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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:<古墳シリーズ>( 56 )

岩戸山古墳(6世紀前半)と岩戸山4号墳(7世紀前半)


バスハイク

岩戸山古墳(6世紀前半)と岩戸山4号墳(7世紀前半)




インターチェンジに近い広川町の石人山古墳を後にして、岩戸山古墳に行きました。

バスが来ると、スタッフの方が出迎えてくれました。

でも、ここでは墳丘巡りを先にしてから、展示館に行く予定にしていたので、別区にさっさと向かっていると、パンフレットを持って来て追いかけてくれました。

実は、私たちはバスの中で墳丘図を見たり、説明文を読んだりして予習しているのです。


でも、せっかく来てくださったし、スタッフの方に説明していただければもっと面白くなるので、「ご一緒にいかがですか」と、こちらからなんだか変なお誘いを♪








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で、スタッフの方の説明を聞きながら別区から右回りに墳丘の麓を回り、鳥居から墳丘に上がりました。


135mの前方後円墳ですが、ここでは前方部の脇から上ることになります。


画像は前回の訪問記に




円墳上には大正14年に大神宮の石碑が建てられています。

以前は不審に思ったのですが、あとで調べると大神宮は近くから遷されたものでした。


その玉垣の近くに石室の天井石らしきものがあるという話を聞きました。
土の下なので、見ることはできません。
また、盗掘されかかったが、石室には到達していないという話も聞いています。


古墳の上には石段を上がった所に松尾社があります。
神紋は三つの松があります。三階松ではなく、下二つ上一つです。
こちらが重要だと思っています。

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さて、墳丘を降りると、「4号墳は行かれましたか?」と尋ねられました。
「いえ」
「それなら行きましょう」
と即決しました。

岩戸山4号墳の存在さえ知らなかったのですが、前方部の角にある鳥居から外に出て行きます。

細い小道を通りながらゆるやかな坂を登ると4号墳がありました。

円墳です。





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そして裏に回ると、石室が開口していました。


奥行きがあまりなく、7~8人やっと入る広さですが、構成する石が大きくて驚きました。


掲示板より
岩戸山4号古墳(下茶屋古墳) 所在地 八女市大字押田字下山

岩戸山古墳前方部より浅い谷をへだてた西側150mの所にあり、墳丘の一部を削平されている。
昭和61年(1986)の調査によって、高さは不明であるが直径30mほどの円墳と判明した。

石室は全長7.5mでほぼ南に入り口がある。石室内は全室、中室、玄室と三室ある、特異な構造の横穴式石室で、全体に結晶片岩の一枚石を用いては古式に組合わせてつくられている。

遺物は出土していないが、石室等の構造より7世紀前半期に築造されたものと思われ、八女古墳群における最も新しい時期の大型古墳である。

平成4年3月 八女市教育委員会」


磐井君の百年後ですね。




正面奥の鏡石には「卍」が線刻されています。
仏教関係のものなので、開口してから付けられたと思われます。
信仰の対象になったということなので、不動尊などが祀られたのでしょうか。
ちなみに、八女津媛神社の神紋も「卍」です。


この鏡石の天井部が空いていて、他の古墳とちょっと違っているのです。

人が多かったので石室内は上手く撮れませんでしたが、筑後国造さんとか、すでに投稿していないかな。

岩戸山古墳から2、3、4号墳と並んでいて、2、3号墳は民家の庭にあるそうです。

4号墳は一番高い所にあって展望が良く、岩戸山古墳より少し高い所にあるのかもしれません。

でも、前回の「石人山古墳と弘化谷古墳」で感じた断絶感はそれほど感じなかったのです。



磐井の乱の後の八女の古墳群から各氏族の力学関係が分かると面白いですね。

スタッフさんのおかげで、岩戸山古墳を新たに立体的な視点で捉えるチャンスをいただきました。

ここも素敵な散歩道でしたよ。



ここから再び別区に戻り、磐井の郷へ。







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新しい資料館は美術館のようなライトで照らされて、素敵になっていました。
写真撮影もOKです。
以前は書類を書かねばならなかったので、簡単になりました。


資料館は行くたびに、少しずつ見るポイントが変わっていって、同じ出土物でも受け取る情報が変わっていくのがいいですね。



さて、午前中に古墳巡りを済ませ、午後からは女神たちの聖地へ行きましたよ。



20190324


<古墳シリーズ>




歴史カフェ福津
3月31日(日)2時~4時 江戸時代の志賀島の記録 ―志賀嶋所聞録を読むー
申し込み先 himorogi888@yahoo.co.jp 詳細




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by lunabura | 2019-03-24 21:32 | <古墳シリーズ> | Comments(2)

石人山古墳と弘化谷古墳の素敵な散歩道



石人山古墳と弘化谷古墳の素敵な散歩道



昨日のバスハイクは八女(やめ)に行きましたよ!


