ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:<古墳>手光は宮地嶽へ( 37 )

岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 磐井VS継体?配布したのはどっち?



岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 

磐井VS継体?

配布したのはどっち?




9月20日に行く宇土半島のピンク石の石棺について、岩戸山古墳と今城山古墳の相似性について書いたところ、チェリーさんと酔石亭主さんが詳しい内容を知らせてくださいました。

コメント欄だけではもったいないので、こちらに載せておきたいと思います。

by チェリー
lunaさん、こんばんは。
私の生活圏になるんですが、熱田神宮のすぐ隣にある「断夫山(だんぷやま)古墳」(愛知県最大)と、春日井市にある「味美(あじよし)二子山古墳」も、今城塚古墳の相似墳みたいです。
調べてみたら、群馬県藤岡市にある「七輿山(ななこしやま)古墳」もそのようです。

by luna
けっこうあるんですね。
新たな謎解きでしょうか^^

by チェリー
他にもあるのでしょうか?私が知っているのはこの三つだけです。

断夫山古墳の断夫というのは、夫を断つという意味だそうです。
ヤマトタケルを失った宮簣媛(ミヤズヒメ)が、独身を通したという意味のようです。
熱田神宮は、今もこの古墳をミヤズヒメの御陵として祀っているのです(御陵墓祭)。

しかしながら、5世紀末から6世紀初頭の築造とされますので、年代が合いません。
ですので、当時の尾張氏の首長「尾張連草香(くさか)」の墳墓と想定されているようです。

この方の娘さんが継体天皇の妃となった「目子媛(めこひめ)」だそうですので、継体天皇との関連が考えられているようです。

同じ謎になります。断夫山古墳はなぜ岩戸山古墳と同じ設計なんだろう?

るな
このコメントを読んで、地元にはそれぞれ内容の濃い伝承が伝わっているのに驚きました。

継体天皇の妃が愛知県とは全く知りませんで、少し調べてみたいなと思いました。
実は纏向遺跡を40年掘った方が、纏向からは邪馬台国らしきものは出なかったと話されました。

邪馬台国なら、中国の物が一つでも出るはずなのに、全く出なかったそうです。

そして、出土したものの特徴の一つは福岡系の羽口、そして敢えて言うなら、遺物の傾向としては三重や愛知を見ていると言われたのです。

時代も、場所も違う話ですが、愛知への視線が気になりました。

岩戸山古墳と相似性の古墳についてはネットでも論文を見ることができますが、
チェリーさんの質問に答えるには少々本格的に調べないと無理だなあと思っていたら、酔石亭主さんが助け舟を出してくれました。


Commented by 酔石亭主 at 2018-09-15 15:55 x

lunaさん はじめまして。横から失礼します。
チェリーさん ご無沙汰しております。

今城塚古墳(摂津)の相似墳には、断夫山古墳(尾張)、七輿山古墳(上野毛)、岩戸山古墳(築後)、五ヶ庄二子塚古墳(山城)、西山塚古墳(大和)、味美二子山古墳(尾張)などがあって、墳丘長が190mの今城塚古墳を10とした場合、それぞれ8、8、7、6、6、5と見事な序列関係になっています。しかも各古墳の被葬者は継体天皇の后や支持勢力の可能性が高いとされています。

これらから学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造されたと見られています。そこから導き出せる結論(あくまである一面から見ただけの結論)は、磐井の乱以前の継体と磐井の関係は非常に良好だった、となります。これでチェリーさんの疑問の答えになるでしょうか?

また両者の関係が良好なら、今城塚古墳の石棺に馬門ピンク石が使われていてもおかしくはありませんね。まあ、ピンク石は継体天皇よりかなり以前から関西の各古墳で使用されていますので、その流れで今城塚古墳でも使用されたと考えてもいいとは思います。あ、それから今城塚古墳の石棺石材としては、兵庫県高砂産の竜山石、馬門ピンク石、二上山白石の3種類が使われています。

るな
酔石亭主さんがすごく分かりやすくまとめてあったので、勉強になりました。
ありがとうございます♪




ところで、「学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造された」とあるように、近畿の朝廷が「配布する」という解釈が学会で見られます。


ところが、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種である」と書かれ、「日本は古くは小国だった」とあります。のちに「倭国の地を併合した」とも。
倭国は冬でも緑なす国と書かれていましたね。
阿蘇山の影響がある地域です。

