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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:<古墳>手光は宮地嶽へ( 43 )

向野田古墳 宇土市 4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 



向野田古墳 宇土市 

4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 




前回は早く比較したかったので、いきなり二つの古墳の比較を始めましたが、今日は落ち着いて熊本の向野田古墳の探訪記を書きたいと思います。4世紀後半の前方古墳です。






 熊本県の宇土半島の根元に走る鹿児島本線と国道3号線の間、不知火御領簡易郵便局を目指して行きました。そこから東の山に向かって曲がります。








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バスの中から撮りました。正面の山ではなく、右の山のもう一つ奥を目指して歩いて行きます。
すぐに左手に案内板があり、いきなり赤土の山を登ります。

今思えば後円部を登っていたようです。
落ち葉と雨で滑りながら登っていくと少々フラットな所に出ましたが、それも後円部の段の一つだったのでしょう。







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まもなく墳頂に出ました。
周囲の地山を削って前方後円墳の形にして、削った土を円墳上に盛り上げているそうです。


この窪みが竪穴式石室の跡で、395cmの石棺がここに埋め戻されています。








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埋葬されていたのは30代後半~40代の女性です。






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石棺の中には頭の周囲に鏡が3面、右手元に碧玉製車輪石、胸にヒスイの勾玉、ガラス小玉などが添えられていました。足から1メートルほどの所には奄美、沖縄産のイモ貝製の貝釧が置かれていました。

石棺外には鉄刀や鉄剣、ヤリ、鉄斧などの武器類が置かれていました。

この古墳も破壊される直前に高校生が掘って石室を掘り出したそうです。
その後、前方部が削られてしまい、現地は円墳のような形になっています。



この日は、この後、雨が大降りになり雷まで鳴り始めたのですぐに下りました。
手荒い歓迎ぶりでした。


副葬品は宇土市立図書館の歴史資料館に置かれています。人骨は熊本大学にあるそうです。

熊本地震で宇土市市庁舎が壊れたのをテレビで見ましたが、見事に再建されていました。資料館はこれからですね。

最初に目に飛び込んで来たのが甕棺でした。
「懐かしい!こんな所に甕棺がある!」
と声を挙げたら、甕棺の南限がここだそうです。甕棺を持ち込んだのか、現地で造ったのかは不明だそうです。


地形を見ると分かりますが、古代において九州を北から南に下る時、船でも陸でも必ず通らねばならない所で、両脇の山間部に古墳群があり、今回の向野田古墳は東の方に築造されていました。



宇土市向野田古墳 赤マーク






20181214






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by lunabura | 2018-12-14 20:06 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

比較してみた 向野田古墳と沖出古墳1 4世紀後半 竪穴式石室 石棺


比較してみた 

向野田古墳と沖出古墳1 

4世紀後半 竪穴式石室 石棺




熊本県宇土市にある向野田古墳(むこうのだ)は4世紀後半で竪穴式石室です。
全長が約86メートルの前方後円墳ということで、先日紹介した福岡県嘉麻市の沖出古墳とキーワードが重なります。

重なるのは「4世紀(後半と終わり頃)、前方後円墳、竪穴式石室、石棺」です。

沖出古墳は全長68メートルだったので、向野田古墳の方がずっと大きいです。

が、向野田古墳の石棺は「舟形石棺」なので、沖出古墳の「割竹形石棺」と似ています。

舟形石棺と割竹形石棺の差というのはそれほど明確ではないそうですが、遠く離れた宇土市と嘉麻市に造られたほぼ同じ時代の古墳について比較してみたいと思います。



1 北を上とした場合の比較

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地図上で北を上にした場合、二つの古墳は同じ方向を向いているのか。
それを比較した画像です。

宇土市の向野田古墳は後円部が南にあり、主軸はやや傾いていますが、石室だけは南北を採っているようです。現地説明でも石室の向きが重要だと言われていました。

これに対して嘉麻市の沖出古墳の主軸は全く南北を意識していません。主軸は田川の位登八幡神社と名の無い山のピークを意識していました。少しずらして脊振山頂と位登八幡神社のラインも候補に上がりましたね。

向野田古墳は地山を整形して削った土を円墳の墳丘に盛ったというので、地形に影響を受けたのかもしれませんが、あるいはやはり何かのライン上に築造されたのかもしれません。(チェリーさんの宿題が増えますねえ)