午前中は八女古墳群の中でも代表的な石人山古墳弘化谷古墳岩戸山古墳、そしておまけに予定外の4号墳に行きました。


石人山古墳弘化谷古墳(こうかだに)は八女郡広川町にあります。
かつてナビで調べ調べ行って、駐車場にも困ったのですが、まさかの至近距離。


しかも「こふんピア広川」に駐車すれば良く、出土品などを見学したあとに古墳巡りすれば、歩いて30分ほどのそれは素敵な散歩道でした。

資料館に予約をすれば展示品の説明を受けられるそうですが、HPに書かれていなかったので知らずに残念でした。

でも、古墳巡りはガイドをしていただけました。
何しろ団体なので、道を間違うと大変だったので、とても助かりました。




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「こふんピア広川」は資料館ですが、無料なのにこんなに沢山の資料をお土産にいただきましたよ。
ファイルには装飾古墳画が載っているし、絵葉書までいただきました。

特に、石人山古墳の家形石棺の絵葉書には直弧文がくっきりと。
現地でも撮影はもちろん出来るのですが、扉の手前から写すのでこんなに鮮明には取れません。
あとで観察するのにはもってこいです。







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さて、資料館の入り口には弘化谷古墳の実物大レプリカがドーンとありました。正面に双脚輪状文が見えますね。




おまけに資料館の中は直弧文が沢山!




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こちらは石人山古墳の装飾文様です。

子供たちの作品がみんな直弧文なんです!(^^)!
各地の装飾古墳館ごとに個性的な文様があふれてます。これは面白い。

直弧文、謎杉!


また、絵葉書の一枚に鬼塚2号墳から出土した銀象嵌柄頭(つかがしら)が載っていました。(画像の緑の分)

資料館にも現物があり、写真撮影もOKでしたが、やはり上手く撮れないので、絵葉書に載っているのは有り難い。

刀身は日本刀ほどの長さで、新宮町で見た長~い刀に比べて小振りに思えました。






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さて、古墳巡りはこの石人のレプリカの横を通って行きます。

遊歩道と思いきや、すでに石人山古墳の墳丘を登り始めています。

桜の間を抜けて登ると参道の途中に出ました。参道とはすなわち前方後円墳の前方部。

後円部に向かって参拝していく感じがよく分かります。

地元では「石人さんに手を合わせに行こう」という感じで参拝されていたそうです。








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石室を守って立つ石人。







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そして、巨大な石棺。高さは140cmほどですから、露出していたら人の身長ほどの高さです。




次の弘化谷古墳へは、登って来た道を反対側に降りて行きます。

そこからの方が古墳の全容がよく分かります。







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小道に出たら左手に歩いていくとため池がありました。これは周濠という訳ではありません。




ここから長い石段を上ると展望所に。
何々?弘化谷古墳に行くのに坂を登る!!!







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振り返ってみると、矢印の石人山古墳が低く見える。
弘化谷古墳は石人山古墳よりも高い所に造られた!








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後から造られた弘化谷古墳は意図的に高い所に造られている!

石人山古墳は筑紫君磐井の祖父ぐらいの世代です。
弘化谷古墳は磐井のちょっと後。

石人文化より上に立つように、わざわざ高い所に造られている。
ふむふむ。
現地に立つと気づくことがいろいろありますね。


頂上に立つことができるのも、前回は気づきませんでしたよ。








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奥の小山が石人山古墳。

周辺で一番高い所に立ち、石人文化を見下ろす装飾文化。その石室には肥後系の石屋形。
しかも、弘化谷古墳の装飾と石屋形は王塚古墳に似てる。

そして、あの双脚輪状文が重なっている。




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肥後―八女―飯塚ー肥前
これは大きなヒントをくれています。

石人もまた肥後と筑後に多く分布する。

また時代的には
石人山古墳(石人・直弧文)-岩戸山古墳(石人)-弘化谷古墳(装飾・双脚輪状文)
となっていて、
三つの古墳は年代が連続しているのに、大きな隔たりがある。
「装飾古墳」という一括(ひとくく)りでは捉えられない断絶がある。

