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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:<星の和名・天文>( 26 )

オリオンの和名 総覧


オリオンの和名 総覧



真鍋大覚の残した「オリオンの和名」はかなりの数になります。

基本的にはオリオン座が回転しながら東から西へ旅をすることから付いた名、また、氏族によっての呼称の違いなどが挙げられます。

多くの古代史の知識を要したために、これまでその背景を予習してきましたが、今回は、歴史カフェの資料を元に、「オリオンの和名」の分類を紹介したいと思います。






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星座にすべての和名を載せてみようとしましたが、ここには入り切れず、まだまだ他にあると思ってください・

背景が黄色のものは、舟人の呼び方、緑は太陽暦の倭人と金星暦の舟人の一年の違いから付いた名。灰色は蹈鞴工人が付けた名。そんな感じです。

真鍋大覚の世界 オリオン座 ―星の和名と渡来した海の民、鉄の民―   

第1章 オリオン座とは
第2章 真鍋大覚の記録
1 庄屋は立冬のオリオン座を見て暦の作成を始めた
  (1)倭人はオリオン座を三星で捉えた  かさほし
  (2)スバルと合わせて「上」の字「こまのほし」と合わせて「下」 裃の星
  (3)赤いベテルギウスと御火待行事 御火焚星 御火待星 神奈毘星
  (4)神功皇后が占った星 御日待星

2 舟人の守護神 オリオンの三ツ星
  (1)三ツ星は水平や縦になる 加津佐星 南位見星 豆酘差星 かさのほし つさのほし
  (2)冬の東風で大陸に船出が出来た 風信星
  (3)水軍の守護神オリオン 三並大明神 三蓋星 三並星 三組星
  (4)オリオンを「しま」と呼ぶ理由―「泉のある船着場」 三島星 三諸星
  (5)夜須の「三並」は「船の寄せ場」「三ツ星」
  (6)方位を数字で呼ぶ閩人を三五殿と呼んだ 

3 三嶋湟咋の孫娘 媛蹈鞴五十鈴媛命(神武帝妃)
  (1)ミソクヒとはオリオンであり、オアシスである 蹈鞴一族
  (2)神武帝と媛蹈鞴五十鈴媛命の結婚 7月7日

4 夏の夜明け前に垂直に立つ三星 7月7日のオリオン
  (1)夏至の暁光に消えるオリオン 三連星
  (2)天橋立の逆見と三星のもたらす幸運 
  (3)博多町人は暁のオリオンで気象を占った 土用三郎
  (4)女人は暁の三星を見て水汲みをした 水養星 水汲星 三組星

5 立春の朝に一瞬見えるオリオンとヒッタイトの娘の話 星見の戒めとして
  (1)明け方のオリオンが春を告げた(古墳時代)氷室星 氷割星
  (2)「みかさ」「みもろ」とは観星のこと 三笠星
  (3)引田部はヒッタイト 美望呂歌を観星の心得とする

6 蹈鞴工人が祈るオリオン
  (1)冬にオリオンが昇ると蹈鞴が始まる タタラ見星 天秤星
  (2)蹈鞴の産物を星に付けた 鑄鉧星 飯豊星 陰(さかの)星 允(さかの)星 胤(さかの)星 姫子星
  (3)賀茂氏のオリオン 三積(みつみの)星 三補(さほの)星 三隅(みすみの)星 三保(みほの)星 美保(みほの)星 佐保(さほの)星
  (4)仕事始めには女人が三拍子で舞った
  (5)白拍子の持つ鼓 鼓星

7 倭人と舟人の一年の差を星の名に付けた
  (1)太陽暦の八年と太白暦の五歳は一致する 五條八旗
  (2)倭人の一年と八幡の一年は同じではなかった 嘉(か)世(せの)星(ほし) 巨勢(こせの)星(ほし) 逸(は)成(せの)星(ほし) 嘉瀬(かせの)星(ほし) 久世(くぜの)星(ほし) 長谷(はせの)星(ほし) 

8 御火待ちと渡来の記憶
  (1)一陽来復を願う北欧の民族の儀式
  (2)日神を冬至の夜に迎える儀式 魏志倭人伝から 卑奴母離
  (3)氷河期から間氷期へ

9 武人とオリオン
  毛利家家紋にオリオンの三星 三次星

以上は『儺の国の星』と『儺の国の星拾遺』からオリオン座に関する用語を選び出して、分類したものです。ボリュームも多かったのですが、季節と星の見え方が分かるまで理解が大変でした。


各氏族が星の名を持って各地に移動し、移住先にも星の名を付けたようすが良く分かりますね。
星に祈るーすなわちオリオンを守護神として祈った証です。

また、纏向遺跡からは製鉄道具の羽口、しかも博多式のものが出ていたという点についての仮説が今回は出てきそうです。








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by lunabura | 2019-06-18 20:41 | <星の和名・天文> | Comments(0)

