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カテゴリ:高良大社・玉垂宮・久留米市( 22 )

「高良玉垂宮神秘書」アントンイソラは6条に有り



「高良玉垂宮神秘書」

アントンイソラは6条に有り



安曇か阿曇か。

「あづみ」の表記をどちらにしようか、ずっと悩んでいました。
音読みすれば「安曇」はアンドン、「阿曇」はアドンです。

出来るだけ古い字体を使う方が汎用が効くのです。
そんな時、「高良玉垂宮神秘書」の6条に、次のように書かれていたのを見つけたのです。











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安曇磯良はアントンイソラと呼ばれていました。
発音は「曇」の字から、アンドンと発音されていたのが分かりますね。

これで、いろんな謎が解けたのです。
そして、安曇の表記を使うようになりました。




そして、今現在は春日大明神がいったい誰なのか、訳が分からなくなっていたのですが、6条から、中世頃は安曇磯良を指していることに気づきました。

でも、藤原氏の神が何故、安曇磯良?


その手掛かりは藤原鎌足が祀った宮野神社(朝倉)にあるのですが、どう論考したらいいのか、まだわかりません。





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by lunabura | 2018-01-09 21:17 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(8)

「玉垂宮」の由来は「高良玉垂宮神秘書」509条に書かれている



「玉垂宮」の由来は

「高良玉垂宮神秘書」509条に書かれている



高良玉垂宮の「高良」の由来は先に書きましたが、
「玉垂宮」の由来も「高良玉垂宮神秘書」に書かれています。


509条です。





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訳をしてみると、解説が要らないほどわかりやすいですね。
竜宮=志賀島(龍の都)から干珠満珠を賜って、神代(地名)に納めた故に「高良を玉垂宮とは申すなり」と言っていますね。この時代の高良玉垂命は安曇磯良です。
だから、神事で白い覆面の布を献上するんですね。これは別の所に書かれています。






同じ内容を


に書いていますが、あれこれと書くより、縦書きを読む方が直観的に理解できますね。

抜粋本には訳と解説を付けているので、およそ100ページ近くになっています。







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by lunabura | 2018-01-04 20:27 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

「高良玉垂宮神秘書」のこと



「高良玉垂宮神秘書」のこと


大体、「高良玉垂宮神秘書」は文盲の人のためにカタカナ書きにした、と書いていますが、歴史的仮名遣いでカタカナという組み合わせは、現代人にとって分からないものになっています。

それなのに、第一条の文末に「ヒスヘシ、ヒスヘシ」(秘すべし、秘すべし)と書かれているもんだから、かえって秘密を知りたくなるという、フラストレーションを高まらせる出だしになっているんですね。

200条には、
「物部に背いて三所大菩薩の御神秘を他の一般人が知ると、当山は滅亡する。」
なんてことまで書いてあります。

これを読み解いたので、カラクリを説明したいのですが、多分、本一冊分になります。


歴史カフェや久留米大学で2~3時間で話した内容ですが、文章にするにはすご~く時間が要るんですね。文章が上手ければ簡単なことなのですが。

けれども、解説本をいつかものにしたいな、という願いも持っています。

夢は二つ。
「高良玉垂宮神秘書 抜粋本」を本の形にする。
「高良玉垂宮神秘書 解説本」を書く。

商業べースに乗らないものですが、きっと道はあると思います。
ま、読みたいという方があればこそですが。


<2018年1月2日>



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by lunabura | 2018-01-02 21:59 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

宙ぶらりんになった「高良玉垂宮神秘書 抜粋本」



宙ぶらりんになった

「高良玉垂宮神秘書 抜粋本」




2015年の夏、「高良玉垂宮神秘書 同紙背」を手にしたら、猛烈に訳をしたくなり、あっという間に訳してしまいました。訳をして、一条ごと、すべてに解説をつけました。

もう二年半前のことになります。

これは祭神の変遷が分かる部分だけ抜粋して口語訳をし、項目別に分類したものです。全551条のう86条を抜粋して、項目別に書き分けました。

その結果、高良玉垂宮の祭神は白村江戦の前と後で大きく変化したことが分かったのです。

それを発表したのは2017年。歴史カフェと久留米大学の講座の時でした。

その後、出版の話が二件ほどあったのですが、あいにくどちらも駄目になり、自分で印刷して手売りしてはどうか、というアドバイスをいだたきました。


その方法も有りで、粗末な手刷り本でも構わないと思われる古代史ファンに届ける一つの方法で、最終的な方法かなと思っていたのです。

ところが、いざ印刷してみようとすると、パソコンの買い替えでワードの字が変貌していました。

パソコンのワードはバージョンアップする度に文字が一部変わるのですが、これに引っ掛かってしまいました。

ビスタの時代に作成したワードをウィンドウズ8・1で開くと、前使っていた文字が別の字体に変わっていました。さらにウィンドウズ10では更にお気に入りの字体が無くなっていました。

