2026年 05月 18日
百塔 蝉丸と哀しき女房たち 『神秘書』より

蝉丸とは盲目の琵琶法師で、百人一首の「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふさかの関」を詠んだ人として有名だ。
この蝉丸が久留米市の高良山に来たことは余り知られていないが、地元では時々その話が聞かれる。それが『神秘書』に記されていたので、紹介しよう。
三七二条
<百塔と名付ける事。
延喜の帝の時、蝉丸は逢坂を住み飽きて、九州遊行に下られた時、高良山の上宮は世捨て人などを宮の内に留めることはなかった。日が暮れて蝉丸は参拝しに登られた。
初めての参拝なので、琵琶を演奏して吟じられた。
日が暮れたので不安な思いで佇んでおられると、安住地(あぜつ)の公人が招いて一晩泊め、その後、百塔に蝉丸はお住みになった。
因幡堂の楽師を住居の東の方に呼ばれて、東浦と名付けられた。都より因幡堂が東にあるからである。
女房たちが京の都から蝉丸を尋ねてそこに住まわれた。その後、蝉丸は朝廷よりお迎えが来たので、京の都に戻られた。
蝉丸を心配してやって来た女房衆は蝉丸が住んだ所に留まられた。各地から若女房が家から逃げて、そこで遊女となられた。その徳分を称えて塔を建てられたことから、百塔とは百の塔と書く。
また、ある説には百皇、百代の塔を蝉丸が建てられたことから、百塔というともいう。>
***
蝉丸は夜に高良玉垂宮まで登り、琵琶を奏でて吟じたという。神社なので、僧侶を泊めることはなく、蝉丸が佇んでいるところを、アゼツの公人が泊めてくれたという。
アゼツは安在地(あぜち)のことで、今の高良大社の駐車場から北の方にやや下った所にあった。このあと、蝉丸は御手洗橋の近くに住み、そこを百塔と呼ぶようになった。
都で蝉丸を世話していた女房達が心配してはるばると尋ねて来たが、その後、蝉丸だけ戻って行った。
女房たちはとどまり、百塔に住んで遊女になり、のちには駆け込み寺のようになった。
高良山の御神幸祭の時、遊女たちが盲目の僧の足を洗う風習があるのは、これが由来だという。
御井寺に蝉丸塔がある。
<20260517>