真鍋ノート オリオン三ツ星の和名 三次星 毛利家家紋にオリオンの三星


真鍋ノート 

オリオン三ツ星の和名 三次星 

毛利家家紋にオリオンの三星




オリオン座の中央にある三ツ星については多くの和名がある。
今日はその内の一つ「三次星」について。

『儺の国の星拾遺』より


<三次星(みつぎのほし) オリオン三星を三次星といった。

これがいつしか武人の矢に見立てられたのは毛利元就(もとなり)(1497~1571)が安芸出雲の蹈鞴の故郷を一手に掌握した時代からであって、維新の後は帝国海軍の先導の神のごとく見上げられていた時代があった。

そして三矢の戒めが一致結束の教訓に事あるごとに引き出されていた。一本の矢は折ることが出来ても三本の矢は折ることが出来ないと説かれたのである。(拾239)>



オリオン座の三ツ星の名の一つに「三次星」があった。三次といえば「みよし」市がある。

中国地方の高速道路をスキーに行く時に「三次」と書いて「みよし」と読んだのが印象的な地名だった。ここは広島、すなわち安芸国だ。

ここと出雲の蹈鞴を毛利元就が掌握してから、オリオンの三ツ星は武人を先導する神のごとく見上げられたという。

毛利元就といえば、「三本の矢は折れない」という教えを諭した人で知られる。

その毛利家の家紋にオリオンの三ツ星が描かれている。


【ウィキペディア】より、一部変更しながら概要を読もう。


 毛利家の家紋の「一文字に三ツ星」の一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった将軍星(オリオンのベルト)を表している。

毛利元就(もとなり)が、子の隆元・元春・隆景に授けたという教え。

一本の矢は容易に折れるが、三本まとめてでは折れにくいことから、一族の結束を説いた。三矢の教え。

オリオンのベルトにあたる3つの星は、古代中国において中央の星を大将軍、左右の星を右将軍・左将軍として戦の神として信仰されており、のちに仏教とともに妙見信仰という形で日本に伝来し、武士たちの間で信仰の対象とされた。

その信仰によって日本の家紋に「三つ星紋」が発生した。

大江氏、松浦氏、渡辺氏の渡辺星など、そのほかの三つ星紋も同じ意味がある。基本の形は、3つの円形を山形に盛る図案であるが、横一列や縦一列に並べたものもある。
 

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これが毛利家の家紋だ。この三つの丸がオリオンの三ツ星だという。
横一列や縦一列に並んだものなら、さらにオリオンの三ツ星に見えるのだろう。



<20190615>


今日も、歴史カフェの「オリオン座」の予習編でした。

オリオン座をすべて網羅して、完全な資料になるように作成しています。
例の如く、分量が多くて、多分時間が不足するので、この毛利家家紋については、時間があれば、ということになりそうです。



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歴史カフェ623の案内は







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by lunabura | 2019-06-15 20:14 | <星の和名・天文> | Comments(0)

榧星 かやのほし ベガ 伽耶とはベガを祀る天壇



榧星 かやのほし ベガ


伽耶とはベガを祀る天壇


天の川を挟んで輝く織女と彦星。
織姫星はベガ。

そのベガについて、今日は『儺の国の星』を読んでみます。
今日は、その一部の抜粋です。p156

<榧星 かやのほし> ベガ

古事記神代記上に曰く、
野の神、名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。
またの名は野椎神(のづちのかみ)という。

榧星は織女ベガの古名である。

地中海の神話には榧(かや)を神女巫人の化身として
崇(あが)められているときく。
幹の中心部が女人の血液に似て、朱赤に染まっているからと説かれる。


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                画像出典 ウィキペディア
(略)


織女の古名をガリヤと言う。

トロヤ人は母なる大地を女神とした。
そしてエトルリア人は色女として、
冬至の夜に大地に接する彼方をガリヤと呼んだ。

今のライン川とローヌ川あるいはドナウ川のあたりで、
ローマ皇帝ユリウス・カエサルが太守としてその植民地に開拓した地方である。


(略)

韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた。
遠く離れた地中海のガイヤに遡る古語である。


ベガを榧の木の精と見たのは地中海の人々。
それは女神の姿で語られました。

トロヤ人もエトルリア人も大地を女神としました。
同様に日本の神話でも野の神は女神でした。



私たちは七夕の時だけ、織女を意識しますが、
時代ごと、季節ごとに方角と時間を変えて姿を見せていました。

古代ヨーロッパで見えたベガは
冬至の夜に大地近くで冷たく輝いていたといいます。

あと少し、寒さを乗り切れば春が到来することを教えてくれる
「春の女神」でもあったそうです。



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           左 彦星 右 織女ベガ


凍り付いた北欧の大地近くに春の女神・ベガが輝く頃は夜も長いことでしょう。

短い昼に凍えた手をふところから出して、食事の支度をしたのでしょうか。

星を仰いでたくましく生き抜いた人間の強さが、心に浮かびます。


「伽耶」(かや)ということばはそんなベガを祀って祈る天壇だったといいます。

その語源がガイヤから来ているということは、
倭人の記憶の中に、遠い西の果ての祈りの心が残っているということでしょうか。




そのベガを志賀星(しがのほし)とも呼ぶそうです。
                          p166p156






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by lunabura | 2016-11-01 21:32 | <星の和名・天文> | Comments(0)

