2019年 04月 25日
青く染まる日 穂掛神社にて 饒速日を祀る
今日はバスハイクで宮若市、飯塚市の古代世界を廻ってきました。

ここは千石キャンプ場。洪水で壊れた沈下橋の向こうに穂掛神社があります。

100mほど上流の橋を渡って参拝。


天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊のみを祀る神社です。

身も心も青く染まる一日でした。
20190425
福岡県宮若市 いこいの里「千石」キャンプ場 穂掛神社


2019年 04月 25日
2014年 06月 03日
筑前上座郡杷木大明神は鎮座の始めを知る人はいない。左の殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊と伝え、右の殿は大己貴命、武𤭖槌命の四柱の御神を二社に崇め奉る。上手く訳せない所は元のままにしています。(+_+)
そもそも人皇二十七代継体天皇(附記、継体天皇は第二十六代なり)の御宇に筑紫の磐井らが謀叛を企て、異国の御調物を奪い取る。
是により朝廷は勅旨を下し、麁鹿火大連(あらかひのおおむらじ)を将として、官軍は筑石に進発し、筑後国にて大連は磐井と相戦う。御井郡にて官軍は大いに利を得て終に磐井を討ち殺し、麁鹿火は凱陣した。
ところが磐井の残党青人ら土の蜘蛛餘類と力を合わせ、心を一つにし、豊前筑前の間に蜂起した。これによって大連は勅旨を下し、豊前国の企救長手、鷹羽金田麿、筑前国三笠郡の田中鷲丸、田中男起(或る書に男立と云う)らに官符を伝えた。
件(くだん)の人々は勅を奉り、官兵を引き連れて、両国に発向したが、残党らの勢いは盛んで、官軍は度々利を失った。
しかし、大将鷲丸が言った。
「上座郡には大己貴命、武𤭖槌命が御鎮座と聞く。かの御神の冥助を頼み申すのはどうだろうか、云々」
皆、同じ心だった。
そこに池田の池と云う奇異の池があった。その池の汀に高棚を構え、真榊を立て、端で縄を曳き、大幣を捧げ、官軍の勝利を祈った。
是より鷲丸らの勢いが盛んになり、風が草を靡かすが如く、官兵は各々神助を受けた。是によって、青人土蜘蛛ら、ここかしこで滅亡し、西国立つるところ、平均す。
天皇、大いに叡感御座し、鷲麿、男起、長手、金田丸に衣服、刀剣を賜り、杷木大明神にうつし、馬二匹、弓箭・幣帛を捧げた。即ち物部宿禰高古を祭主とし、朝敵退治の蟇目の射法を勤めた。尤恒の祭祀、是時より始まった、と云々。
維時大永二年壬午二月穀日
神坂源大夫藤原貞家之を誌す
2014年 06月 02日
往昔は元上座郡上鄕十八ケ村の宗祠である。延喜式和名抄把伎鄕を例祭前の鎮祭区域とする。
第28代(附記継体天皇は第26代なり)継体天皇の御代以前の創始にして筑紫の磐井の残党、謀叛の際、官軍の勝利を祈願した由緒をもって、矢納めの式がある。
磐井残党平定の報賽として、朝廷より宇津志馬二匹、弓矢幣帛捧げられる。恒例の祭祀はこの時より始まったという。(大日本地誌所載)
2014年 05月 16日
由緒この縁起の「皇居の辺なる清浄の地」に驚いたのです。
斉明天皇七年創立。
明治五年十一月三日村社に被定。
当社は朝倉橘の広庭の宮に遷幸された時、朝倉社の木を伐り宮殿を造られたので神怒り祟られて殿を壊された云々と日本書紀に出ている。
この時、皇太子中大兄皇子は先帝の罪を償われて皇居の辺なる清浄の地を占って陰神伊弉冊尊(いざなみ)を別けてここに勧請されたので、社号を別所神社と称し、事解男、速玉男の二神を合祭して三座とする。
いにしえ社頭の繁栄の時は当村の八並という所に神幸をされ神楽を奏して厳重に祭祀を執り行った。
また、拝殿の柱の礎石は、非常に珍しい蓮華模様が彫られており、これは朝闇寺(廃寺)より持ってきたものではないかといわれている。この礎石は朝闇廃寺から持って来た可能性があるんですね。
5月9日 朝倉に遷幸。
5月11日 斉明帝、中大兄皇子 福成神社にて戦勝祈願。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮
2014年 05月 14日
所在地 福岡県朝倉町大字須川字下須川3197-2
祭神 事解男命(ことさかお)伊弉冊尊(いざなみ)速玉男命(はやたまのお)
西暦661年、斉明天皇は百済救済のため、中大兄皇子ら文武百官を従え「朝倉橘広庭宮」(あさくらのたちばなのひろにわみや)に入られた。ほどなく病にかかられたため、中大兄皇子は麻氐良山の朝倉社の祭神「伊弉冊尊」を別けて祀り、斉明天皇の御病気平癒を祈願されたのがこの別所神社である。なんと麻氐良山!(まてら)が出てきました。
昔は須川村の氏神として祀られ、百年前までは、ここより南のお旅所(宮野幼稚園北側)まで御神幸が行われていた。
3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津宮とされました。橘広庭宮の造営のために朝倉神社の木を切り取っています。
夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)
5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。
また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)
8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて喪儀を見ていました。人々は怪しみました。
最後に、イザナミの命がみずから追いかけて来ました。黄泉の国まで探しに来てくれた愛しい夫が、約束を破った上に逃げて行き、
そこで、イザナギの命は千引(ちびき)の岩をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引いて塞いで、その岩を間に置いて、互いに向かい合って立ち、イザナギの命が絶縁の言葉を言い渡しました。