2 主軸を揃えて形を比較 石棺の方向は?
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今度は主軸を水平にそろえてみました。
形がそっくりですね。柄鏡形でいいのでしょうか。円墳に向けて細長い方形墳があるのは古式だそうです。そのあと段々バチ形に開いていくとN氏に習ったのですが、ネットで検索すると、バチ形→柄鏡形→バチ形と変貌していました。

もちろん、一番左のバチ形は箸墓古墳のことですね。ずいぶん無理な変遷史に変貌していますね。

脱線はこれまでにして、二つの古墳の、主軸と石棺の方角を比較しましょう。
全く違っていますね。法則性はあるのでしょうか。謎が出てきました。







3 竪穴式石室の比較

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どちらも竪穴式石室なので、設計を比較してみましょう。
向野田古墳は床を整形して石を並べ、石棺ギリギリに石を置いています。蓋は石を並べています。
沖出古墳は崩れていたせいか、少し乱雑に積まれてみえます。







4 石棺の比較
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向野田古墳は舟形石棺です。沖出古墳は割竹形石棺です。
いずれも縄掛け突起(なわかけとっき)は付いていますが、その違いは底の形です。

ウィキペディアで両者の違いを調べました。
〈【舟形石棺】刳抜式の石棺の一種であり、身と蓋を合わせた断面は扁円形をしており、同様の方法で作られた割竹形石棺より安定性があり、両端が斜めに切られている形状が船に似ていることからこの名称が付いている。

割竹形石棺の変容形と目されており、縄架け突起が付けられていたり、石枕が作り出されていたりする。

主に4世紀中葉~6世紀前葉に熊本・佐賀・宮崎・香川・島根・福井・群馬・茨城などの各地で在地の石材を用いて首長の棺として造られ、各地に普及した。〉

以上からは「割竹形石棺→舟形石棺」と変化しているようです。
弥生時代の糸島市の平原遺跡が割竹形木棺なので、木から石に変化していくのでしょうか。

向野田古墳(4世紀後半)と沖出古墳(4世紀終わり頃)の年代を比較すると
向野田古墳の方がやや古いのでしょうが、石棺の時代変遷は逆転しています。
時代が接近しているので、どちらが古いとは一概に言えないようですね。

が、二つをじっと見ていると、形に込められた思想があるのではないかと思えて来ました。

木の中に永眠するのと、船の中に永眠するのとでは、葬送の思想が違うような気がしてきたのです。

私は一般人ですから、考古学的な素養はありません。
ですから自由な素の観点で印象を記録しておきたいなと思います。


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by lunabura | 2018-12-12 21:30 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

久原澤田古墳群 ムナカタにある可愛すぎる前方後円墳!



   

久原澤田古墳群 

ムナカタにある可愛すぎる前方後円墳!

 
  
 
バスハイクで宗像ユリックスのプラネタリウムに行ったことは前回書きましたが、その広大な敷地内に久原澤田古墳群があります。

以前、何でこんな土饅頭みたいなのが駐車場の間にあるんだ、とブツブツ思いながら土饅頭の脇を必死に上って通ったことがあるのですが、こともあろうに古墳だったとは\(◎o◎)/!

ユリックスの施設の方からは案内板が無いので、何十年も気づかなかった(;^ω^)






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で、古墳なのだと認識して皆さんと訪ねると、何と「チョー可愛い前方後円墳!!!」
驚くほど小さくて、近くからでも画像に収まるではありませんか!

テンションが上がります。






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全長45mと言えば、どれほど小さいか分かりますね。
6世紀中頃のものだそうなので、磐井の乱を見た世代です。







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人物埴輪が出ています。
美豆良を結っているので男性ですが、冠を付けていませんね。
円筒埴輪や家形埴輪も出ています。

家形埴輪は海の道で見かけたことがありますが、人物埴輪はどこに行ったら見れるのだろう。






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古墳群は前方後円墳一基のほか、3基の円墳が並んでいました。
他はもしかしたら壊されたのかな。

で、この前方後円墳に一列に連なる円墳群を見て思い出したのが、宗像イセキングで見せてもらった牟田尻の古墳群の図。




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これを見て山の尾根に連なる古墳群の存在を知ったのです。
凄いと思いません?
桜京装飾古墳とかある所。隣はゴルフ場。