日向星(ひむかみぼし)スハイル星 冬至、春分の目安星



日向星(ひむかみぼし)

帆座 アル スハイル アル ワズン
冬至、春分の日の目安の星
 




太陽を観測するだけではどの日が冬至か、夏至か、あるいは春分、秋分か、
目測では決め難い。

暦があるからこそ、観測できるものだ。

特に、太陽がUターンする夏至や冬至は振り子が止まって見えるように、
留まってみえる(だろう)。

(だろう)というのは、寝坊助には観測の経験が無いから(^^;




古代の人はどうやって見定めたのか。

星見の物部はこれに星の観測を組み合わせていたという。
その時を告げる星を日向星と呼んだ。

学名でアル スハイル アル ワズン。
略してスハイル星という。

以下、『儺の国の星拾遺』から


<冬至>
神代の昔、遠い祖先は暁方にこの星が南の果てに上がるのを見て
冬至の日を見定めたと語られている。

やがて朝日が上がるのを家屋の左端に望んで、
春を待つ心によろこびを感じたと語られている。

今は赤緯歳差で南天の彼方に去ったが、
古今和歌集の頃は大寒厳冬の最中になっていた。

氷上星(ひかみのほし)、或いは氷室星(ひむろのほし)
日甦星(ひのかわりぼし)、氷川星(ひかわのほし)がこれであった。

<春分>
また暮れ方のまだ明るい春霞の彼方に
彼岸の中日に眺めることが出来たところから、
中日星(なかびのほし)、或いは日拝星(ひおがみぼし)、
日向神星(ひうがみぼし)などの名もあったという。

<道真公>
延喜式以降、筑紫では天神星(てんじんのほし)の名が
いつとはなしに出来上がった。
菅原道真の命日に見えたと伝えられる星であった。

<立冬>
今から1994年昔は、
明け方にこの星が有明の干潟の彼方に上がる日が立冬であった。

その頃は立冬を元旦とする氏族も多かった。
因りてこれを冬日星(とうひのほし)、なまって登志星(としのほし)と
呼んでいた。

以上『儺の国の星拾遺』p202

< >は綾杉が追加したもの。


まとめ

スハイル星
冬至 明け方、南から昇る。 氷上星。
春分 暮れ方、明るい春霞の彼方(西?) 中日星、日拝星、日向神星、
立冬 (太宰府から見て?)有明海の方角から昇る。 冬日星、登志星
旧2月25日 道真公の命日にちなんで 天神星



星が季節によって時間と方角を変えて姿を見せる。
ダイナミックな宇宙の動きを古代の人は感じていたんだな。

「日向」の地名を地図で探すと次々に出てくる。
案外、天体観測に関連する地形だったのかもしれない。

日向神(ひゅうがみ)は地名だが、星の名でもあったとは興味深い。
人々は辿りついた地に星の名を付けていったという。
美しい話だ。


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                     画像出典 ウィキペディア 
帆座 λ(ラムダ)が スハイル星




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by lunabura | 2016-10-31 21:03 | <星の和名・天文> | Comments(2)

白鳥座 規矩星 きくのほし



白鳥座

規矩星(きくのほし)






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<「さきくさ」は聖書の百合であり、天文学でいう星座の白鳥キグナスであった。

古事記允恭記には木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と
衣通郎女(そとおしのいらつめ)の名が見える。

白鳥座の古名は十薹星(そとうのほし)、木梨星(きなしのほし)、
軽子星(かるのほし)などがあった。

機久(規矩・木魂)星(きくのほし)。物干し竿を衣透(そとほし)といった。

星は記紀の頃にはすでに古人の心に身に溶けてしまって、
表にはもはや出てこなかったのである。>

『儺の国の星』p188


白鳥座もまた見る人によって異なる物語を持っていました。

『古事記』の衣通姫、軽大郎女は同じ人で、
白鳥座の名を持った人ということになります。
でも、『古事記』の時代には星の意味は忘れ去られたようですね。




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(画像出典 ウィキペディア)

白鳥座を規矩(きく)の星とも言ったそうです。

確か、規矩の星と言って北斗七星を指すという話も載っていたと思います。

さて、企救(きく)国は白鳥座なのか、北斗七星なのか。
どっちかな。



以下はウィキペディアから。

衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)は、記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。

『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。




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by lunabura | 2016-10-29 20:06 | <星の和名・天文> | Comments(0)

リラとベガの和名・ リラは伊豫・ベガは志賀


リラとベガの和名

リラは伊豫・ベガは志賀

琴座はリラ。
この美しい発音を倭人は上手く出来なくて、イヨと発音したといいます。

また、織姫星はベガ。
天の川のほとりに輝くベガも倭人が発音するとチカ、シカとなったと
真鍋は言いました。

志賀星 ベガ
 北辰が左枢(さすの)星(ほし)と右枢(うすの)星(ほし)を双方に立てた時代は、垂仁帝三十七(後八)年であった。伊勢神宮御遷座は同二十五(前五)であったから、何かこの前後に日と星の天文観測があったらしい。かつての井澗(しかの)(志賀)星であった織女が、北天に燦爛と輝いていた時代は一四〇〇〇年前のことであった。そして織女(※ベガ)が最も遠く北天から離れた時代は、一條帝正暦三(後992)年の頃であった。『儺の国の星拾遺』p154