現地に立つと時代感と地域感が深く理解できますね。

八女の細長い丘陵の上の支配層の変遷。興味深いです。


私たちはこのあと車で15分ほどの岩戸山古墳に向かいました。



20190323

<古墳シリーズ>

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by lunabura | 2019-03-23 18:13 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

デンデラ・ハトホル神殿と五郎山古墳の船



デンデラ・ハトホル神殿と五郎山古墳の船


『儺の国の星』(序p4)を見ていると、「エジプトで観星台をデンデラーと言う」と書かれていた。

確認のために「デンデラ」で引くと、日本では岩手県遠野にその地名が出てくる。

さらに外国にそれを求めると、エジプトに「デンデラ・ハトホル神殿」という名が出て来た。

http://blog.livedoor.jp/spttoursegypt/archives/9063704.html
にその壁画が沢山掲載されている。


数々の星座が描かれている。
デンデラが観星台というのは、このことかと思いながら見ていった。


それは私たちが知っている十二星座に一部は似ていて、また一部は異なっている。



そして、最後の一枚に釘づけになった。

あの、キャビン付船が描かれているのである。しかも二艘。



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左が五郎山古墳壁画で、右がデンデラ・ハトホル神殿レリーフ

「オシリスと月」と書かれているので、椅子に座っているのがオシリスらしい。右は月となる。

画像出典 http://blog.livedoor.jp/spttoursegypt/archives/9063704.html
http://kofunmeguriwalking.web.fc2.com/gorouyama.html



以前テレビから引用した分では、「ラーとファラオ」と説明があったので、かなり世界観は違う。

オシリスは「冥界の王」なので、ラー(太陽神)とは真反対の世界になるのだ。

その正誤はこれからの課題にするとしても、
古墳の中に描かれているということは、冥界の王の乗り物の可能性が高いように思われた。

田主丸の珍敷塚古墳とはまた世界観が違うのだろうか。


浮羽の珍敷塚古墳と筑紫野の装飾古墳壁画に描かれた葬送の船。
また、落ち着いて比較してみたい。




今月のバスハイク(1月31日)はこの五郎山古墳の壁画を直接見学する手続きを取った。
楽しみ過ぎて、手ぶれをせぬように気を付けたい(;^ω^)



20190125


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by lunabura | 2019-01-25 20:50 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

北部九州の古墳 3、4、6世紀 分布図 2018年版だよ


北部九州の古墳分布図 

3、4、6世紀 2018年版





この年末は古墳を学んできましたが、更新中の分布図を並べてみようと思います。

私が行った古墳を中心にしているので、学術的なものではありませんよ。

取りあえず、2018年度版として並べてみます。


まだまだ在庫はあるし、ブログに書いていて洩れているものもあります。
でも時代感というのが分かって凄~く面白いです。






3世紀後半

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4世紀後半


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ピンクは女性と判別しているもの。







6世紀

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□は群集墓。※訂正 仙⇒仙道古墳。小竹町 竹原古墳 ⇒ 宮若市 竹原古墳。

不思議に、他の時代はほとんど行っていません。
これらの古墳は破壊されずに残されていて、一般人が見学しやすい環境だという条件をクリアしたものばかりです。
個人的な縁で訪問したものに限っているので、先程書いたように学術的なものではありません。

でも、通してみると古墳の形の変遷がよく分かります。
前方後円墳は柄鏡型からバチが開く形へ変化しているのは間違いないでしょう。



また、磐井の乱後、八女や糟屋ではまだ大きな前方後円墳が造られますが、その後は美しい円墳に横穴石室、その中に装飾画が施すのがブームになっていくのもよく分かります。

6世紀が多すぎて、この先どないしようと思ってしまいます。
三つの時代に分けるのが良いのかな。

でも、資料で年代がはっきりしないのがあるので、それをどうするのか、という問題があります。



20181229




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by lunabura | 2018-12-29 21:29 | <古墳シリーズ> | Comments(2)

小正西古墳 飯塚市 6世紀後半 美人巫女 円墳 二つの石室 



小正西古墳 

飯塚市 6世紀後半 美人巫女 円墳 二つの石室 



小正は「おばさ」と読みます。
飯塚市小正の丘の上、住宅に囲まれて古墳公園として残されています。




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何よりも、巫女の埴輪が魅力的な古墳です。
頭に「かふり」を付けていますね。これが島田髷という髪型ではないのがよく分かる埴輪です。アジアの民族衣装に残されている「布製のもの」です。