中国正史から見ると、九州にあった倭王朝が設計図を「配布」したという解釈が成り立ちます。

最近思うのは、
磐井の時代もそうですが、邪馬台国論争では、魏志倭人伝だけでなく、『隋書』や『旧唐書』を読んでから論を立てるのが肝要かと。


以下はいただいたコメントの元記事です。







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by lunabura | 2018-09-16 17:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(10)

古墳のお勉強




今日は「宗像の古墳時代」の話を受講してきました。

宗像には古墳がいくつもあって、少し取材はしているのですが、
ブログに挙げる、とっかかりが無くて放置している状態です。

福津の奴山の古墳に宗像族が埋葬されているなら、
宗像の古墳には誰が埋葬されているというのだろう。

宗像の古墳は宗像族ではないのかしらん。
そんな疑問を抱えてのお勉強です。


桜京古墳とか、石屋形があり、装飾画がある。
今回の世界遺産のエリアから何故除外されたのだろう。
中に柱があって、高句麗と似ているので、そこで思考ストップ?
それが何故、装飾されている?

知りたいことはいろいろあります。

お話は弥生時代から古墳時代の棺の話など、学ぶものが沢山ありました。

特に「ああ、そうだったのか」と驚いたのは、九博にある陶棺。
いつ行っても、どこの陶棺か書いていないので、ずっと謎だったのですが、
宗像から出土したものでしたよ。
陶棺の例は九州ではこれ一つです。

宗像の皆さん、ご存知でしたか?

大体は岡山や香川などから出るとういことで、
吉備の姫が嫁入りしたときに持ち込んだりして…
という推測があるそうです。これは楽しい。

宗像の古墳ならココ!というイメージが出来たらなあ。






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by lunabura | 2018-08-21 22:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

金立で金龍(*’▽’)




金立で金龍(*’▽’)



金立とは地名で「きんりゅう」と読みます。
佐賀市にありますが、高速のサービスエリアの名前でもあります。

この高速道路建設の時に、古墳群が発見されて、移転されています。
「上り」にあると聞いていましたが、ようやく訪れました。

サービスエリアから歩いていけます。









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う~ん。
これは只者ではない。
すごい古墳群です。
久保泉丸山遺跡といいます。


イクヒは「相島の積石塚みたい」と言い、私は「ケルトみたい」と言いました。

よく考えると同じような連想です。
相島とケルトの墓はそっくりさんですからね。









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で、帰りしな空を見ると金龍が(^^♪

で、タイトルの「金立で金龍」となったのでした(;’∀’)
きんりゅうできんりゅう、と読んでね(笑)


金立は徐福が上陸した所でもあるので、
古代は最先端だったと想像しています。

この古墳群について詳しい事は資料を見て調べたいと思います。
ここは、與止比咩神社と吉野ケ里の間にあります。

何気に、佐賀ってすごい。
佐賀には何もないって、昔言ってなかった?

とんでもない。
宝庫。
佐賀は史跡の宝庫ですね。




コメントありがとうございます。
返事、少しお待ちくださいね。




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by lunabura | 2018-06-12 21:04 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

エジプト太陽の船と筑紫野の五郎丸古墳壁画



エジプト太陽の船

筑紫野の五郎丸古墳壁画





エジプトのクフ王のピラミッドの脇から二つの太陽の船が出土しているが、そのサイズが違っていて、大小二つあるのがずっと気になっていた。
一つは帆船で、もう一つの船を曳くようになっているらしい。




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曳かれる船はキャビンだけで、太陽神ラーとファラオが乗るようになっているそうだ。

これと同じ二艘の船の壁画が南アメリカのピラミッド関連の壁画にも描かれていることがRKBテレビであっていた。










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(画像出展)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo14.htm


これを知った後に筑紫野市の五郎丸古墳壁画を見ると、上の船の四角の構造物は棺ではないのかもしれないと思うようになった。
棺にしてはサイズ感が違うのだ。
これは王の為のキャビンの可能性はないだろうか。

エジプトの壁画と同じ思想の船が浮羽市と筑紫野市にあるのは、
有明海から入って来た渡来人が居をなしたからか。

彼らは石室の空間を埋めずにはいられない観念を持っている人たちだと思う。



<2017年12月27日 >



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by lunabura | 2017-12-27 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

ウェールズの古墳は似過ぎ(^^;



ウェールズの古墳は似過ぎ(^^;



コメントをいただいて、NHKのウェールズ歩きを見ました。
今日の収穫はこれ。

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やっぱり日本の古墳に似過ぎ。(*’▽’)
5000年前だって。
どうなってる?