ここは宗像族の古墳群があったのではないかと散々考えた場所だったんで、まさかの大古墳群に遭遇して感激。



今年の夏、わざわざ遠方に宗像の遺跡の話を聞きに行って、宗像には大した古墳は無いと聞かされたけど、あるじゃん。こんなすごいの…。


そして、このユリックスの敷地にもこんな古墳群があったのだろうか。

掲示板には弥生からの遺跡があったと書かれていました。

    面白うて やがて悲しき 古墳巡り

となりましたとさ。







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今日はRKBラジオで久山の斎宮から羽白熊鷲攻めでした。
ああ、言い間違いしてる(;^ω^) 内宮を上宮と言ってる(-_-;)

訂正
    天照皇大神宮 内宮    斎宮 外宮
です。ⅿ(__)m



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by lunabura | 2018-12-08 21:28 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

沖出古墳3 古墳が見つめる先、はるかに脊振山が 後円部の先は位登




沖出古墳3 

古墳が見つめる先、はるかに脊振山が 

後円部の先は位登







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沖出古墳の後円部から前方部の向こうに見える山を写しました。
遠賀川の向こうに見える山の名前。さっそくチェリーさんが調べてくれた上に、主軸ラインなど思いがけないものを提示してくれました。



チェリーさんの画像と説明文です。

「lunaさん、こんばんは。
画像を作成しましたので、お送りします。」






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「沖出古墳から撮影されたお写真と同じ方向を、カシミール3Dにて望遠で撮影しました。
真ん中の赤い点のピークが、lunaさんが撮影した正面になると思われます。
その右側の白い印の向こう側に脊振山があります。」

-まあ!同じ場所をカシミール3Dで撮影出来るなんて(;’∀’)
赤い点のピークには名前が無いんですね。
で、左の山は弥山岳!これを見た時はゾクッとしましたよ。
この麓に出雲があるのです。
そう、ワダツミで新しく登場しているエリアで王塚古墳の近くです。
それが出てくるなんて。シンクロだらけです。

さて、チェリーさんの続きを見ましょう。








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「脊振山から沖出古墳をつないだ直線をそのまま延長すると位登八幡神社に至ります。
ピンクの直線が赤点のピークへのライン、赤い直線が「脊振山-位登八幡神社」のラインです。
赤い直線は、やはり前方後円墳の軸線とは少しずれるようですねぇ…
方位の角度に意味はなさそうです。」

― ここで位登八幡神社が出てくるとは思いませんでしたよ。
神功皇后が半年近くも滞在して子育てした神社です。
周囲には神功皇后の天皇即位、応神天皇の皇太子即位を伝える可能性のある帝階八幡神社があります。ブログには書いていないけど、『神功皇后伝承を歩く』の下巻「位登八幡神社」に書いています。中国正史や日本書紀の記述、GHQによる操作など、拙著をお持ちの方は御覧になってください。タイミングが合えば、こちらでも紹介します。

後円部の先にこの神社があるのは、やはり意味付けがあるのでしょう。いかにも古代氏族の聖地です。





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「位登八幡神社のすぐ西側の山稜のライン上から、カシミール3Dにて撮影をしました。
沖出古墳と脊振山が直線上にあることがわかります。
反対側を振り返っても、位登八幡神社を見ることはできません。」










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「沖出古墳には東西関係があります。
両子山→沖出古墳 270.00°距離 81.693km
両子山→光正寺古墳後円部 269.98°距離 102.269km
両子山から沖出古墳へのラインをそのまま延長すると、光正寺古墳前方部の端から8mくらい北側の地点になります。
両子山-沖出古墳―光正寺古墳が直線上にあると考えていいと思います。

沖出古墳で、改めて真北を測定した場合は
沖出古墳→七夕池古墳 269.97°距離 20.616km になります。」

―今度は光正寺古墳がラインに乗って来るんですか。
そこもまだ詳細を書いていませんね。
光正寺古墳は山を見ている感じがあって、その延長上に沖出古墳があるなら、早く調べなきゃですね。

沖出古墳 → 稲築八幡宮
     → 位登八幡神社
     → 光正寺古墳
どこから書こうか…



「詳しくはこちらを御覧ください。」



これを見てまたもやビックリ。
冬至の日の舞台「イソラ2018」が描くラインなんです。
チェリーさんの研究結果が生かされているんですね!
この舞台は明日ご案内します。