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かわいい古墳です。






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石室が二つあるのが印象的でした。







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正面にあるのは1号石室です。掲示板に
「盗掘のため奥壁の一部と右壁が破壊されていました。長軸4.5m、短軸2.1~2.9mを測る平面羽子板形の横穴式石室です。奥壁より約0.7mの位置に碓井板石を立て、屍床として区画し、石室壁面には赤色顔料が塗布されていました。
出土遺物 木芯鉄張鎧、壺鐙、f字形鎧板、鉄刀、鉄鏃、翡翠製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉等」
とあります。

6世紀後半で鎧や馬具などが出ています。磐井の乱527年ですから、その後も武具が副葬される時代が続いていることになります。



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これに直角に造られた石室は2号石室で、盗掘犯も気づかず、未盗掘でした。

こちらは小ぶりです。人骨が四人分検出されています。

主な出土品は銅鏡(珠文鏡)、鉄刀、鉄鏃、鉄刀子、鉄鉇、鉄鑿、鉄鋸、水晶製勾玉、瑪瑙製勾玉、石炭性算盤玉、ガラス玉等
となっています。

武器以外にノコギリ、ヤリガンナなど、大工道具が納められていますね。

当初から石室を二つ設計したと想像していますが、一家が埋葬されているのか、DNA検査など進むといいですね。

これらの出土物や埴輪をどこで見学できるのでしょうか。不明です。







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これまでブログに挙げたもの、訪問してまだ挙げていないものを載せてみました。

6世紀の前半と後半に分けたいのですが、「6世紀」だけしか書かれていない古墳があるので、取りあえず100年分を載せました。 

大型古墳からだんだんシンプルな円墳に変化していくようです。小さな古墳群や横穴も出てきて、磐井の乱後は首長中心の世界観から、個人や集団を第一に考える意識が芽生えていくようにも見受けられます。価値観が変化していくような気がします。

この分布図を作成していると、行った所が多いので驚きました。神社巡りの時に近場の古墳もついでに回る程度でも、意外に沢山の古墳を見学していました。

これに加えて歴史資料館の出土物も見るように心がけていますが、こうして掲示されていないとすご~く困難な作業となります。

「古墳―出土物―歴史資料館」この連動が大切ですね。


20181227





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by lunabura | 2018-12-27 20:17 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

焼ノ峠古墳 絶景の前方後方墳 四角だよ 3世紀後半


焼ノ峠古墳 

前方後方墳 3世紀後半






 広~い筑後平野の真ん中にポツンと見える独立丘。
それが花立山(城山・じょんやま)です。






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隼鷹神社 上巻34)
どこからも見えるのですが、その丘に前方後方墳があります。









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四角と四角が組み合わさったものです。「やきのとうげ古墳」です。


保存していた画像が行方不明(-_-)
撮らなかったのかも知れないなあ。ま、1月のバスハイクで撮り直してきます。




この珍しい古墳は3世紀後半となっています。
前回の光正寺古墳と同じ時代なのです。


確か掲示板には発掘のためにトレンチをいれたものの、埋葬施設が見つからなかったという内容が書かれていたと思うのですが、古墳の本では墓壙の輪郭のみ確認されたと書いてあります。曖昧なので、来月、掲示板を確認してきます。


3世紀後半ですから、卑弥呼が死んで(248年)、男王が立ち、それから壹與が立てられる頃になります。

被葬者はやはり卑弥呼の事を知っていることになります。



ここは朝倉郡筑前町四三嶋(しそじま)です。
「四三」は北斗七星を指す場合があります。
「三」は南北を指す場合もあるので、いずれなのか検討を要します。

この朝倉郡筑前町からは1世紀の硯の破片が複数発見(再評価)されたので、かなり古くから文字を知った人たちがいることが分かっています。

大己貴神社からも4キロほどなので、羽白熊鷲の滅亡が3世紀初頭(日本書紀による)とすると、それから朝倉は平穏になっていたかもしれません。

それからしばらくして3世紀後半にここの豪族は前方後方墳を選んで埋葬されました。







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同じ3世紀後半に宇美町では前方後円墳の光正寺古墳が造られたのですから、二種類の形が存在するのは興味深いですね。





