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ひもろぎ逍遥

2019年 03月 05日 ( 1 )

持統天皇と天山1 岩蔵の天山神社 702年





旧「ウーナ」をテーマ別に分類中していましたが、「ワダツミ」は最後の方で、どうやら違う時代を混入させていることに気づいて、ひとまずウェイティングにしました。

今日からは「持統天皇と天山」というタイトルで、持統天皇の話を旧「ウーナ」から独立させていきます。

持統天皇の存在は福岡や佐賀ではなじみが薄いのですが、斉明天皇が白村江戦の時に福岡に来た時、同行しています。

その足跡は唯一、那珂川市に残っていますが、彼女が天皇になってから、佐賀の天山神社の創始に関わってその名が出てきます。

ちょうど一年前の連続の記事になりますが、一本ずつ編集しながら再掲していきます。(私がちっとも覚えていない(-_-;)




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鸕野讚良皇女(うののさらら)がのちの持統天皇です。








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持統天皇と天山1 

岩蔵の天山神社 702年



佐賀には天山神社が三つある。

天山(てんざん)とゆかりが深いが、『小城郡誌』を見ると、麓の三つの神社に祀られるようになった事情が書かれていた。



チェリーによると、
広瀬・晴気・岩蔵の天山神社と明星山をつなぐと、ほとんど一直線」ということだが、あいにく地図がない。
作図はチェリーに期待するとして(てか、ほぼ強要(^^♪)

今回は現地入りする前の下調べを先に記録しよう。のちに、現地の方に案内いただければと思う。


事の始まりは岩蔵の天山神社のようだ。

時は飛鳥時代の終盤、大宝2年(702)になる。『小城郡誌』より。


天山神社 小城市岩蔵2348

<岩松村大字岩蔵字馬場にある。
祭神は多紀都毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱である。

当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。>

ということで、祭神は宗像三女神。一直線に並ぶ三社はいずれも天山の上宮に対する下宮となる。しかも、久留米市の明星山に連なっている。


<当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので(略)>
とある。

郡誌によると、ここは文武、一条、二条天皇の勅願所だったという。
三人の天皇の在位を調べると、
   文武天皇(697~707)
   一条天皇(986~1011)
   二条天皇(1158~1165)
とあり、断続的に勅願所となっているのが分かる。

さて、「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだが、何故天山神社の建立を天皇が直接命令したのか、疑問が起きる。

奈良にいた天皇が何故佐賀にこだわるのか。
それが謎なのである。

この点について、郡誌は「参考」として不思議な話を残している。口語訳しながら紹介しよう。

<伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。

その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。

その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。

「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。

その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。

この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向の松」と呼ぶようになった。

この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>

影向(ようごう)とは神仏の来臨という意味だ。

つまり、三女神の神霊が七歳の童女に神懸かりして、清水を湧出させ、ここで国家を守護すると語ったということだ。

この神霊は東海から飛んできたという。それは何処かという答えはこの3年後に判明した。(つづく)



20180224 

20190305再掲




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by lunabura | 2019-03-05 16:24 | 「持統天皇と天山」 | Comments(0)

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