ルビをたくさん打っていたのですが、新しいワードでは行間が広がってしまい、意図したものとは違ってしまったのです。

再び編集していかねばなりません。これに取り掛かるとしたら、ずっと先かな。

そこで、今年の目標として、もう一度スポンサーを探すなりして出版できる方法を模索することにしました。

それが駄目なら、自分で印刷するかな。


この抜粋本の特徴として、目次を工夫して、タイトルだけで内容が分かるようにしています。
以下は目次の一部です。
実際は縦書きのものを横書きにしました。数字はページです。


1章【高良大菩薩】

高良山の名の起こり 一四三条     15
四方の固め 五一一条        16

【神籠石と八葉の石畳と馬蹄石】
住厭・八葉の石畳の起こり 一四四条16
八葉の石畳 一二四条         16
神籠石 一二九条            16
馬蹄石 高牟礼を出し抜く 三二八条17
高良内は高良の結界の内 一八二条   19

2章 【三種の神器と干珠満珠】

神代に干珠満珠 五四二条      20
干珠満珠は五寸の勾玉 五〇九条   20
玉垂宮の由来 五〇九条         20
山上の一火は三つの玉の霊力 二一四条21
麓の一火は鏡の霊力 二一五条      22
ホウクハンを内裏へ申さず 二三九条24


目次を見て例えば15ページを開けば、その条が出てきます。



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一条ごとに
   1 漢字平仮名混じり文
   2 口語訳
   3 要約
   4 解説
を書いています。


誰が読んでも理解できるように。

今の世代、そして次の世代への贈り物として取り組みました。

アドバイスがあれば教えてくださいね。
今年の終わりまでには何らかの形にしたいと思います。



<2018年1月1日>



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by lunabura | 2018-01-01 20:06 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(4)

玉垂命は安曇磯良(アントンイソラ)




今日は久留米大学公開講座でした。
参加の皆さま、ありがとうございました。

3時間の講座のために12ページの資料を準備しましたが、
無事、最後まで読むことが出来ました。

あとで何人かの話を伺いましたが、
高良山の歴史は深く、広大な地域に影響を与えているのが
よく分かりました。

古くて、かつ今も歴史が生きているのが高良山です。

さて、準備した画像の一枚です。






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拙著『神功皇后伝承を歩く』からも画像を集めてみましたが、
なかなか面白いです。

左上から干珠満珠の形は15センチの勾玉と伝えています。

上中は高良玉垂宮の正面の龍と波。海の波と龍神の組み合わせは綿津見神ですね。
綿津見神は志賀海神社の祭神で、志賀島は龍の都(たつのみやこ)。


高良山と志賀島の繋がりを示唆しています。


上右は門司の和布刈神社の和布刈神事ですが、これは
安曇磯良が神功皇后に干珠満珠の秘法を授けた(玉垂)ことを示す神事です。

左下は志式神社の「磯良舞」。
海神(わたつみのかみ)が豊姫(神功皇后の妹)に干珠満珠を授ける場面。

どれもが「玉垂」(たまたれ)を表しています。
こうして、正史からは消されたアントンイソラですが、
今でも各地で伝えられています。

玉垂命は安曇磯良のことです。






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by lunabura | 2017-05-27 22:42 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(4)

高良玉垂宮神秘書 黒龍紋は玄孫大臣



黒龍紋は玄孫大臣




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この不思議な絵は「高良玉垂宮神秘書」に載っているもので、
黒龍紋を具体的に描いたものだ。

241条に書かれている。


描き方の指示が載っている。

五か所ぐるりと巻くように。
ウロコと足と手、顔そして尾は剣の形。なるほど尾の形は特徴的だ。


これは玄孫大臣の紋ということなので、武内宿禰の紋と解釈した。




門光紋というものがある。


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住吉神が四天皇として雲間から現れたようすを描いた紋だ。

この住吉神は何故か兜率天に居た。
(神が仏の世界にいたという不思議)