北辰とは北極星。左枢星と右枢星とはポラリスとツバーン。
「阿氐良」(アテラ「麻氐良」(マテラ)と同じ意味ですね。

弥生時代は北極を示す星がなくて、ポラリスとツバーンを見て、
北を決めていたという話は何度か書きました。

じゃあ、何にもない、真っ暗な北を何と呼んだか?
「天御中主」と言ったそうです。
そう、志賀島の元宮三宮の沖津島。
ここには「天御中主」が祀られています。

さて北極星は時代によって変わります。
現代はポラリス。縄文時代のころはツバーン。
そして、14000年前の頃、(旧石器?)の北極星はベガでした。
「ベガは氷河を煌々(こうこう)と照らしていた」ことになります。(p157)

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 榧(かやの)星(ほし)は織女ベガの古名である。(略)
 琴座リラを倭人は伊豫とよんでいた。

 魏志倭人伝に伊邪(いや)なる国名は、何か西域の遥か彼方の神話を千七百年昔まで保存していたかのごとき響きをあたえていたものと感ぜられる。

所はいずれも肥前松浦の地で太(おほ)身(みみ)の氏族が青海原を前に逞しく生きていた地である。又の名を千顆(ちくわ)の里という。無数の島々が碧潭(へきたん)に連なる地でもある。

 昔はv,w,b,t,nは音が交って聞きとりも書きとりも難儀した時代があった。これは近東民族のきわめて珍しい先天的素質であった。

前述のベガは、この方式に則して倭人に伝えられた訛をさがすと、値(ち)加(か)、志賀或は千岩(ちいわ)などの地名を挙げることができる。

そして又l,r,yが言い別けられぬ倭人にあってはリラは伊豫(いよ)などの地名として昔生きていたことにもなるのである。 『儺の国の星』p156  榧星 ベガ


あれあれ、魏志倭人伝に出てくる「伊邪」国は松浦にあったと言ってますね。
松浦=末廬が通説ですが、これもまた見直しか…。

太身族については、他所にもいくつか見られます。
断片を繋ぎ合せて、いつか紹介できたらと思っています。

異国の人の発音は難しいですよね。
中近東の人の発音を聞いたら今でも難しい。

ベガ (vとtが混乱)→ チカ・シカ → 値加・志賀
リラ (l、r、yの区別がつかない) → イヨ → 伊豫

思いっ切り変わったもんですな。

「魚」の発音が上手くできないことを思い出します。
(ユー・イユー・イオ・イヲ)

日本人はlとrは今も区別が苦手です。
中国語のリーはジーと聞こえる時があります (^_^;)
2000年以上経っても、耳は弥生人のままの、るなでした。(´・ω・`)

それにしても、伊豫の国がリラの国だったとは、
星の名が地名になって行くのですが、これは想像つかなかった。


2015年1月6日



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by lunabura | 2016-07-05 09:01 | <星の和名・天文> | Comments(2)

ヒアデス星団の一部だけど読んでみる?



先日から、真鍋大覚の引用に関していくつかコメントをいただきました。真鍋の文で謎が解ける方、イライラする方、いろいろ反応があって当たり前だと思います。イライラする原因は人の引用文のため全容が分からないからだと思います。

『儺の国の星』と『儺の国の星拾遺』はわずか100冊ずつしか印刷されていません。
が図書館の広域ネットワークサービスを使えば、福岡県内の方は確実に近くの図書館で借りることができます。

たまには県外からの本を借りるケースもあるので、まずは近くの図書館に問い合わせてください。また那珂川町に対しては個人的に直接復刻をお願いしに行って、好感触を得たのですが、その後進展はありません。

この本が皇室から依頼されて出版された事情は、『神功皇后伝承を歩く』の上巻をお持ちの方はあらましを書いているので、そちらをご覧ください。

私個人としては、書き写したりブログに書いたものを集めるとファイル6冊ほどになりましたが、いまだに1パーセントも読解できていません。でも、昨年久留米大学で発表した内容に関しては考古学的な裏付けを採ったりしながら発表しました。

水城に関してだけでも、十人ほどの講座を受けたでしょうか。ブログにはまだ書いていませんが、水城の中央部の欠損部から古代のレンガや瓦が出て、水城が一本ラインではない事例も出ています。そこには矩形の遺跡の痕跡があるのを発表された方もあります。これが真鍋の伝える天智天皇の工事、運河だと考えています。

でも、書くと為ると、膨大な資料を理詰めで書かねばならず、それは論文のレベルでもあるので、ブログでは書いていません。

針摺の瀬戸も、すでにボーリングで海の貝が出土しているので、これを批判したい人はそれ以上の研究が必要です。

「まさかね」とか「聞いたことが無い」という意見はよろしくありません。

論文を書いた方はそれなりに人生の数年を費やしているのですから、その論文をまずは読んでから批評する覚悟が欲しいものです。その態度が無いと、古代史はいつまでも経っても語呂合わせや、妄信の世界を超えられません。

