2025年 12月 22日
吉野ヶ里遺跡の謎のエリア 星を抱く巫女と前漢鏡の女王と『風土記』

吉野ヶ里遺跡の35周年ということで、来年の2月のバスハイクで企画展に行きます。
吉野ヶ里遺跡は佐賀県にありますが、佐賀県から長崎県は『肥前国風土記』が完全に残っているという奇跡的な地域です。
『風土記』には、主に景行天皇や日本武尊、神功皇后の足跡が記されていますが、幸運なことに、そのほとんどが神社になって伝えられています。もちろん、地元にはさらに詳しい話が伝わっていて、弥生時代の終わりの頃にどんな豪族や土蜘蛛が住んでいたのか、かなり残されているのです。
そんな中で解決しないのが、吉野ヶ里の存在です。『風土記』には吉野ヶ里の記述が無いのです。
吉野ヶ里の左右の町には景行天皇や日本武尊の伝承がかなり残っているので、いったい、吉野ヶ里遺跡は天皇派だったのか、反天皇派だったのかずっと気になっています。何故、『風土記』は吉野ヶ里のことを記さなかったのでしょうかねえ。
吉野ヶ里遺跡の最大の防御は深くて広い環濠です。濠の中には逆茂木(さかもぎ)がびっしりと立てられて、敵の侵略を防いでいます。環濠は朝倉市や福岡市でも見学したのですが、これほど厳しい環濠はまだ出会っていません。吉野ヶ里は外敵に対する守りが半端ない里なのです。
佐賀県の弥生時代はかなり高度な文明があり、吉野ヶ里遺跡の場合、冬至夏至また秋分春分の祭祀線が建物の方角で見定められるように建築されています。ですから、冬至の祭も華やかに行われていたのではないかと思っています。
さて、吉野ヶ里遺跡が公園になった時、取り残されたエリアが北西にあります。
そこには日吉神社が建てられていたので、発掘できなかったのですが、先年、神社を移転して発掘が行われ、石棺が発見されました。何も副葬されていませんでしたが、蓋に星座が彫られていました。私は勝手に「星の巫女」と呼んでいます。
太陽祭祀線は北内郭の存在で証明されているのですが、それ以外に星の祭祀もあったのではないかと思うようになりました。
実は冬至や夏至を見極めようとしても、太陽がUターンする時、数日かけてUターンするので、太陽は見かけ上は同じ場所に留まり続けるのです。
目測では確定できないので、星の観測と組み合わせていたと真鍋大覚は記しています。太陽観測と星また月などの天体観測には別々の専門家がいたわけです。まあ、夜専門、昼専門というわけですね。
星座盤の下で眠る巫女はまさしく星の観測と祭祀をしていたのではないか、と想像を膨らませています。
このエリアが大々的に注目されたのは、以前に、その近くからすごい甕棺が出ていたからだと思います。
それについて過去に記していたので、抜粋します。(一部変更)

※※※
カタログを見ていると、日吉神社の周囲から前漢鏡と銅剣鋳型が出土していることが分かりました。
「前漢鏡!!」
これはすごいことです。そして、説明のページを見つけました。
前漢鏡が出土したのは甕棺からだったのです!
日吉神社の鎮座する丘の頂上に格別な墓があったのです。
被葬者は女性。40~50歳。両腕に南海産貝殻性腕輪36点。絹の布片、朱などが発見されています。貝殻は沖縄・奄美地方で採取されるイモガイです。
銅鏡は中国前漢時代につくられた連弧文鏡(内行花紋)で、「長く会わなくても、お互い忘れないようにしましょう」という銘文が鋳出されているそうです。
甕棺は弥生中期後半(立岩式)で、板状の石が蓋にされていたそうです。
弥生中期後半っていつ? 何世紀か書かれていません (+_+)
弥生時代がこれほど細かく分類されているのに、何世紀か書かれないのは残念です。
そこで、カタログの年表を見ると、すぐ東の北墳丘墓が築造されたのが弥生中期で、紀元前1世紀の所に書かれていました。これから推測すると、甕棺の弥生中期後半というのは紀元1世紀になるのかなあ。
これで分かったのは、北墳丘墓に歴代の男王が埋葬され始めてから、少し遅れて西の丘陵に巫女や女王らしき女性たちが埋葬されたということです。
そして、特筆すべきことは、吉野ヶ里がだんだん大きくなって、3世紀になって壕が広くなっていく時、何故か日吉神社のある墳丘は外環壕の中に組み込まれなかったということです。
これは、吉野ヶ里の人々の間では、この巫女たちの存在が3世紀には忘れ去られたと解釈できます。これは卑弥呼の時代のことです。
※※※
環濠の外と内。別の文化があったのでしょうか。それとも元は一緒だったけど、分離していった?
絹をまとった女王らしき甕棺の場所が正確に記されていないので、星の巫女との位置関係も時代も分からず、これ以上の妄想はお預けになります。今回の訪問で疑問が解けたらいいなと思っています。
さて、旧日吉神社のエリアは吉野ヶ里遺跡公園から直接には行けず、道も難しくて覚えていないので、バスハイクでは今回は行かない予定です。
でも、吉野ヶ里が『風土記』に記されなかった謎の手掛かりを求めて、付近の神社や古墳と絡めてコースを決める事にしました。
発表はもう少しおまちくださいね。
<20251222>









