2026年 03月 27日
藤原四兄弟を誤解していないか 宇合の場合

神に祈れば生きてお前に逢えるのか
ある男が奈良の都から近江に向かう道中、石田の社(やしろ)で幣(ぬさ)を捧げて祈りました。
藤原宇合(うまかい) 1731番
山科の 石田の杜に 布麻置かば けだし吾妹に 直に逢はむかも
(やましなの いわたのもりに ぬさおかば けだしわぎもに ただにあわむかも)
山科の石田の神の社に幣を捧げて祈れば
もしかしたら またお前に直接逢えるのか
〔神に祈れば、生きて再びお前を胸に抱けるのか〕
✿「けだし」とは「もしかしたら」という意味で、「吾妹」とは妻のことです。
男は奈良の都を発つと、道中、石田の杜で神に祈りました。幣を捧げながら、「もしかしたら今度は生きて帰れないかもしれない」、そんな不安を打ち消そうとしました。
この歌を詠んだのは藤原宇合(うまかい)で、藤原四兄弟の三男です。麻呂の兄です。山科の石田の杜については京都市伏見区に石田杜の万葉旧跡が伝えられています。
藤原宇合の人生
宇合は22歳の頃から遣唐副使として唐へ。帰国すると按察使(あぜち)として常陸(ひたち)へ。続けて持節(じせつ)大将軍として蝦夷(えぞ)討伐へ。また、知造難波宮事として難波へ。
長屋王の変では六衛府の兵を率いて長屋王の討伐へ。そして西海道節度使として筑紫へ、と何度も旅立たねばなりませんでした。
ようやく無事に家に戻っても座を温める暇もなく次の任地へ、あるいは戦地に赴(おもむ)く日々でした。
宇合は妻とゆっくり日常を過ごすことが出来ない人生を送りました。43歳で天然痘に罹って亡くなりますが、その死はあまりにも早過ぎました。藤原四兄弟は栄華を極めたと言われますが、家族を置いて国の為に奔走し、苦悩する姿がここにあります。
宇合の子供が藤原広嗣(ひろつぐ)ですが、宇合が死んだ3年後に謀反の罪で処刑されています。広嗣の歌は前回、紹介しました。
『癒しの万葉集』-人生の四季を詠うー より
<20260327>









