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ひもろぎ逍遥

日本武尊を祀る宮々を回った




昨日のバスハイクは心配していた雨も降らず、薄日が時々差すおだやかな小春日和でした。

今回のコースは遠賀川右岸と鞍手町に絞りましたが、日本武尊関連の宮は七社も回りました。
もちろん、もっと多いし、既に案内したところは除外しています。

どの宮もそのたたずまいは格別で、離れがたい聖地ばかりでした。

「皆さん、それぞれ心にもう一度訪れようと思ったのではないでしょうか」
とつい言ってしまいました。









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こちらは熱田神社。
白い梅が早い春の彩を添えています。

ここには多くの物語があります。








バスの中でも話し尽せませんでした。

剣神社や八剱神社で手を合わせる神は日本武尊なのです。
そしてミヤズ姫やキヌタ姫。


幾重にもわたる歴史の古層。

このブログを書き始めた時から起こり出した歴史の蘇りを思わずにはいられません。
自分はどう表現するのか。

そう自問する日々です。



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# by lunabura | 2019-02-23 21:14 | バスハイク | Comments(0)

明日はバスハイク♪




今日は二度目の更新です。日本書紀シリーズはこの前記事に投稿しています。

明日の2019年2月22日は斉明天皇とヤマトタケルの足跡を辿るバスハイクです。

遠賀川流域を回りますが、ホント多いですね。「タケル日記」が書けそうなくらい。

このバスハイクは各神社の縁起を社内で学んで現地を歩くスタイルです。
で、今回は「脇巫女」や「ひめちゃご」の舞台でもあるんですね。

縁起と重なるように、星読の不思議な物語が語られた所です。

新延(にのぶ)の剣神社は日本武尊が凱旋して鎧を奉納した伝承を伝えていますが、星読によると、瀕死の傷を負ったヤマトタケルが泉水という所で飲んだ川の水に水銀が含まれていたために、苦しくて鎧を脱いだとなっています。

熱田神社の聖域である亀甲は日本武尊が地神を祭祀した所です。地神とは天照大神をはじめとする5柱ですよ。

現地はスズメバチの巣があったので、明日は行きませんが、そこが石占いのオバアがいた所です。ウーナもそこに少し滞在し、石占いを村人に教えたんですね。それがヤマトタケルの時代まで受け継がれていたというリーディングが出ました。

ウーナの話はブログではなく、別の方法で形にしようと考えています。


熱田神社は熱田モノノフの星読の拠点で、ここにサヨリ姫を置いてフルべモノノベに話を付けに行きました。懐かしいですね。

これも、もう一度全体を見通した形を造りたいですね。

ブログに書いている時点では何が起きているのか、さっぱり分からずにメモったのです。

ブログの読者の方でバスハイクに参加する方は、この二重の世界、不思議な多次元の世界を楽しんでください。

明日は鞍手では学芸員の方の説明も伺えるようになりました。古墳の中に初めて入ります。懐中電灯を各自持って来てくださいね。キラキラする石を見ましょう。

六嶽神社も特別に三女神が降臨している絵馬を拝観できます。
お楽しみに。

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# by lunabura | 2019-02-21 23:29 | バスハイク | Comments(0)

16.聖明王の仏像献上と救援軍の依頼「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」 



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  16 

聖明王の仏像献上と救援軍の依頼


欽明12年(551百済の聖明王新羅と組んで、任那と共に高麗を攻めた。漢城を得、兵を進めて平城を討ち、六郡を取り戻した。
(百済が新羅といつの間にか同盟を結んでいるが、その事情は書かれていない)


翌年、欽明13年(552)に百済、加羅、安羅などから我が国に使者が来て、
「高麗と新羅が内通して、倭国の臣である我が百済と任那を滅ぼそうとしています。

救援軍を送っていただければ攻めることができます。兵の多少は天皇の勅にお任せします」

と奏上した。
(今度は新羅は高句麗に寝返って百済を攻めるという)



天皇は
「百済王、安羅王、加羅王、日本府の臣たちとそれぞれ使者が来ているので状況は分かっている。

任那と共に、心と力を一つにすべし。

そうすればかならず天の福を授かり、かしこき天皇の威力に頼ることができる」と答えた。

(何故か天皇が自分の事を「かしこき天皇」と称しているのは、史料が百済のもので、うっかり百済人の立場で書いたからと考えられる)


10月に聖明王は我が国に仏像や経典を献上してきた。
その功徳を述べ、仏陀が「我が法は東に伝わるであろう」という予言を果たすために贈ると申し上げた。

天皇は喜んだが、その受け入れを自ら決定することは避け、群臣を集めて「敬うべきか否か」と問われた。

蘇我大臣稲目宿禰
「西の国々がみな敬っているのだから、日本だけが背くわけにはいきますまい」と言った。

物部大連御輿中臣連鎌子
「我が国が天の下の王たる国であるのは、天神地祇百八十神を春夏秋冬にお祀りしているからであります。

それなのに他の国の神を拝んだら国つ神の怒りをこうむることになります」
と申し上げた。
(ここに出てくる中臣鎌子は藤原鎌足ではない)


天皇は「ならば稲目宿禰に授けて試みに拝ませよう」
と言われた。

大臣が家に持ち帰って安置して修行をしたが、この時疫病が流行ったため、物部御輿と中臣鎌子の奏上によって、仏像廃棄となった。寺に火をつけると延焼して大殿が被災した。


欽明14年(553)百済は再び援軍を求めてきた。

6月に内臣を百済に派遣した。この時、馬二頭、船二艘、武器などを贈った。

さらに日本に仕えていた医博士、易博士、暦博士の交代を命じ、卜書、暦本、薬を送るように百済に求めた。
(内臣の名を欠いているが、阿倍内臣鳥のことかと推測されている)


8月、百済は使者を送ってきた。
「百済と任那がしきりに日本に行くのを知って、新羅と高句麗は自分達を攻めようとしているのだろうと考え、日本の軍隊が着く前に安羅を討ち取って、日本の進路を断とうとしています。

ですから、前軍と後軍と続けて救援軍を送っていただいて、秋には官家(任那)を固めましょう。任那や百済での駐屯の服や兵糧は百済が負担します」
と言った。

また別件で的臣(いくはのおみ)が任那で善政を敷いていたが、亡くなってしまったので、次の最高官を送るようにと依頼した。また弓馬の不足を訴え、贈与を求めた。
(的臣は浮羽だろうが、ここも名を欠いている)



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このシリーズのコピペ厳禁。

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# by lunabura | 2019-02-21 17:05 | 磐井の末裔 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25