島の名前や遺跡の名前、チェックした方、教えてくださいね。





時代と場所は変わるけど、
国乳別皇子と玉垂命の墓は同時代、すぐそばにあるけど、
前者は前方後円墳で、後者は円墳。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻57弓頭神社)

宮地嶽神社も円墳。

武内宿禰の母の山下影姫の墓は前方後円墳。

なんか気になるなあ。





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by lunabura | 2017-05-30 23:51 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(6)

湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

狐塚古墳(2)昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


狐塚古墳(2)

昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


手元に『埋もれていた 朝倉文化』(福岡県立朝倉高等学校史学部)という本があります。ふと、本棚から出したのですが、そこに狐塚古墳の記事がありました。

この本は、朝倉で整地、開墾が次々と行われるなか、高校生が調査して書き遺したものを一冊にまとめたものです。

そして狐塚古墳については、当時天井石を失ってはいたものの、おびたただい出土品があり、多量の武器、馬具、須恵器、はては北宋銭や石鍋、石硯などが記録されています。

土器には弥生土器も混じり、平安土器、北宋の白磁、南宋の青磁などが含まれています。北宋銭は真書の天聖元宝(1023年)が二枚です。

天井がないことから、違う時代のものが混入したのか、あるいは400年後も扉が開けられて奉納されたのか、全く不明ですが、この地が中国と交流を持っていたことを物語っています。

筑後川を下って大川の風浪宮に着けば、その近くに榎津という国際港があるので、珍しいものが直接入って来ている可能性があります。

出土品には釘が多数出ていることから、木棺だと分かっています。その分布からはやはり複数の木棺が置かれたもようです。

そして、本には奥壁の鏡石に書かれている船の詳細な絵図が掲載されていました。
それは、前回紹介した看板の画とは全く違っていました。



衝撃の壁画です。







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これは渡来人でしょうか、二人は明らかに別の人種と思われます。
左の人物はタッチが違うので、後世に書き加えた可能性が大きいです。
人物は船から降りています。屋形がある大きな船で、左下の小船と比べるとその差がよく分かります。有明海から入ってきたのでしょう。船の右手にびっしりと彫られた格子は、現代でもまだ目視できました。が、人物の部分は船のラインがわずかに見えるだけです。



次は同じ部分の看板のイラストです。


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何故、あれがこのような壁画とされたのか、理由は不明ですが、詳細は昭和29年3月「福岡県文化財調査報告」第17輯に載っているそうです。



狐塚古墳は出土品が多いので、専門家によって、もっと時代が描きさせるのではないでしょうか。
周囲の古墳が赤や青で描かれているのに対し、これは特殊なもののようですが、専門家なら円石室の分布とともに、明らかにできるものではないでしょうか。

この古墳はもっともっと評価されるべきものと思われました。





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by lunabura | 2015-09-25 22:34 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

珍敷塚古墳・天鳥船の壁画だけど外観のみ


珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
 外観のみ


前回の浅田古墳群から西、久留米方面へ約6キロの所に、珍敷塚古墳があります。6キロという距離は氏族も別になるでしょうが、例の天鳥船があるので、現地を確認しに行きました。

前回、資料がないとボヤキましたが、うきは市の観光協会から戴いた資料の中に、「うきはの装飾古墳」という優れ物が入っていました♪

発行は、うきは市教育委員会です。重定古墳の壁画は、ユギがずらりと整列している様子が飯塚の王塚古墳に似てたり、行けなかった楠名(くすみょう)古墳の入り口が福津市の手光古墳と似てたりしていて、ワクワクしてます。

で、本題の珍敷塚古墳ですが、石室は見られなくても、福岡県大阪観光協会の発行したリーフレットに載っていた、あの天鳥船の現場ということで、行ってきました。
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あれ?
あれれれれ?
あれじゃない?
行きすぎました!