本条の説明を書こうとしたが、
論理が破綻していて、上手く説明できない。(´・ω・`)

要するに、
天武天皇即位二年に仏教が入ってきて、上宮も下宮も物部氏が頭領となったため
黒龍紋も門光紋も同じように使うようになったということ。

上宮は安曇から物部そして住吉と変わるので、ややこしい。


「玄孫」ということばも、1条ではアマテラスのひ孫だと書いているのに
本条では龍宮の孫と書き換えている。

書いた本人ももう分からなくなっているのだろう。
取りあえず、原文を平仮名書きに代えたものを掲載。



五輪が終わった夜長にチャレンジしてくれたまえ。

そういえば、この黒龍も五輪だ。

この話はややこしすぎて、歴史カフェでは触れませぬ。




「二四一条
一、表筒男尊 玄孫大臣の異国のヲンムケニハ、御紋は黒龍にて、五所巻きたる龍なり。イリコ、足、手、面(つら) 尾の剣までありありと描くべし。これリウコウの御孫たる故なり。母方なり。御兄弟の流れなれば、大菩薩の御紋、門光を今に大祝職紋にいたすなり。大祝職の紋、黒龍を大菩薩の御紋にいたすこともあり、これ即ち大菩薩、大祝職同体異名たる故たり。門光を五ところ描き、龍をかくのごとく描くなり。」





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by lunabura | 2016-08-24 22:23 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(18)

高良玉垂宮神秘書・ミサキカラス

高良玉垂宮神秘書

ミサキカラス


先日、こんばんわんさんから、古代日本の帆かけ舟の線刻画が紹介されました。

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3世紀の岐阜県大垣市荒雄南遺跡から出土した土器に描かれた三隻の船のうち二隻は帆かけ舟だということです。中央の吹き流しの様子など、生き生きと描かれています。

多くの櫂(かい)はクフ王のピラミッドの脇に埋納されていた太陽の船を思い浮かばせます。



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(画像出典 ウィキペディア)
エジブトで復元された太陽の船の画像を見ると、多くの櫂が躍動的です。テレビで見た復元船には帆がついて、優雅にナイル川を通っていました。



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これは、先日紹介した「ふくおか古代ロマンの旅」(福岡県大阪事務所)のイラストです。

上が福岡のうきは市の珍敷塚古墳の壁画。下がエジプトの紀元前14世紀ごろの壁画。下の画の舳(とも)を見ると、撞木鮫(しゅもくざめ)のような形をしています。
先程の荒雄南遺跡の舳の形はそっくりですね。

これらは、いずれ古代エジプト人の渡来を裏付けるものになることでしょう。海には国境はなく、古代人にとっても海洋は境界のない自由な世界だったようです。




日本とエジプトに共通する太陽の船の舳先(へさき)にいる鳥が今回のテーマです。


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珍敷塚古墳では赤い色で描かれていますが、その姿はカラスを思い起こさせます。足、何本かな?よく分からない。

昨日、過去記事の八咫烏を再掲したのは、この「カラス」について考察したかったからでした。


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このカラスは大善寺玉垂宮の縁起絵巻にも描かれています。しかも石人の上に止まっています。これは二本足です。

この武人像が「石人」(せきじん)であるという理由は他の人物(この画像外)が多色で描かれているのに対して、単色で描かれているという点にあります。

先日、久留米大学で吉田氏がこの武人像は磐井ではないかと発表されたのですが、カラスのことは分かりませんでした。ところが、思いがけない所にその解答が書かれていたのです。それが「高良玉垂宮神秘書」の中でした。

このカラスは「ミサキカラス」と言いました。142条

【訳】(酒見から)大菩薩は御船に乗って黒崎に上陸されて、住む所を探して御覧になると、北の方角に山があり、そこが良いと思われ、御旗を三流れ投げられた。旗はほどなく飛んで上宮の上に立ち靡いた。旗が靡くその方向を旗崎と名付けた。

また一説にはその三流れの旗が届いた?ともいう。背後を固めの兵に任せて登られた。

瀬高イチカウラへ馬で行き、山の景気をご覧になったのでイチカウラという地名がついた。

その後、遥か彼方に人が大勢見えた。「異類が攻めて来るぞ」と思われて、ミサキカラスを遣わして調べさせた。すぐに行って彼の人を噛んだ。「人形だ」と言われたので「人形」と名がついた。


