2026年 06月 11日
かたどりて、あれなれ河と名付けたり 『神秘書』533条

縄文時代の海進期、また弥生時代の小海進期、海は今より標高が高い位置にあって、福岡県の玄界灘と有明海は一本の水系で繋がっていた。それを「ありなれ川」と呼んだ。
これは真鍋大覚による話だが、当時は否定されたらしく、私費でボーリングして中央部から海の貝が出てくることを証明した。
そんな話を久留米市の地名研究会で発表したら、ざわめきが起きた。理由を尋ねると、「大善寺のそばの川をありなれ川という」という話だった。今でもその名が伝わっていたのだ。
それからどのくらい経った頃か、『神秘書』を読んでいて、それが出て来た。その一部が次の行だ。
「河ノ名ヲ カタトリテ、カノトコロヲハ アレナレ河トハ名付ケタリ、」
この一文は分かるようで、分からなかった。
霧の中から舟影が出てくるような、不明瞭な姿をしていた。
しかし、これは大善寺での話だった。
「アレナレ河」は玄界灘に至る水系だと分かったが、「カタトリテ」の意味が分からなかった。それが「(天の川を)象りて」であることを理解するには、かなりの時間を要した。
上の一行を含む該当部分を訳すると、次のようになる。
533条 【口語訳】
大善寺のこと。高良大菩薩はタイタウ あれなれ河という所から御舟に乗って筑前宇美の河内にお着きになった。そこから神功皇后と共に都に上られた。(略)
川の名を(天の川に)なぞらえて「あれなれ河」と名付けられた。
***
ここでの高良大菩薩は阿曇磯良丸のことを指す。
三韓からの凱旋後、神功皇后を乗せた御座船は長崎回りで有明海に入った。大川市の風浪宮で海神への感謝の祈りが捧げられ、その後、筑後川を遡って大善寺玉垂宮の前の湊に着いた。
御座船を楠に係留して川船に乗り換え、阿曇磯良丸は神功皇后と共に「あれなれ河」を遡って筑前宇美に向かった。
神功皇后が無事に出産を終えると、磯良丸は皇后と共に都に行ったという。
「あれなれ河」は『日本書紀』では「阿利那礼河」と書かれている。
そこでは、天の川そのものの話として登場する。
これに対して地上の「ありなれ川」は筑後川から宝満川、三笠川を北上して博多湾まで繋がっていた。
しかも、それを名付けたのは阿曇磯良丸だということになる。
次の写真は「ありなれ川」の描写を記した『日本書紀』の口語訳。拙作の一ページ。

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