2026年 05月 16日
高良玉垂宮の神殿と清涼殿に描かれた謎の絵が真鍋で解けた

『高良玉垂宮神秘書』の中には、高良玉垂宮の神殿の背景画の決まり事が書かれた条があります。
その中でも高良大菩薩の絵の後ろには興味深い絵が描かれていました。現代語訳で紹介します。
<452条(現代語訳)
高良大菩薩の御後ろには梅と杉、竹が混じった所を描く。手長族と足長族が海で(魚を)探す所を描く。月を取ろうとしている所を描く。足長族が海を渡ろうとする様子を描く。>
手長族と足長族が海で魚を探す絵……
また月を取ろうとする所……
海を渡ろうとする様子……
これらはいったい何を表しているのでしょうか。
高良大菩薩とどんな関係があるのでしょうか。
「手長族と足長族」の話は『枕草子』に出て来るので知っていました。
清少納言が清涼殿に行く時、扉を開けるとその絵が描かれた障子が目に入るようになっているんですね。
荒海障子(あらみのそうじ)と言って、足だけが長い男が手だけが長い男を背負って海に入ろうとする絵です。
清少納言は気持ち悪がっていました。そんな絵が何故、天皇の住まいである清涼殿に置かれたのでしょうか。
しかも、同じ絵が、高良玉垂宮の主祭神の背景にも描かれるというのです。
天皇の住まいと高良大菩薩の厨子ですから、よほど大事なものです。
この謎が解けたのが真鍋大覚の記録からでした。断片的な記憶だったので、今回『星の迷宮へのいざない』を書く時、テーマの一つに選びました。きちんと理解したかったからです。
これについて、拙作で次のように解説しました。
<小熊座を手長(てながの)星(ほし)、大熊座を足長(あしながき)星(ほし)といいました。
星座を一目見て、「今、何時か」分かる技法を「あらみ」と平安貴族は言いました。「あら」とはオリエントで星を意味する「グヮダ」が変化したことばです。
平安時代、清涼殿に、正しく時を計る戒めとして荒海(あらみの)障子(そうじ)が置かれていました。このころは「あらみ」とは北極星を見つける意味になっていました。(真鍋大覚の口語訳)
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清少納言が見た荒海障子
『枕草子』は清少納言が宮廷での暮らしを描いたものです。「春はあけぼの」という冒頭の一文がよく知られていますが、その中に、清涼(せいりょう)殿(でん)に置かれた「荒海障子」の話が出てきます。
清涼殿とは天皇が日常暮らす建物で、その北東に荒海障子という襖が置かれていました。清少納言は中宮(ちゅうぐう)(天皇の后(きさき))が住む弘徽殿(こきでん)から清涼殿に行く時、その絵をいつも目にしていました。その絵について、
「荒海に手長や足長など恐ろしそうな生き物が描かれているの。弘徽殿の戸を押し開くといつも目に入って来るので、憎たらしい、という顔をして笑うの」
と書いています。
手長足長とは小熊座と大熊座の象徴
もともと手長足長とは古代中国の地理書『山海(せんがい)経(きょう)』に書かれた二つの民族のことです。
海で漁をする時には協力し合い、足長族が手長族を背負って海に入り、手長族が魚を捕るといわれました。清涼殿の荒海障子にもこれにちなんで、荒海に手長と足長が描かれていました。
絵の意味については謎とされていますが、真鍋大覚は、手長は小熊座、足長は大熊座の象徴だといいます。小熊座と大熊座を見つければ、時刻が分かるほど、平安貴族は星に精通していたようです。
「あらみ」とは「星見」のことです。星の意味のオリエント語「グヮダ」が「かだ」「かた」「から」「あら」と変化しました。
絵には、時を計るために正しい「星見」を常日頃心掛けるようにというメッセージが込められていたのです。置かれた場所も建物の北東の北の付き当たりなので、「北」の夜空を見て北極星を探し出すことを意味していたことが分かります。
星で時間を計るのは平安貴族の常識で、貴族たちはそのメッセージを理解できましたが、清少納言はそれを知らずに不気味に思ったようです。>
(拙著『星の迷宮へのいざない』より)
これによって、高良玉垂命の背景に手長と足長の絵が描かれるのも、実は「北極星と北斗七星を探して北を知る」という象徴的な描写だと分かりました。
月を取ろうとする絵は、高良大菩薩が月神の化身とされている事から来ています。
こうして清涼殿と高良玉垂宮が星の話で繋がりました。
真鍋大覚の星の和名の記録は物部氏の星の伝えです。
『高良玉垂宮神秘書』を書いたのは物部神津麿保房ですから、やはり物部氏の記録です。
同じ物部氏がそれぞれに伝えていた話がここで合致したのでした。
以下は拙作『星の迷宮へのいざない』の該当ページです。


これを持ってる方、読み直してみてくださいね。
<20260516>