大勢の人がいて、異類(異国人)に見えたので、高良大菩薩は「みさきからす」を遣わすと、カラスが人に噛みついても全く動かなかったことから「ヒトカタ」と分かった訳ですが、これが石人を指すと考えられます。

石人石馬は磐井の時代のものですから、大菩薩(安曇磯良)3世紀初頭と時代が逆転している点は、前述の仏教の話と同様、時代が分からなくなっていたからでしょう。

そうすると、この人形の話は創作となる訳です。が、大善寺玉垂宮縁起絵巻が高良山と同様の縁起を伝えていることは押さえておきたいと思います。

今回のテーマである「船の先に描かれている鳥」は筑後では「ミサキカラス」と呼ばれていたのが分かりました。「みさき」を頭注では「御前」と書いていました。

真鍋はカチガラスが八咫烏であり、賀茂氏がそれを伴って縄文弥生には渡来していたように書いています。賀茂氏は「隻眼一目の神」と崇められたともいいます。鉄を作り、金銀を作っていました。


八咫烏=ミサキカラス
国によって、地方によって言い方が違うけど、船の先で安全を確かめて導いてくれる鳥のようです。










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by lunabura | 2015-08-11 21:36 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。(2)

神秘書・

神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか。(2)

前回は、弥生末期に帆柱の船を作ったという伝承が周防灘周辺各地に伝わっている話をしましたが、その船の構造について「高良玉垂宮神秘書」に書いてあるので、今回はその条を読んでみます。

(カタカナと漢字の原文を平仮名と漢字に直しています。一部の漢字には綾杉の解釈が入っています。)

213条
【訳】異国征伐の時、御船を作られたことは、神功皇后が阿弥陀如来の変化でいらっしゃるからで、六十八チウセの悲願を起こし、人倫苦界の衆生を御救いになった法蔵比丘の誓い四十八願を忘れずに四十八艘の船を作られた。

御船の長さは天神七代、地神五代合わせて十二代を表して十二丈と定められた。ともは五色で、五仏を表す。舳先(へさき)五色は五躰尊不動を表している。中の船ハリ四つは四天王、ともの船ハリは金剛界の大日、へさきの船ハリは胎蔵界の大日を表す。

以上、船ハリ六本である。三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。船の名は竜頭鷁首と名付けた。


上記には検討すべき問題がいくつかあります。思いついた課題は次のものです。

1)船の設計理念が仏教によるものである。仏教伝来と時代が合わない。
2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。
3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

1)船の設計理念が仏教によるものである。

「神功皇后が阿弥陀如来の変化(へんげ)」と書かれています。神功皇后は香椎菩薩とも言われていますが、ここ高良山では阿弥陀如来の化身と考えられていました。

しかし、仏教の説明は時代が合いません。手掛かりが「法蔵比丘(びく)」です。

建造した船の数の「48」という聖数は「法蔵比丘(びく)の誓いの数」が起源と書かれています。「法蔵」を調べると643年生まれで 712年没。中国唐の時代における華厳宗の僧となっています。

時代が明らかに逆転しているので、213条に書かれた船の構造に仏教の思想に基づくという説明は後付けの作り話だということになります。
 


2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。

「竜頭鷁首」は原文は「リウトウケキシウ」となっています。
「竜頭」とは船首に竜の彫り物をしたもの、「竜頭」とは「げき」という想像の鳥の彫り物をしたもので、二艘一対の平安時代の船です。


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画像はフォト蔵より

竜頭鷁首に関しては、平安王朝文化と神功皇后を結びつけた想像の話でしょう。



3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

三本マストについてウィキペディアで調べると、地中海では紀元前7世紀にはマストが付けられ、三本マストの最も古い記録が紀元前240年ごろに出て来るとあります。

当時、フェニキア人が地中海から外海にでてスペインへ行った記録も書かれています。フェニキア人というと、琉球大学の木村教授が与論島沖の海底遺跡はフェニキア人のものという説を出してあります。

真鍋の家伝にもフェニキア人が日本にやって来た話が次のように書かれています。

(双子座の一対の星、カストルとポルックスは)地中海では、北極星以上にこの方が航海目標になっていた。Troyaトロヤ人Phoensiaフェニキア人は、いずれもこの星を仰ぎ見て行方をさだめていた。