神功皇后の伝承地も然り。先日、日経新聞から取材をされたのですが、その記者の方は3000箇所もの伝承地があると集計されました。

この膨大な伝承を「それは神功皇后でない誰か」、など新しい捏造を造り出してはいけません。

自分の足で確かめて、数百社の神社に対して直接「嘘を言っている。誰かがが創作した」その誰かとは誰の事かと言えるまで調査してください。

仲哀天皇や皇后を支えた氏族の末裔も大勢いらっしゃるんですから、その人たちにも面と向かって言えるかどうか、自分の心に尋ねてください。


『炎のピラミッド』に関しても、今、本を理解するために実際にフィールドワークを始めました。読まないと批評も出来ません。

本を手に入れたい方は熊本の八坂神社に直接尋ねてください。あと100冊ほど残っていると聞いています。

ブログを見てすぐに神社に行かれた方もありますね。八坂神社に直接話を聞きに行かれた方もあります。

また、昨夜は友人に電話したら、「今、八坂神社から帰って来た所よ。まだ荷物もほどいていないわよ」という返事。福岡から熊本まで本を買いに行ったんですって。私の電話のタイミングにお互いびっくりでした。これは私にとっては読み遂げなさいというサインです。

早く参拝した六社だけでも終わらせたいのですが、写真だけでは満足できず、やはり本を読みながら書いています。(+_+)

例の調子で三菟を追っている、るなさん。あと、一ふんばりです (/・ω・)/ .

真鍋大覚の文「ヒアデス星団」の一部だけですが、タイプしました。読んでみてね。

『儺の国の星拾遺』 
徳勒星
牡牛座 Taurus θ(71)

日本書紀巻八 仲哀紀二(一八三)年三月十五日に、
  天皇、南国を巡狩す。
  紀伊国に至りまして、徳勒津宮に居します。
紀伊日高衣奈が徳勒津であった。
 山海経から倭人伝に至る間、露紒無針の記述のごとく一枚の広い麻布、時には絹衣を背中から腰にあてて前で合せる服装があった。

裾が股から膝の形にひらきやすいところから、風に孕み風に靡く姿をヒアデス星団の鏃型の分布に見たてて、衣奈星、或は伊奈星などと書いた。星群の散開した分布を坩堝の中から飛び跳ねるすさまじい火花の光景にみたてたのか、碾盪星、或いは瞳 とも書いた。

今も光度は落ちたものの熔融金属特有の朱赤色の光を出す星であるから、その昔は蹈鞴の別名なる牡牛座の主星アルデバランと、その東なるオリオンの間に炯炯爛爛たる光芒を下界に照らしていたものと推察される。

‘とろく’とは日向臼杵土呂久のごとく辰砂水銀の鉱床が存在する地名である。水銀は金銀を溶かし、ついで坩堝に移して三五六・七二度に沸騰されると純粋の金銀を蒸留することができる。

蹈鞴の遺跡はすでに縄文の貝塚の中から発見され、その年代は肥前彼杵滑石の三九一五年前、筑前宗像上八の三七七九年前、豊前国東富久の二六四五年前などが列挙されるから、アルデバランを中にして、南西のプレアデス星団に対する対称点の位置にヒアデス星団が輝いていた時代を考証することができる。

‘とろく’には猛毒の砒素の鉱脈が存在する。人間の骨髄も皮膚も、あたかも水銀に会った銅鉄のごとくとろけて腐爛するからこの名が出たのであるが、氷河時代の人類の祖先を脅威した野牛を刺殺した毒矢の形をヒアデス星団の鋭く尖ったV字型に当てたのかもしれない。

漢名で觜と言う、大きな角のある鹿であった。現在のオロッコ民族が極東でラップ民族が北欧で飼育している馴鹿の原種であったかもしれない。

希名でウラフア、羅名でケルト、胡名でセラと言う。聖書に出てくる大きな耳の猪のことである。現在の欧州のどの民族も飼育している豚の原種であった。

かつて凍土の広原を風のごとく疾駆していた野性の動物であった、虎や獅子や狼の爪牙の気配を気遣いながらも〝生めよ殖やせよ地に満てよ″なる天帝の言葉のごとく群衆をなして繁殖したのであった。倭名に猪鹿の名があった。

ヒアデス星団の数は六つとも云い、又七つとも数えられている。天空の中で最も運動の速い星座として遠い昔から祖先の目を集めていたのであった。

蹈鞴の名人、賀茂の氏族の故郷を、筑紫で猪無、東国で秩父と言う。動きの速きことを猪や鹿に例えたのであって、和珥津の船出は戦捷凱旋の早きことをこいねがって、これが夜半に天頂を通過した時期をもって解纜している。(略)


いかがでしたか?面白そうなのに理解不能なんです (´・ω・`)



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by lunabura | 2015-05-18 21:02 | <星の和名・天文> | Comments(4)