※今日はラジオ放送日でした。
RKBラジオで放送がありましたが、河村哲夫さんの続きに私、という意外なコラボ企画でした。

仲哀天皇の崩御についてが本日のテーマで、その亡くなり方は日本書紀にも複数書かれているんですね。その一つが御勢大霊石神社だったので、私の説明を放送していただきました。古賀市の小山田神社までです。上巻をやってます。



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画像©チェリー (使用は許可を得てください。)


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by lunabura | 2018-12-01 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

沖出古墳2 床も壁も赤く塗られていた石室



沖出古墳2 

床も壁も赤く塗られていた石室






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円墳に付けられた階段を上っていくと、上方に石室を覗くガラス張りのドアがあります。もちろん開けられません。







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これは石室の出土時の画像です。石室の長さは3.7m、幅1.49m、高さ1.2mで、壁は赤く塗られていたそうです。

床には粘土が張られ、その上に赤く塗られた川原石が敷き詰められていたとか。
床も壁も赤かったとは!

石室の高さが1.2mですから、中に入るのは大変ですね。

造られた順が書かれていませんが、床を作り、石棺を置いて壁を作るのでしょうか。



盗掘されているので出土品は少ないのですが、3種類の石製腕飾りと管玉、ガラス玉、および鉄製品(刀、剣、斧、鏃、刀子)が出土したそうです。


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イラストの女性が両腕に付けているのが腕飾りですね。

石釧、車輪石、鍬形石です。


蓋も盗まれているとは、よほど素晴らしい彫刻でもあったのでしょうか。



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石室は主軸と直交しています。北枕だと書かれていましたが、主軸は東西でなく、傾いているので、やや北よりか、という感じです。



説明板には沖出古墳は「埋葬施設などからもヤマト(大和)政権と強い結び付きのあった人物のお墓ではないかと考えられます」と書かれていました。


西暦300年代に日本って中央政権があったのだろうか。
ヤマト政権って何県ですか?


「前方後円墳はヤマト政権の許可があって造られた」と、歴史講座でよく聞きます。

これについて、ある時、その証拠や文献を質問された方がありましたが、学芸員の方の答えは「これまでの偉い先生方が研究された成果です」と言われただけでした。

だから、未だに「ヤマト政権」って何県の何市に何という王がいたのか、よく分からない単語なのです。





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これは近くの次郎太郎古墳群から出土した埴輪君。
王冠をかぶってますね。
このデザインは那珂川市、朝倉市、行橋市でも見ましたよ。

中世ヨーロッパの王様の冠のデザインが古墳時代にあったんですねえ。


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by lunabura | 2018-11-30 21:04 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

沖出古墳1 4世紀末 竪穴式石室 前方後円墳




  沖出古墳1

 4世紀終わり頃 竪穴式石室

 
  
 

沖出(おきで)古墳は福岡県嘉麻市漆生78番地1及び2にあります。
古墳で番地があるのは珍しいですね。
嘉麻市(かまし)漆生(うるしお)と読みます。






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素晴らしいフォルムです。
4世紀の終わり頃の築造ということで、西暦370年~390年代ということでしょうか。
卑弥呼より約150年後と位置づけしておきましょう。

筑豊地方では最も古い前方後円墳だそうです。
この長さは約68メートルで、前方部は2段、後円部は3段ということです。

この丘は標高約40メートル。遠賀川を望む地形です。

埴輪も壺形、円筒、朝顔形、家形のものがあったそうです。
家形埴輪は後円部の墳頂付近と前方部の先端に立っていたそうです。







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ということは、この画像がその復元のものでしょう。
南方系の屋根ですよね。


この古墳は既に盗掘されていて、盗掘穴に向かって見学道が作られています。
ガラスで覗けるようになっているのですが、良く見えませんでした。

竪穴式石室なので、被葬者だけの為に造られた石室です。









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こんな感じだったそうです。

実は、何よりも興味があったのは石棺の形です。「割竹形石棺」なのです。


「割竹・木棺」と言えば平原遺跡。それにまだ詳細を書いていない宗像イセキングの墓。
木棺が「石棺」に変化していくのでしょうか。
それとも別の文化?

何と、今夏行った宇土半島の向野田古墳も同じように前方後円墳で、時代は4世紀後半。竪穴式石室で、石棺は「舟形石棺」となっています。被葬者は巫女的な女王。

つまり、同じ4世紀後半に熊本の宇土半島と福岡の嘉麻市によく似た墳墓があるのです。

一つひとつ丁寧に見ていって比較したいとずっと思っていました。



しかも、この沖出古墳の丘には神功皇后ゆかりの稲築八幡宮があるのです。
ここは面白いぞ。



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by lunabura | 2018-11-29 20:22 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(1)

岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 磐井VS継体?配布したのはどっち?



岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 

磐井VS継体?

配布したのはどっち?




9月20日に行く宇土半島のピンク石の石棺について、岩戸山古墳と今城山古墳の相似性について書いたところ、チェリーさんと酔石亭主さんが詳しい内容を知らせてくださいました。

コメント欄だけではもったいないので、こちらに載せておきたいと思います。

by チェリー
lunaさん、こんばんは。
私の生活圏になるんですが、熱田神宮のすぐ隣にある「断夫山(だんぷやま)古墳」(愛知県最大)と、春日井市にある「味美(あじよし)二子山古墳」も、今城塚古墳の相似墳みたいです。
調べてみたら、群馬県藤岡市にある「七輿山(ななこしやま)古墳」もそのようです。

by luna
けっこうあるんですね。
新たな謎解きでしょうか^^

by チェリー
他にもあるのでしょうか?私が知っているのはこの三つだけです。

断夫山古墳の断夫というのは、夫を断つという意味だそうです。
ヤマトタケルを失った宮簣媛(ミヤズヒメ)が、独身を通したという意味のようです。
熱田神宮は、今もこの古墳をミヤズヒメの御陵として祀っているのです(御陵墓祭)。

しかしながら、5世紀末から6世紀初頭の築造とされますので、年代が合いません。
ですので、当時の尾張氏の首長「尾張連草香(くさか)」の墳墓と想定されているようです。

この方の娘さんが継体天皇の妃となった「目子媛(めこひめ)」だそうですので、継体天皇との関連が考えられているようです。

同じ謎になります。断夫山古墳はなぜ岩戸山古墳と同じ設計なんだろう?

るな
このコメントを読んで、地元にはそれぞれ内容の濃い伝承が伝わっているのに驚きました。

継体天皇の妃が愛知県とは全く知りませんで、少し調べてみたいなと思いました。
実は纏向遺跡を40年掘った方が、纏向からは邪馬台国らしきものは出なかったと話されました。

邪馬台国なら、中国の物が一つでも出るはずなのに、全く出なかったそうです。

そして、出土したものの特徴の一つは福岡系の羽口、そして敢えて言うなら、遺物の傾向としては三重や愛知を見ていると言われたのです。

時代も、場所も違う話ですが、愛知への視線が気になりました。

岩戸山古墳と相似性の古墳についてはネットでも論文を見ることができますが、
チェリーさんの質問に答えるには少々本格的に調べないと無理だなあと思っていたら、酔石亭主さんが助け舟を出してくれました。


Commented by 酔石亭主 at 2018-09-15 15:55 x

lunaさん はじめまして。横から失礼します。
チェリーさん ご無沙汰しております。

今城塚古墳(摂津)の相似墳には、断夫山古墳(尾張)、七輿山古墳(上野毛)、岩戸山古墳(築後)、五ヶ庄二子塚古墳(山城)、西山塚古墳(大和)、味美二子山古墳(尾張)などがあって、墳丘長が190mの今城塚古墳を10とした場合、それぞれ8、8、7、6、6、5と見事な序列関係になっています。しかも各古墳の被葬者は継体天皇の后や支持勢力の可能性が高いとされています。

これらから学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造されたと見られています。そこから導き出せる結論(あくまである一面から見ただけの結論)は、磐井の乱以前の継体と磐井の関係は非常に良好だった、となります。これでチェリーさんの疑問の答えになるでしょうか?

また両者の関係が良好なら、今城塚古墳の石棺に馬門ピンク石が使われていてもおかしくはありませんね。まあ、ピンク石は継体天皇よりかなり以前から関西の各古墳で使用されていますので、その流れで今城塚古墳でも使用されたと考えてもいいとは思います。あ、それから今城塚古墳の石棺石材としては、兵庫県高砂産の竜山石、馬門ピンク石、二上山白石の3種類が使われています。

るな
酔石亭主さんがすごく分かりやすくまとめてあったので、勉強になりました。
ありがとうございます♪




ところで、「学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造された」とあるように、近畿の朝廷が「配布する」という解釈が学会で見られます。