そして船の檣(ほばしら)に電光なるSt.Elmoセントエルモの炎が輝く時、嵐がいかに猛り狂っても、その船だけは神に守られると信じていた。しかしその子孫がいつの頃か極東に進出した後はこの神話を語る倭人はなくなっていた。

替って風神天女が帆柱の上を舞うと嵐はやがて静まるという奇蹟にも似た伝説は仁治元(一二四一)年のころまで筑紫に語られていた。

 西海は神代のころ志那都比古命を祀り、これを日夜拝んで船の行方の平らけく安らけきを祈る信仰があった。『儺の国の星』p188
 


トロヤ人やフェニキア人は、帆柱の先端が発光すると嵐が収まることを知っていました。彼らは極東(日本)に来ていたのですが、その話がいつしか消えました。しかし、その発光現象が風神天女の舞という形に変化して伝わっていたといいます。


また、真鍋は他に、ウラルアルタイ民族の巫女の部屋に鳥の首の彫刻を飾りつける習慣があり、これが天鳥船(あめのとりふね)の守り神として、港や岬の石塔に竿につけて建てられたとも書いています。

この双子座を筑紫では聖母星と言い、「神功皇后と皇子」に見立てていました。

鳥の首、船、二つ星(双子・神功皇后母子)。

どことなく星の伝承と神功皇后の船、竜頭鷁首が重なってきます。

神秘書を書いた保房(やすふさ)は戦国末期から江戸初期を生きた人。彼の記憶には千年以上も前の皇后の面影がこのようなキーワードで残っていて、言語化するとき、一対の竜頭鷁首やマストの話となってしまったような印象を覚えます。


真鍋はフェニキア人についてさらに次のように書いています。

うみへび座のアルファド星を飛廉(ひれん)の星と言う。

フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第26王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。


飛廉(ひれん)とは風の神で、三韓征伐の時の倭軍の船をたすけた神です。

真鍋家ではフェニキア人が紀元前6世紀頃には日本に渡航したと伝えていたようです。


三本マストの船を持つフェニキア人が渡来していたなら、皇后の船に三本の帆柱があった可能性も充分にあります。

さて、「三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。」と神秘書に書かれています。「過去・現在・未来」と、近代的な発想で語られている点にとても驚いたのですが、これも仏教思想の影響で、保房が考え付いたものではないかと思われます。


ところで、保房が生きていた時代、中世末期から近世初期といえば、南蛮船が渡来していたはずです。南蛮船が三本マストだとすると、保房が南蛮船から連想して書いた可能性もあると思い、画像を探してみました。

c0222861_2115263.jpg

画像出典
http://www.bungobunka.com/pro22.html


ありました!これは三本マストですね!保房が南蛮船を見たり聞いたりした可能性も出てきました。そのため、神功皇后の船も「かく在らん」と考えた可能性もあります。だからと言って、皇后の船が3本マストではない証拠とはなりません。

以上、神功皇后の船にマストがあったことは確信しますが、3本だったかどうかは、213条だけでは決定できませんでした。



次に竜骨について。

237条
【訳】大善寺の名の起こりは、高良山の寺社が始まった月に大菩薩のお言葉に「大いに善き所」とあったので、大善寺と付いた。大菩薩が高良山へ来られる前に、九月三日、大善寺に上陸され、五日間逗留され、船を検査し、カウラを捨てられたことから、御舟山という。七日の午の刻から舟を仕立てて酒見へ上陸され、波風の神(少童神)をおさめ、天の二十八宿、地の三十六、二十五余り併せて九十九尊を祀られた。のちには風浪権現として祀り、やがて九十九社とした。(略)


文中、カタカナのまま書いた「カウラ」を注では「竜骨」としています。

久留米の大善寺玉垂宮はその船が御神体とされています。船をどうやって御神体とするのかイメージが湧かなかったのですが、竜骨が御神体とすると、うなずけるものがあります。

酒見には風浪宮があり、近くに国際港だった榎津があります。そこから筑後川沿いに大善寺まで大型船が乗りつけられたんですね。

安曇族は大陸との交易を考えた時、風浪宮と大善寺玉垂宮は絶対に譲れなかったとみえます。

磯良(高良大菩薩)は乗り捨てた船を検査すると傷んでいたので、新たに小さな船を作った話が神秘書の中にも数カ所に出てきます。

ガイドブックでは風浪宮から大善寺玉垂宮へと筑後川(古有明海)を遡ったという仮説を出しています。神秘書でもそれが裏付けられました。ただし、いったん黒崎に出たと書いてある点が、ガイドブックとは違っています。

