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ひもろぎ逍遥

2020年 02月 15日 ( 1 )

五十猛命 三兄妹 日本書紀を訳してみた



いくつも平行して物事を進めているが、そろそろ2月28日(金)のバスハイク、杵島郡の資料作りをせねばならないので、今日は五十猛(いそたける)を日本書紀から訳すことにした。

五十猛命の妹に、大屋津媛命(おおやつひめのみこと)と枛津媛命(つまつひめのみこと)がいる。

この三神が佐賀県杵島郡(きしまぐん)の山に二社に分けて祀られているのである。
妻山神社と杵島神社の祭神として。

ウィキペディアは便利だが、執筆者の好みで書かれているので、何故、佐賀のキシマに祀られているのか、考察の資料にならない。
実際に日本書紀を読んでみると、やはりウィキでは、必要な所が省略されていた。


ということで、日本書紀を訳してみた。

五十猛(いそたける)については、日本書紀の巻一、「一書第四」と「一書第五」に記されている。
ちなみに、父は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。




一書(第四) 五十猛は種をまいた



素戔嗚尊が高天原から追放された時、その子、五十猛神を連れて新羅国に天下り、ソシモリの所にいた。「この地に我は居たいと思わない」と言って、埴土で船を造って東に渡り、出雲国のヒの川上にある鳥上峰(とりかみのたけ)に着いた。(略)

五十猛神は天下りする時に樹の種を沢山持って天下ったが、韓地(からくに)には植えずに、ことごとく日本に持ち帰った。筑紫から始めて、大八洲国(おおやしまのくに)に播(ま)いて増やし、青山でない所はなくなった。

ゆえに五十猛命を名付けて「有功の神」(いきをしのかみ)とした。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。



一書(第五) 素戔嗚の毛が樹になった

素戔嗚尊は「韓郷嶋(からくにのしま)には金銀がある。我が子が治める国に浮宝(うくたから・船)が無いのは良くない」と言って、髭を抜いてまき散らすと、杉になった。胸毛を抜いてまき散らすと檜(ひのき)になった。尻の毛を蒔くと槙(まき)になった。眉毛は樟(くすのき)になった。それぞれの用途を定めた。

「杉と樟は浮宝とすべし。檜は瑞宮(みつのみや)の建材とすべし。槙は人が亡くなった時に使う棺にすべし。八十木種(やそこだね)を皆良く播き生やせ」と言挙げをした。

この時、素戔嗚尊の子を五十猛命と名付けた。妹の大屋津媛命(おおやつひめのみこと)次の妹、枛津媛命(つまつひめのみこと)の三神は木種を播く神である。

紀伊国に行ったのち、素戔嗚尊は熊成峯(くまなりのたけ)に行き、ついに根国に入った。


以上、日本書紀を訳してみた。
第四と第五では日本書紀が編纂された時代に、かなり内容が変わってしまっているが、
木を植える神としては素戔嗚よりも、五十猛と大屋津媛、抓津媛の三兄妹が信仰されている。

五十猛の名は古事記では大屋毘古という名になっている。

第四書を見ると、木の種を植え始めたのは「筑紫」とある。「肥前」の名は無いが、杵島郡(きしま)の名も五十猛の植えた「木嶋」から来ているというので、筑紫から肥前へと伝播したとも考えられる。

が、実はここは聖明王王子阿佐が逃げて来た所でもあり、朝鮮半島からダイレクトに繋がる海洋ルートがあることから、「筑紫」の前に「肥前」に上陸した可能性も捨てられない。

神功皇后が朝鮮半島から西海を経て筑後川に入って来たルートと重なってくる。



肥前には「基肄国」(きい)があり、紀伊国との関連性がずっと気になっている。
徐福も肥前にまずは上陸し、紀伊国にもその名を伝えている。
武内宿禰は父は肥前武雄、母は基肄。紀の武内宿禰の紀は何を隠しているのか。

いずれにしろ、徐福の時代から肥前から紀伊国への海洋ルートと文化の伝播ルートが存在し、のちに習合されていったと考えるようになった。

さて、当初の課題に戻ろう。

日本書紀を読んだ結果、杵島郡の二つの神社に植樹三神が分けて祀られている。
が、その理由は今のところ分からない。
現地に行けば、何か分かることがあるかもしれない。

<20200215>



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by lunabura | 2020-02-15 20:22 | バスハイク | Comments(2)

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