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で、グーグルなどを見ていると、近くには前方後円墳の痕跡がいくつも見えるのです。消失した古墳もあるとのことですが、どれを指しているのかは分かりません。
確か、石室が残っている古墳もあります。



焼ノ峠古墳 前方後方墳
【クロスロードふくおか】より
城山の北麓にある古墳時代前半(3世紀後半)の前方後方墳です。全長40mで前方後方墳としては九州最大です。当時この地方一帯を治めていた首長の墓と考えられています。





来年、2019年1月31日(木)のバスハイクは小郡や鳥栖方面ですが、この焼ノ峠古墳(やきのとうげ)にも行く予定です。



20181225



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by lunabura | 2018-12-25 20:24 | <古墳シリーズ> | Comments(2)

光正寺古墳 3世紀中~後半 前方後円墳 箱式石棺・割竹形木棺



光正寺古墳 

卑弥呼を知る世代





光正寺古墳は福岡県糟屋郡宇美町にあります。








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施設入り口から、後円部がど~んと目に入ります。



博多湾に注ぐ宇美川の右岸の丘陵の上で、宇美川流域を見下ろしています。


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後円部から前方部の中心ライン上で撮りました。







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これは前方後円墳ですが、柄鏡型なので、これまで見て来た4世紀後半の古墳に繋がっていくような存在になります。

やはり竪穴式の墓壙がありますが、何よりも特徴的なのは三種類の棺が並んでいる点です。これを見て何としても見たいと思ったのです。

そして、驚いたことに、沖出古墳の真西にあることをチェリーさんが発見しました。
埋葬施設も東西軸です。今日のキーワードは「東西」ですね。


埋葬の様子がよく分かる絵が掲示板に掲げられています。








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番号順に埋葬されているそうです。
注意してみると、1→2、それから3→4→5なので、二つのグルーブには少々時間差があります。

一つずつ見ていきましょう。

①は川原石を敷き詰めて箱式石棺を組んでいます。これは福岡では各地でよくみられる棺ですね。

そして興味深いのは、その石材が能古島、月隈、若杉山から持ち込まれたものだという事です!これはいったい何を伝えているのでしょうか。

能古島も月隈も奴国のエリアにあります。

若杉山はどうでしょうか。神功皇后がこの木の杉を香椎宮に植えたという話があるように、地元では聖山です。当然ながら、この被葬者は神功皇后の話を知っています。

三ヶ所から運び込まれた石は被葬者の縁がその三ヶ所に繋がっているから使用したのでしょうね。

しかもこの人が一番最初に埋葬されています。男性か女性かは分かりませんが、立地からは首長なのでしょう。

②の小さな箱式石棺はその人の子供と思われます。地元の砂岩の石棺に納められました。親に続けて亡くなったのでしょうか。すぐそばに埋葬されています。






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この復元レプリカは宇美町歴史資料館にあります。朱のようすが良く分かりますね。

宇美八幡宮の右手にある資料館です。隣接しています。




③は割竹形木棺です。配偶者と思われますが、自分の故郷の埋葬型式を持ち込んだのだと思います。

割竹形木棺で、これまで出会ったのは糸島市、那珂川市、宗像市です。もちろんこのほか沢山の地にあるので、特定はできないのでしょうが、印象としては福岡県の西部や西南部の感じがします。この人の脇にも子供が一人埋葬されているんですね。それが④です。

④の甕棺はやはり奴国や伊都国のイメージと重なってしまいます。子供が甕に埋葬されるケースは板付遺跡でも見ましたね。ちなみに宗像市では甕棺は出ないそうです。
(一点のみ吉備式が出土している)

⑤の箱式石棺も小さいですね。一人だけ方角が違っています。両親の上座に埋葬されたような印象です。

これらを見ていると、夫婦と子供たちの家族が一緒に埋葬されているように見えます。子供が小さいので若夫婦だったのでしょう。流行り病などで短期間の内に亡くなったのかとも思いました⑤の子だけは少し生き延びたけど、やはり幼くして亡くなったような。

この夫婦は、別の国の首長同士の縁で結ばれたように見えますが、仲が良かったのでしょうね。

そして、この埋葬の優しさからは、あまり男女の格差が無いクニの姿が思い浮かびます。


さて、二つ目の特徴は「東西のライン」です。
古墳自体は東西軸ではないのですが、埋葬施設が東西軸で造られ、頭は西向きだそうです。

西が開けています。被葬者は自分の治めた国を向いているのでしょう。
でも、完全な東西なら、また何らかの思想があるのかもしれませんね。仏教に西国浄土の思想があるように。