すると、イザナミの命は、「いとしいあなた。こんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人、くびり殺します。」と言いました。
そこで、イザナギの命が言いました。
「いとしいわが妻よ、そなたがそんな事をするなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう。」
こういう事から、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれるようになりました。
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮
2013年 05月 03日
村社 八幡宮 大字谷山字屋敷
由緒
筑前国続風土記拾遺にいわく、
村の乾(いぬい・北西)の方にあり、産神である。
祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫である。
祭礼は9月28日。木梨氏が奉仕しているという。
社説に、当社は昔は字若宮に鎮座していた。
天文年中に今の古屋敷に御遷座したという。
当郡の中で崇敬された御社であるという。
文化13年、郡中より本朝三部本書ならびに異国退治の大絵馬など寄附奉納あって、今も掲げている。
社地は広く平らで、5~600年の巨木のクスノキ、ケヤキが鬱蒼として一見幽厳な風教を感ずる。
2012年 08月 22日
追記となりますが、「日守八幡神社」の由緒ですが、(句読点、読み仮名を追加しました。)
御祭神:応神天皇 神功皇后 菅原神
由緒:神功皇后三韓征伐の砌(みぎり)、宇美にて御生の際、此の地に暫く駐輦(ちゅうれん)、何事ならんかと日を守り給いしより、字(あざ)の名を「日守」(ひまもり)と云い、「日守石」もあり創建せられしお社にて、後篠栗線の横断に依り天神森に移築。天満宮と合祀す。(明治四十三年六月三日)
上記のデータは昭和四十一年に当時、糟屋郡篠栗町のとある神社の宮司さんによって編輯された「粕屋郡神社誌」よりの抜粋です。
2012年 03月 30日
旗頭神社由緒この由緒書きでは竹内宿禰が陣営を構えたのは応神天皇の時代になっています。
創建 大永2年(1523)
祭神 武内宿禰
志賀三神 住吉三神 大国主命 事代主命
麻生興春神霊
二千余年の昔、応神天皇は武内宿禰に筑紫路の人民視察を命ぜられた。命を奏した武内宿禰が洞(くき)の海を過ぎるとき、西北の方に怪しい声がするのでこの地に陣を構え警戒を厳にした。陣原(じんのはる)の地名はこれによると言い伝えられている。
明応・永正の頃(1492~1520)黒崎花尾の城主として遠賀一円を領有していた麻生興春が花尾城から山鹿城に移るとき陣原の里でしばし憩い、この亀山の地は殊の外眺めがよく花尾の本城も望むことができる。没後はこの地に葬るよう家臣に言い遺して旗を指し立てて標(しるし)とした。大永2年(1523)興春の遺志によって旗指社が創建された。
慶長11年(1606)黒崎城山の城主井上之房は敬神の念が篤く特に武内宿禰の徳を敬慕していたので社殿の再興が行われ、之房が住いを陣原に移す頃、旗頭社と呼ばれ、陣原の産土の社として広く尊崇された。
その後、長年の風雪と共に老朽も加わったので幾度か加修改築が行われたが文久2年(1862)の社殿造営で今日に至った。
社伝にいわく、神功皇后が西夷を討とうと武内大臣を施主にして新羅に至った。新羅の王は戦わないで降伏した。高句麗・百済の二王も畏れて和平を申し入れた。これを見ると神功皇后の時代に既にここに陣営を構えていたのが分かります。
皇后は凱旋の時にここで陣を構えた武内宿禰の軍令が厳整としていたので、「いくさばる」と称した。その後、社廟を建てて旗頭神社と名が付いたのが当社の起源である。
2012年 01月 07日
福成神社 朝倉町大字入地字宮ノ本1673あっと驚く名前が次々に出て来ます。上から順に見ていきたいと思います。
祭神 宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)
斉明天皇
天智天皇
別名を「印鑰(いんやく)大明神」ともいい、朝倉町で最も古い神社である。毎年10月26日には祭礼が行われる。
その昔、神功皇后が熊襲を征伐し、三韓に兵を進められた時、宗像三神を祀り海路の安全を祈られ、この地に来られたといわれている。この時皇后は、「神の助けによって大いに福成りぬ。」と言われたことから、福成神社といわれるようになったと伝えられている。
また斉明天皇も、百済救援の時、中大兄皇子らと共にこの神社で戦勝祈願をされたといわれている。
なお、神社の東方には、謡曲で有名な「綾の鼓」の舞台となった桂の池跡があり、謡の中に出てくる「源太老人」を祀ったといわれる地蔵尊が、神社の西側にたてられている。
今から約1300年前、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷られた頃、天皇にお供してきた女官に、庭掃きの「源太老人」が思いを寄せていた。しかし、身分の違いからこの恋は実らず、源太老人は「桂の池」に身を投げて自殺してしまった。源太老人の恋の話はどこかで聞いたことがあったのですが、
一方女官は、毎晩源太老人の亡霊になやまされ、とうとう気が狂い池に身を投げてしまったのである。そこで、源太老人の供養のためにこの地蔵尊がたてられ、隣には源太の墓がたてられたのである。
この地区では、毎年4月13日になると、源太老人の供養のためにお祭りが行われている。なお、現在、桂川にかかる橋名を「宮殿橋(ぐうでんばし)」といい、その横には「桂の池跡」の石碑がたっている。
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