77番 風浪宮
78番 大善寺玉垂宮
合わせて読んでください。ブログの方ではまだ仮説を立てるに至っていません。

以上、神秘書の「神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。」という課題に対して、その可能性はあると考えました。




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by lunabura | 2015-08-08 21:16 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(27)

神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか(1)



神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか(1)


神功皇后の船にまつわる各地の伝承に「帆柱」の伐採の話が沢山出て来ます。それは主に周防灘を中心として豊前から下関にかけてです。特に北九州の「帆柱山」という山名は神功皇后の船に使った帆柱を伐採したことから付いたことで有名です。

これは新造船ではなく、朝鮮半島まで渡航して戻って来た船の帆柱が折れていたので修理をしたのですが、それを選んだ木が生えていたのが帆柱山だったのです。(下巻92仲宿八幡神社)

仲宿八幡神社の宮司さんは熊鰐の末裔で、その修理の現場が境内だったと教えて下さいました。

弥生時代末期に帆柱を持った船が存在する?
それではその帆はどうした?
それは福津市の縫殿神社で造ったのでした。(上巻5縫殿神社)


さて、神功皇后伝承地で何十か所も伝える帆柱の話ですが、考古学会では古代の船はどのようなものと考えられているのでしょうか。

弥生末期の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への海上ルートを実際に船で渡る実験が行われましたが、それは手漕ぎ船でした。

魏の時代は帆船があったのに、倭国へ渡る時には手漕ぎにした、と学界で考える理由は不明です。

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また、阿蘇ピンク石で造られた石棺を奈良まで運ぶのにも、実験船は手漕ぎでした。

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先日、七支刀を見に行った九州国立博物館に白村江の戦いのイラストがあったのですが、唐の帆船に挟まれていた倭国の船はこれも手漕ぎ船でした。

水手(かこ)全員でボートを漕いでいて隙間がなく、戦闘員や大将は何処に座ったらいいのか、武器は何処に置くのか?水や食糧は?疑問が沢山浮んだイラストでした。

博多や松浦からせっせと手漕ぎ船で漕いでいくのは勝機のない戦略です。でも、これが学界の最新の研究結果として堂々と大きなイラストにされたのだと思います。


しかし、「帆柱」のイラストは既に熊本の装飾古墳に描かれているので、最低でも、古墳時代には倭国に存在していました。

渡来人であるフェニキア人やエジプト人、トロヤ人、エトルリア人、ソグド人、徐福、大陸人、などなど。それらは手漕ぎのボートピープルではありえません。彼らは帆船に乗り、その技術はすでに倭国にもたらされていたはずです。




仲哀天皇の都のあった下関の忌宮神社(いみのみや・上巻1)に秦の始皇帝の末裔である功満王が帰化していますが、手土産として養蚕をもたらしたことが記録されています。が、彼らが乗って来た船の造船技術ももちろん新造船に反映されたと思います。

功満王は船の建造、あるいは修理が出来る人を必ず連れていたはずです。すなわち船大工。工具ももちろんのこと。日本に帰化するためには、技術提供も条件となったと考えています。

この時代、神功皇后、というより仲哀天皇が造らせた船は48隻と言われています。造船所として和間の浜や洞海湾が伝わっています。

この洞海湾の中心が先述の熊鰐の仲宿八幡神社ですが、同じ末裔の豊山八幡神社(とよやま・下巻93)では、推古天皇の時にもこの軍団は協力した話が伝わっています。
この時代にも当然ながら帆船が造られたと思います。

ガイドブックをお持ちの方は、上記のように船シリーズでも読んでみてください。各地の神社がお互いの事を知らないのに、整合する伝承を持っているので、わくわくすると思います。もちろん、ブログのサイドバーからもどうぞ。