古民家カフェのような瀟洒な看板があって、通り過ぎながら「珍敷塚古墳」の字を確認。
車をバックさせて、現地に立ちました。

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ここは屋形古墳群と言って、四つの古墳があるということです。

壁画を観察すると、珍敷塚古墳と原古墳、鳥船塚古墳の三つが「ミサキ鳥」を舳先(へさき)と艫(とも)に一羽ずつ乗せて、帆柱などが描かれています。

エジプトのラ―の船と共通する画があるのはここです。
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(福岡県大阪事務所発行 無料で送ってくれますよ)


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この古墳は小さな家屋で墳丘もなく、古墳には見えないので調べて行くと、破壊されていて、奥壁だけが残されたもようです。

当地はフルーツ観光で有名ですが、造園業も盛んなので、古墳を壊して畑に造成し、石は庭石に使われていったのではないかと思います。


小郡市では、家の塀代わりにおびたたしい数の石室っぽい石が山積みされているのを見ました。

ここも、石を持ち去ろうとした時、この画の躍動感にただならぬものを感じた人が残してくれたのでしょうか。

この天鳥船のモチーフを描いた古墳が三つ並んでいる点では、一族の墓が次々と造られたんだろうなと、想像させてくれます。




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少し離れて写しました。裏手に三つの古墳が並んでいるはずです。少し坂になっていました。もう暑くて断念。

冊子からは、珍敷塚古墳の次の世代の人は力不足で、モチーフを描くのがやっとという印象を受けます。逆の意見を持つ人もいるかも。
四つ目の古畑古墳の絵は日岡古墳と似たタイプだと指摘されています。

時代については記述がないので、想像することが出来ません。








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これは反対側の風景です。

果樹園の先に立つと、筑後平野が見渡せます。筑後川は一夜川というほど、流れが変わる川で、いつも氾濫しました。

正面の山並みは朝倉です。3世紀の初頭まで羽白熊鷲が活躍し、神功皇后に滅ぼされました。それから400年以上経って、斉明天皇が神功皇后の足跡で祈り、朝倉橘広庭宮を造りました。

この珍敷塚古墳の被葬者はその間の人です。
周辺の神社は鷹取宮、天満宮、熊野神社、宮地嶽神社。

何か手掛かりはないか。
やっぱり歩かないと駄目ですね。



珍敷塚古墳







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by lunabura | 2015-09-19 23:03 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(7)

重定古墳と塚花塚古墳・同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


重定古墳と塚花塚古墳

うきは市浮羽町朝田
同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


前回の高御魂神社から新川を下り、賀茂神社前を通って西に1キロ進むと、有名な装飾古墳群に出ます。

今回はその内、重定古墳塚花塚古墳を見つけることが出来ました。
どちらも道路沿いにあったのですが、初めてだと、見つけ出すのが大変なのが古墳巡りです(^_^;)

でも、古墳の被葬者は神社にお参りしていたはずなので、歩ける範囲に古墳があるなら要マークです。しかも、装飾古墳♪

まず、重定古墳を見つけました。

重定古墳
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で、右手にあった石段を上ると何故か現代のお墓。



これ以上は進めず、訳分からず降りました。
ネットで見ると、もっと広い石段があり、頂上に出ることができそう(/・ω・)/
――先達は あらまほしきなり。

これは前方後円墳だったのが削られて、後円部が残っているそうです。
時代は6世紀後半。
磐井の乱の傷も癒え、宮地嶽の勝村・勝頼が活躍している時代。
阿毎多利思北孤や聖徳太子がそろそろ活躍しようとしている頃かな?


装飾古墳の絵柄も分からないですが、石室の写真を「うきは市の文化財」から。




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迫力がありますね。
天井石は一枚石だそうです。








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看板を見ると、双六のように、塚花塚古墳への道が。三歩進め、てか?



塚花塚古墳
つかはなづか

すぐ近くにありました。



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古墳の全景です。円墳だそうです。

ここには看板がありました。





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馴染みの絵図がありますが、全体のデザインが分かりません。


佐賀の田代太田古墳などのように、壁画や石室などの画像つきの看板に進化してほしいですね。

こちらも手元の資料によると6世紀後半ということなので、さっきの重定古墳と同時期になります。
でも、石室の設計は全く違います。



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こちらは小さい石を積んでいます。


同時期で近所なのに、前方後円墳と円墳という形の違いもさることながら、石室の設計が全く違うということは、興味深いです。
二種の石工がいたということになります。

壁画のアイテムの共通項はあるようですが、現地では何も分かりませんでした。
比較したら面白そうですね。

あらためて、装飾古墳の本を探さないと分からないのでしょうか。
浮羽の装飾古墳が一挙に掲載されている本とか、あるのかなあ。




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これは古墳の西側の山を撮りました。鷹取山でしょうか?









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こちらは新川方面。一番左の木立が賀茂神社かな?
右手の山裾に三次神社があるのではないかなと思いますが、あくまで推測です。


とても良い環境ですね!




地図







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by lunabura | 2015-09-17 23:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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