金星の和名(1)


金星の和名(1)


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http://www.nationalgeographic.co.jp/より)
金星を中国語で「太白」と言うのはよく知られています。
それに対して日本語では「宵の明星」「明けの明星」などが思い出されます。
金星は太陽に近いために、日の出前か日没後すぐに見られる特徴から付いた名です。

今回も眞鍋大覺の『儺の国の星・拾遺』を紐解いて、
古代の日本での金星を見て行きましょう。

端白星・羽白星(はじろほし)
羽白星は金星の古名だった。その「羽白」を名に持つ羽白熊鷲について日本書紀はこう語る。
  その人となり、強く、健し(こわし)。
  また身に翼ありて、よく飛びて高く翔ける。
髪に鷹の羽を挿すのは胡人の飾り方だった。胡人の部落を「ふれ」と称した。中国の呉越の地に多い「埠(ふ)」がこれである。
羽白熊鷲の姓は「金星」でした。
彼らには鷹の羽の髪飾りをする習慣があるのを、
日本書紀では「翼を付けて空を飛ぶ」というように神話的に超人化したと思われます。

熊鷲の本拠地は「のとりたのふれ」ですが、
その「ふれ」には「渡来人のムラ」というニュアンスがあるという事です。
胡人という言葉は眞鍋氏の本によく出てくるのですが、
特定の地域を指しているのか、漠然としたものかはまだ掴めていません。

辞書で「胡」を引くと、漢民族が西部や北部あたりに住む民族を呼ぶ名で、
シルクロードの西部から北部あたりがイメージされます。

シルクロードと羽根飾りと言えば「楼蘭の美女」のミイラを思い出すのですが。
彼女はまつ毛まで残っているのですが、
金髪に帽子を被り羽根を挿していたことで知られています。

ミイラと復元写真
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/31588833.html
このように「楼蘭の美女」は羽根飾りを三本、帽子に挿していましたが、
羽白熊鷲は自分の髪にどのように挿していたのでしょうか。

をしろぼし
「太白」を倭人は「をしろぼし」と読んだ。景行天皇の名は「大帯日子オシロワケの天皇」なので、(金星の名が入っている)、この頃、筑紫は呉越の民族が大いにその勢力を競っていたものとみえる。

肥前風土記 藤津郡能美の郷の条に
  この里に土蜘蛛三人ありき。兄の名は大白(あしろ)、
  次の名は中白(なかしろ)弟の名は少白(をしろ)なり。
とある。氏姓は熊子(ゆうし)で、熔鉄の業に卓抜した技能を継承する家系だった。遠く神代の昔からその名が出る土蜘蛛や熊襲はその子孫とみることが出来る。

「オシロ」が金星だと言う事は
「太白」をそのまま「おゝしろ」→「おしろ」と読んだということですね。

羽白熊鷲と神功皇后の戦いのもとをたどっていくと、
景行天皇の九州制圧が出て来ます。
その景行天皇の名前「オシロワケ」に金星の名が入っている事は、
羽白熊鷲と同様に金星をシンボルとしている人だという事です。
敵対するクニの人同士に金星の名がついていたというのは何か暗号めいています。

肥前風土記に出てくる土蜘蛛たちにも「しろ」という金星の暗号が付いています。
「土蜘蛛」というのは手足が長い渡来人たちを蜘蛛のイメージで呼んだもので、
熊襲と同様、山に分け入って製銅や製鉄を行う人たちの総称です。

福岡市の「和白」は「わじろ」と読みますが、やはり製鉄をしていました。

私は「はじろ」も「わじろ」も、もともと金星を信奉する同じ部族で、
倭国に入植してそれぞれに鉄製品を作っていて、
神武天皇以来、武器生産を支えていたのだろうと思うようになりました。

時代が経っても福岡市和白の「わじろ」の部族は仲哀天皇に朝貢を怠らず、
秋月の「はじろ」の部族は反抗し始めたのではないかと考えています。

福岡市の「わじろ」は朝鮮半島への門に当たるので
新たな文化が常に流入して時代の流れに乗ったけれど、
秋月の山の中で生産していた「はじろ」の方は変化に取り残されたのではないか。
そして要求される朝貢品を作るのに疲弊していったのではないかと考えています。
この時代はもちろん天皇制など存在せず、小国群を形成していた時代です。

鉄を「造る人」と「使う人」に分離して行って、
その理不尽さに羽白熊鷲は独立しようとしたのではないか。
そう思うようになりました。

羽白熊鷲の根拠地である秋月に行ってみると分かるのですが、
山の中なので米などの食料生産が出来ません。
イノシシやシカなどの狩による食糧では十分でないので、
彼らは麓で生産している米や食糧を略奪しに行き、
労働者などの確保の為に拉致を繰り返し、人々を恐怖に陥れていきます。
毎年の朝貢品の生産に明け暮れる日々が馬鹿らしくなった事は十分に考えられます。