忌宮神社 上巻1 造船。功満王の帰化
縫殿神社 上巻5 船の帆。
仲宿八幡神社 下巻92 造船と帆柱修理
豊山八幡神社 下巻93 推古天皇の時代



以上から、仲哀天皇の龍船は帆船だったと言えるのですが、その帆柱が3本だったという驚きの話が『高良玉垂宮神秘書』に載っていたのです。しかも竜骨があったとも。

さすがに、これを見た時は思考停止して、スルーしてしまったのですが、クジラさんがそれについて指摘されたので、調べてみることにしました。(つづく)









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by lunabura | 2015-08-06 01:18 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

高良玉垂宮神秘書 神紋と鎧 ・玉垂命と覆面


高良玉垂宮神秘書 
神紋と鎧 
玉垂命と覆面


実は御縁をいただいて2012年の臨時の勅使祭の行列に加えてもらい、鎧と甲を載せた車を引かせていただきました。

高良玉垂宮の祭神、三柱にそれぞれ鎧と甲がありますが、御神紋を知らなかったので、どの神の御神宝を引いたのか分かりませんでした。

「高良玉垂宮神秘書」にそのことが書かれていたので、今日はそれを確認したいと思います。まずは御祭神のこと。

一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩   (末梢文字)
一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩     (末梢文字)
一五五条 一、右宮 住吉大明神     (末梢文字)
一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

中宮が玉垂大菩薩です。左宮に八幡大菩薩、右宮に住吉大明神。それぞれの神に関して説明があったのですが、消されてしまっています。

玉垂大菩薩が誰であるのか。私は「安曇磯良とその奉斎する綿津見の神」という立場を取っています。

一言でいうなら「安曇磯良」となりますが、現在、高良大社では「武内宿禰」とされています。それは江戸時代からの流れです。この神秘書が書かれたのはその少し前、中世末期です。

ここで注目したのは156条の「善神王」です。これこそ武内宿禰ですね。これで、玉垂大菩薩は武内宿禰ではないことが明らかになりました。

多くの宮で祭神が変遷していますが、ここでも、もともと安曇磯良だったのが、武内宿禰に変わったと考えています。

安曇磯良とする証拠も見つかりました。
22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)

高良大菩薩に奉納するのが「覆面」の絹です。これこそ安曇磯良の顔を覆う白い布だと思います。

鎧の色が書かれていました。
40条(幸行有る時の次第の事)
一、住吉の御鎧白糸、八幡の御鎧黒糸、大菩薩御鎧緋縅。(略)


祭神の鎧は糸の色で区別が付けられています。住吉は白糸、八幡は黒糸、高良大菩薩は緋縅(ひおどし)。赤色ですね。


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最前には赤い糸!高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。
次に見えるのが黒糸!八幡大菩薩ですね。神紋は巴(ともえ)です。
最後は住吉ですが、よく見えません。



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この写真も駄目だな。住吉神の鎧は何故か上手く撮れていない。これは真横から撮ったものです。背の方に白い糸が編んであります。神紋は「五七の桐」。横向きです。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。



それぞれの神紋の由来も書かれていました。
309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。

産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。

住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。

ちょっと説明がいるけど、住吉神はウガヤフキアエズの事だと書かれています。産屋(うぶや)に桐の葉を敷いたことから桐の紋になったと書かれています。

住吉=ウガヤフキアエズ
これは意外な展開になりました。住吉に関してはもっと調べようと思っています。


さて、話を戻しましょう。次。

310条【訳】八幡の御紋は神功皇后が異国追伐の時、八幡を懐妊されていて、御舟の前の水の渦を御覧になって御紋とされたので巴である。


八幡が巴紋だという理由は、神功皇后が八幡をお腹に宿しながら見た水の渦目を見たので渦巻の巴紋になったということです。

そして、高良玉垂命は?
311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。

神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。

四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。

異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。



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これが高良山の御神紋の木瓜紋で、門光とも書きます。
神功皇后が四王寺山で祈った時、白雲が現れ、四つに分かれて光を放ち、その中央には四天王の鉾が現れたということです。

この文は第一条よりもオリジナルに近いかなと思っています。これが一条では住吉神に変わってしまい、神秘書の中で矛盾が起こります。

このからくりがようやく分かりました。今回は話が逸れるのでまずは紋の話までにしましょう。


で、3年も前の祭だったので、どの神さまのものを引かせていただいたのか、もう記憶がありません (^_^;)

御紋のこと知っていたら、覚えているでしょうけどね。
締まりの無い結果になりました(/・ω・)/ .





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by lunabura | 2015-07-29 22:26 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(12)
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