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もう一つ、特徴は、沖出古墳の東西ラインに重なっている点でした。

何故一致しているのかは謎です。
るな的には血縁関係があったのだろうかと、考えたりしています。

この光正寺古墳が造られて100年ほど経ってから、真東の嘉麻市に沖出古墳が造られたんですね。古墳の形は同じ柄鏡型で、竪穴式石室です。でも棺は板で造ったものから、石を削って造ったものに変わりました。


築造時代は3世紀中頃~後半です。ということは、卑弥呼の死248年の同世代か次世代の人たちです。

被葬者たちは卑弥呼について知っている人たちです。







粕屋郡宇美町 光正寺古墳




見学するのは古墳が先か、宇美町歴史資料館が先か。悩みますね。
宇美町には宇美八幡宮があり、その西には巫女たちではないかと思っている古墳群があります。またいつか紹介します。

【宇美町HPより】
光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半であり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。また、光正寺古墳は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。

墳丘規模は全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成の糟屋郡内最大の前方後円墳です。





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by lunabura | 2018-12-21 20:12 | <古墳シリーズ> | Comments(1)

北部九州 古墳分布図 四世紀後半



北部九州 古墳分布図 

四世紀後半



 「四世紀後半」の向野田古墳と沖出古墳を続けて投稿したら、やたら「四世紀後半」のキーワードが目につきまして。

 自分の過去ブログを見るといくつかUPしていました。それを整理してみると、みんな柄鏡型古墳でした。

 柄鏡型古墳だから四世紀半なのか、埴輪が朝顔形だからそうなのかは分からないのですが、地図に落としていくと、何となく倭国の力学関係も見えるような感じがして、ちょいと面白い。









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小郡市の消滅した三国の鼻一号墳が四世紀中頃ということなので、この中では一番古いです。沖出古墳は四世紀の終わり頃なので、一番新しいと思います。

 名前の後の数字が全長で、メートル単位です。

 大きさでは一貴山銚子塚古墳がダントツで、副葬品も一番多いです。一度行ったことがあるのですが、あまり価値が分からない頃だったので、今はこの古墳をもっと知りたいと思っています。埋葬状態がそのまま残っていたのです。

多数の鏡など、出土品は京都大学が持ち去ったので、地元の私たちは見ることが出来ません。平原遺跡と共に博物館で見られるようにしていただきたいなと焦がれている古墳です。

せめてカラーのパンフレットが欲しいですね。いつも書いていますが、持ち出した大学や資料館は地元に還元して啓蒙する義務があると思います。年に一度の里帰り展などを積極的に企画してほしいですね。

 さて、免ケ平古墳は現在、西日本新聞で掲載されているのですが、三角縁神獣鏡が出ています。卑弥呼より100年以上経っても、銅鏡が愛されているのが良く分かります。
 
 この分布図は今現在出会っている古墳ばかりです。これから少しずつ更新していくことになると思います。

謎の四世紀と言われますが、神功皇后を支えた豪族たちと重ね合わせていくと、誰がここにいたか良く分かりますね。

次の時代になると鎧や兜が見られるので、四世紀後半はまだまだ弥生の彩りが残っているような印象があります。

20181219




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by lunabura | 2018-12-19 22:48 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

比較:向野田古墳と沖出古墳3 玉類と埴輪



比較:向野田古墳と沖出古墳3 

玉類と埴輪



嘉麻市と宇土市という離れた所にある前方後円墳の比較シリーズ、副葬品の続きです。


8 玉類







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向野田古墳は勾玉、管玉、小玉です。勾玉は緑色。大きいのと小さいのが一緒なのは珍しいと思いますが、どうでしょう。玉類のセットは弥生時代のものとそう変わりがないような印象です。

沖出古墳は残念ながら盗掘されていますが、きっと目立つような宝だったんでしょうね。もし玉類が沢山あったなら、被葬者が女性ではないかと推測できたんですがね。残念です。





9 埴輪を比較しましょう








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向野田古墳の埴輪はやや厚いそうです。朝顔形の円筒埴輪が出ています。