ところが、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種である」と書かれ、「日本は古くは小国だった」とあります。のちに「倭国の地を併合した」とも。
倭国は冬でも緑なす国と書かれていましたね。
阿蘇山の影響がある地域です。

中国正史から見ると、九州にあった倭王朝が設計図を「配布」したという解釈が成り立ちます。

最近思うのは、
磐井の時代もそうですが、邪馬台国論争では、魏志倭人伝だけでなく、『隋書』や『旧唐書』を読んでから論を立てるのが肝要かと。


以下はいただいたコメントの元記事です。







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by lunabura | 2018-09-16 17:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(10)

古墳のお勉強




今日は「宗像の古墳時代」の話を受講してきました。

宗像には古墳がいくつもあって、少し取材はしているのですが、
ブログに挙げる、とっかかりが無くて放置している状態です。

福津の奴山の古墳に宗像族が埋葬されているなら、
宗像の古墳には誰が埋葬されているというのだろう。

宗像の古墳は宗像族ではないのかしらん。
そんな疑問を抱えてのお勉強です。


桜京古墳とか、石屋形があり、装飾画がある。
今回の世界遺産のエリアから何故除外されたのだろう。
中に柱があって、高句麗と似ているので、そこで思考ストップ?
それが何故、装飾されている?

知りたいことはいろいろあります。

お話は弥生時代から古墳時代の棺の話など、学ぶものが沢山ありました。

特に「ああ、そうだったのか」と驚いたのは、九博にある陶棺。
いつ行っても、どこの陶棺か書いていないので、ずっと謎だったのですが、
宗像から出土したものでしたよ。
陶棺の例は九州ではこれ一つです。

宗像の皆さん、ご存知でしたか?

大体は岡山や香川などから出るとういことで、
吉備の姫が嫁入りしたときに持ち込んだりして…
という推測があるそうです。これは楽しい。

宗像の古墳ならココ!というイメージが出来たらなあ。






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by lunabura | 2018-08-21 22:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

金立で金龍(*’▽’)




金立で金龍(*’▽’)



金立とは地名で「きんりゅう」と読みます。
佐賀市にありますが、高速のサービスエリアの名前でもあります。

この高速道路建設の時に、古墳群が発見されて、移転されています。
「上り」にあると聞いていましたが、ようやく訪れました。

サービスエリアから歩いていけます。









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う~ん。
これは只者ではない。
すごい古墳群です。
久保泉丸山遺跡といいます。


イクヒは「相島の積石塚みたい」と言い、私は「ケルトみたい」と言いました。

よく考えると同じような連想です。
相島とケルトの墓はそっくりさんですからね。









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で、帰りしな空を見ると金龍が(^^♪

で、タイトルの「金立で金龍」となったのでした(;’∀’)
きんりゅうできんりゅう、と読んでね(笑)


金立は徐福が上陸した所でもあるので、
古代は最先端だったと想像しています。

この古墳群について詳しい事は資料を見て調べたいと思います。
ここは、與止比咩神社と吉野ケ里の間にあります。

何気に、佐賀ってすごい。
佐賀には何もないって、昔言ってなかった?

とんでもない。
宝庫。
佐賀は史跡の宝庫ですね。




コメントありがとうございます。
返事、少しお待ちくださいね。




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by lunabura | 2018-06-12 21:04 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

エジプト太陽の船と筑紫野の五郎丸古墳壁画



エジプト太陽の船

筑紫野の五郎丸古墳壁画





エジプトのクフ王のピラミッドの脇から二つの太陽の船が出土しているが、そのサイズが違っていて、大小二つあるのがずっと気になっていた。
一つは帆船で、もう一つの船を曳くようになっているらしい。




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曳かれる船はキャビンだけで、太陽神ラーとファラオが乗るようになっているそうだ。

これと同じ二艘の船の壁画が南アメリカのピラミッド関連の壁画にも描かれていることがRKBテレビであっていた。










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(画像出展)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo14.htm


これを知った後に筑紫野市の五郎丸古墳壁画を見ると、上の船の四角の構造物は棺ではないのかもしれないと思うようになった。
棺にしてはサイズ感が違うのだ。
これは王の為のキャビンの可能性はないだろうか。

エジプトの壁画と同じ思想の船が浮羽市と筑紫野市にあるのは、
有明海から入って来た渡来人が居をなしたからか。

彼らは石室の空間を埋めずにはいられない観念を持っている人たちだと思う。



<2017年12月27日 >



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by lunabura | 2017-12-27 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25