ついに羽白熊鷲は仲哀天皇に反旗を翻して朝貢するのをやめました。
すると数年後に天皇は軍勢を従えて川向こうの小郡市までやって来ました。

その天皇を得意の矢で倒したまではよかったけど、
その后・神功皇后が大勢の軍隊を連れて本気で攻め込んでくるとは
全く想定していなかった。
そんな光景が浮かんできます。

この戦いはいったい何日、かかったのでしょうか。
日本書紀によると、
層増岐野(そそきの)の本営地である松峡(まつお)宮に着いたのは20日。
25日には田油津姫攻撃のために山門県(やまとのあがた)に到着しています。
この間わずか5日。
移動に要する時間を差し引くと実際の戦いは1~2日間という事になります。
(日にちについては地元には別の資料が出てくるので、またその時検討します。)

いとも簡単に戦いは終わりました。
羽白熊鷲を強そうに書いてあるけど、
実は彼らは工人集団であって、武人集団ではなかったのです。
                
眞鍋氏はさらに書いています。
呉越の地は天然産の磁鉄の結晶が多い事で早くから西域に知られていた。
「越」をwikiで調べると紀元前334年に秦に滅ぼされていました

越では銅の生成技術に優れており、1965年に銅剣が湖北省江陵県望山1号墓より出土したが、その銅剣は表面に硫化銅の皮膜が覆っておりさびてない状態で出土し現在も保管されている。
荘子によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたという。
wikiより
越の銅の技術は高度で、かれらが入れ墨をしていたというのは
魏志倭人伝に倭人が入れ墨をしていたというのを思い出させます。

次の写真は紀元前の中国の銅製品です。

c0222861_2218363.jpgc0222861_22185728.jpg


これは鐘ですが、左が紀元前9世紀のもの。右が紀元前3世紀のものです。

国が滅んだ時にこの技術を持った人たちはどうなったのでしょうか。
彼らの一部が技術を持って日本に逃げて来たと考えても問題ないでしょう。
吉野ヶ里の高度な銅の製造技術や祭祀線には中国の影響があると聞きました。

眞鍋氏はさらに書いています。
羽白熊鷲は、まさにその特技の産物たる刀剣で百姓を殺戮して蛮勇をふるった氏族であった。そして前述の記録は大和朝廷が韓国特産の馬鞭(まべち)、馬梳(まそう)という褐鉄鉱石の買い付けを妨害しようとしてあらゆる手段を使って狂奔した事実を物語っているのである。

100-1=99である。「九十九」を筑紫では「つくも」と読ませる。昔は土蜘蛛を尊敬して親分を太白、子分を小白と呼んだ。「つくも」とは九を重合対立させた形で「つちくも」の略だった。
倭人たちは必死で朝鮮半島の褐鉄鉱を求めていた時代背景は魏志倭人伝に書かれています。

羽白熊鷲たちのルーツを探ることは、
朝貢を当然とする天皇家のルーツを探ることにもなると思われます。
   (つづく)





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by lunabura | 2015-05-03 08:34 | <星の和名・天文> | Comments(8)

金星の和名(2)金星暦とミネルバ

金星の和名(2)
金星暦とミネルバ

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                  (http://www.nationalgeographic.co.jp/より)
今回押さえておきたい金星の特徴は?
  金星は月のように朔望(満ち欠け)がある。
  太陽暦の一年は365日。金星暦の一年は584日。
それでは眞鍋大覺氏の本の抜粋のつづきです。(改変しています。)
金星が三日月に見える日を年始めとする暦法があった。金星の周期は583.916日(約584日)で、金星暦の満1年は地球の1.59871年である。

この暦法はかつて地中海のエトルリヤ民族が完成させたと聞くが、ローマ人によって喪失した。今は中米のマヤ民族の遺跡がわずかに語るだけだ。

マヤの金星暦は有名で、2012年の12月で地球が終わるような終末論が出ていますが、
疑問に思っています。
このマヤの金星暦が紹介され始めた頃は
単に天文の知識を証明するものとして挙げられていましたが、時間が経つにつれて、
おヒレがついて、終末論に変化して行きました。

暦にはかならず年末の日があり、マヤンカレンダーにも末日があります。
末日が終われば翌日は元日です。
マヤンカレンダーも暦なので、淡々と次の周期に入るだけではないかと思うのですが。

話がそれちゃいました。もとい!

金星暦は地中海のエトルリヤ人たちが完成させたという事なので、
彼らの時代を調べると紀元前8世紀から紀元前1世紀でした。
日本なら弥生時代ですね。
(弥生時代は紀元前10世紀からと最近なってます。)
彼らは海の民だったそうです。

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写真はエトルリアの陶棺です。教科書で見ますね。
テレビでもあっていましたが、心の豊かな暮らしをしていたようです。
エトルリア人はローマ人に同化されて行きますが、
金星暦は完全に消滅した訳ではなく、人々の流れと共に東へと向かいます。

さて眞鍋氏の本では、金星の話もあちこちに散らばっています。
金星を、暦日を決めるものとして、月に準じて拝んだ民族がいた。新大陸のマヤ民族は有名だが、旧大陸ではエトルリヤ民族がそうだった。