沖出古墳の円筒埴輪も朝顔形というそうです。これを見ると、向野田古墳の埴輪も想像できますね。
この朝顔形が4世紀後半の特徴だと、朝倉市の宮地嶽古墳の説明板にありました。

沖出古墳の円筒埴輪に舟の線刻が見つかっています。これはキャビン付の二本の櫂(?)というエジプト太陽の船風のデザインですね。浮羽の装飾古墳などに沢山描かれています。

家形埴輪のレプリカを載せましたが、現物には直弧文があると、ある本に書かれていました。確認したいな。碓井郷土館にあるそうです。近場の人見てみてください。




さて、以上で主だった副葬品の比較を済ませました。

一つずつ比べていくと、これから何を基準に見学したらいいのか、少し分かったような気がします。


遠く離れた同じ時代の二つの古墳が古墳の形が同じ前方後円墳の柄鏡型で、副葬品も同じような雰囲気でした。同じような価値観を持っているような印象を受けました。

古墳を造る氏人に土師氏がいますが、自由に招かれて長たちのために造ったのでしょうか。それとも通説の許可制なのでしょうか。西暦300年代後半、卑弥呼から150年後頃の世界をもっと知りたいですね。

宇土市立歴史資料館では撮影許可をいただき、どんどんSNSに載せてくださいと言われました。ほんの一部の紹介でしたが、テーマを決めて蔵出しもしていきたいと思います。



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by lunabura | 2018-12-17 20:32 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

比較:向野田古墳と沖出古墳2 副葬品を比較しておこう



比較:向野田古墳と沖出古墳2 

副葬品を比較しておこう



 ほぼ同時代の古墳、嘉麻市と宇土市という離れた所にある前方後円墳の比較シリーズ、今回は副葬品などです。これで時代感覚が掴めたらいいな。










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まずは位置を調べてみたら、こんなに離れていますね。
しかし、古墳の形はどちらも柄鏡型の前方後円墳でした。





5 腕輪の比較です






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向野田古墳からはイモ貝製の貝釧が出ています。沖出古墳は不明です。

石の腕輪(釧)は向野田古墳は車輪石一点のみ。右手首にそっと添えられていました。
沖出古墳の方は「石釧、車輪石、鍬形石」の三点セット。これは九州では他に沖ノ島で出ているそうです。これがヤマト政権とのつながりが深い事を示すそうですよ。(?)

車輪石だけが両者に共通していますが、厚みなどかなり違っていますね。沖出古墳の方が形骸化しているように思われます。

鍬形石は「ごほうら貝」が原形だそうです。
沖縄付近でしか採れず、20メートルも潜水して採り、一つの貝に一つだけしか取れないものだそうです。これを飯塚市の立岩の王や那珂川市の安徳台の女王?(巫女?)は沢山持っていました。

長の身分を象徴するものが沖縄周辺での産出品で、素材が石に変化しながらも受けつがれています。材料が無くても、貝でなければならないのです。それを持つのがヤマト政権との結びつきの象徴だそうですよ。そうすると、通説のヤマト政権とはルーツが沖縄諸島にあると考えることになります。

でも、三つセットの腕輪が何故ヤマト政権なのか、それが分かりません。誰か証明論文を教えてください。学びたいと思います。西暦300年代にその政権が何県にあるのかも。





6 鏡の比較




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向野田古墳は左から方格規矩鏡、内行花文鏡、鳥獣鏡です。頭部に置かれていました。
沖出古墳は盗掘にあっていて不明です。





7 武器類の比較です




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向野田古墳は鉄刀や鉄剣、ヤリ、鉄斧、鉄鏃などの鉄製品が出ています。石棺の外に置かれていました。故人を守護するためでもあるのでしょうが、これほどの量となると、他の意味もありそうです。

また、女性でも沢山の武器が添えられているので、もし人骨が残っていなかったら、男女の判定もできなかったのかも知れませんね。武器が多いから男性とは限らない例となりました。


沖出古墳の方も鉄刀、鉄斧、鉄鏃、鉄刀子が石室の中から出ているので、石棺の外に置かれていたのでしょう。鏡は青銅品ですが、武器類はすべて鉄器に変わっています。

そして、鉄斧の件で思い出すのは、景行天皇が物部麁鹿火に磐井討伐の将軍として任命するとき、斧を渡した話です。斧には武器というより、威信財に近い性質のものがある例です。


つづく

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by lunabura | 2018-12-16 20:25 | <古墳シリーズ> | Comments(0)

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