石位資正(せきいしせい)』という本で、藤原隆家(たかいえ)が1039年に大宰権帥(だざいごんのそち)に再任された時に、星暦についての古今の見聞録を編纂したものです。
その執筆のきっかけはそれより二十年前に、藤原隆家が大宰府に最初に赴任した時に刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)に遭い、指揮を執(と)って防衛しますが、その時に、敵ながら天文知識があることに感銘したことからだといいます。
『石位資正』の内容は、源順(みなもとのしたごう)の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に即した記述で、漢名の星宿に項目を分け、これに日本の星の古名を列挙し、必要な部分には由来を書いたものといいます。
星の覚え方は、真鍋大覚の父親が少年だった大覚を田の畔か石の上に立たせ、後ろから肩越しに右手の甲を手で握って星の名を教えました。夜の八時か朝の四時に時間を定めて、子午線の上にある星だけを繰り返して説くだけで、その他は一切言及しなかったといいます。これが八年間繰り返されました。
こうして千年以上も伝えられた星の和名が『儺の国の星』および『儺の国の星拾遺』として那珂川市から刊行されました。「儺(な)の国」とは「那(な)国」「奴(な)国」すなわち「倭奴(ゐぬ)国」のことで、博多湾を中心にして栄えた弥生時代の国名です。
真鍋大覚はこのほか、年輪測定から縄文杉の年代を割り出したことで知られています。また地震雲という言葉を最初に世に出した人です。

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