金星を女神化したのを「ミネルバ」と言い、その美しい姿を彫刻にしたのがポンペイの「ビーナス」だ。一見して体つきがローマ人とは異なり、むしろ東洋人に近いことに注目せねばならぬ。双六の賽は彼らが観天望気を判断する最後の手段に使っていた。

ミネルバは元来は「金工の技芸の女神」だったが、やがては「染色織物の女神」ともなって、女人が腕が上がるように拝んだ。日本の西海では昔から皆形(みなかた)御名方(みなかた)と言って崇めていたから、ミネルバの倭名かもしれない。

頼山陽が「天草に泊まる」という詩の一節に
 太白船に当たり  月に似て明らかなり
とあるのは、その頃まで金星を月と同格に祀る民族が天草にいた事実を賦したものだ。
金星と言えば「ビーナス」ですが、そのもとは「ミネルバ」なんですね。
眞鍋氏の本にはこのミネルバの豊かなひだを持つ衣裳の話がよく出てきます。
夜空に輝く星たちの光のうねりと重ね合わせたのでしょうか。
左の写真はミネルバです。(wikiより)

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右は「ミロのヴィーナス」です。
(レプリカなので、顔が本物とは違います)
c0222861_1505888.jpg

もともとは「金工が祈る女神」だったのが「織物の女神」に変わりました。
日本でも西海で金星を「みなかた」と言っていたのは
「ミネルバ」が語源ではないかと考えてあります。

「みなかた」の女神と言えば「むなかた三女神」を連想したのですが、
「むなかた」の女神は「水の女神」ですから、同じなのか、違うのか、
まだ探究していかなければなりません。

頼山陽が天草地方で詠んだ詩は
「金星の光が水に反射して船に当たる様子が月のように明るい」
という美しい光景です。とても静かな水面のようすが伺えます。
ここに金星と月を祀る民族がいたことを反映していると氏は言います。

日高見星 ひだかみほし
金星を「日高見星」と名付けていた。
「日が高い時に見える星」―白昼に星光が見える事からついた名である。

日本書紀の景行紀に日高見国の名が出てくるが、今の陸奥北川(きたかみ)および蝦夷日高の地である。昔は金星暦を守った民族がいたのかも知れない。耶蘇教伝来以前の景教の伝説の多い地方である。
太白小白を木菟子(つくし)ともよび、「にとこ」とも読んだ。これが「ひたか」に転じたのかもしれない。
耶蘇教とはキリスト教。
景教とはキリスト教のネストリウス派で、異端とされていました。
景教は唐での呼び方で、大秦寺という教会が建てられています。

地名や神の名の痕跡から、日本にキリスト教が正式に伝来する以前に
東北や長崎あたりに景教と金星暦が入っている可能性を示唆しています。
(つづく)







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by lunabura | 2015-05-03 08:33 | <星の和名・天文> | Comments(4)

金星の和名(3)ゆふづづ、ゆばりほし


金星の和名(3) ゆふづづ、ゆばりほし

清少納言(964~1924)の枕草子に
 ゆふづつ ゆばりほし
とあるのが金星の事である。
この星の名前は両方とも金星を指しているんですね。
それぞれに由来があるので、一つずつ見ていきます。
(内容が少し難しいので枠の中をパスしても大丈夫です。)

1金星が夕方に出る事から付いた名
ゆふづつ 
太白(金星)を「ゆふづつ」という。一番星は「宵の明星」のことであるが、この星が夕空に最初に輝く時期は、又朝空に暁の明星の姿を見上げる時期でもある。

昔は「あさづつ」の名もあったがついに消えた。今わずかにその名残を面影をとどめているのが、未だ夜の明けやらぬ時刻を「つと」と言い、「夙」と書く例である。

星は夜の代表である。従って朔初を重くみる暦法が普及するにつれて、いつしか一番星の観念だけが固定し、平安の世に入ると、「ゆふつつ」だけが取り残されることになった。

しかし、別の見方をすれば黄昏、即ち夜の始めこそは、来たるべき翌日の昼の初めなりとする式例が日本の民族の大半に守られていたことは事実であった。
金星は夜明けに出ると「あさづつ」、日暮れに出ると「ゆふづつ」と
呼び分けていたけれど、「ゆふづつ」だけが残りました。
「ゆふづつ」の方が注目されたのは
「夜」を「一日の始まり」とするようになったからという事です。

一日の始まりはいつか?
古代には、日没を一日の始まりとする氏族と
夜明けを一日の始まりとする氏族がいました。
それぞれのルーツが違うためです。

それでは現代人は?
私たちは一日の始まりを「夜中の0時」としていますね~。

いったい何の根拠で決まったのでしょうか。
よく考えると不思議な事です。

古代には
「日の出」を見て「一日の始まりだ~」と思う氏族と
「日の入り」を見て「一日の始まりだ~」と思う氏族がいた。

そして2012年。
元旦の日の出を見て「一年の始まりだ~」と思った人は前者のタイプかな。

眞鍋氏の文章は難しいけど、繰り返し言葉にするとあでやかな光が見えて来ます。
今回は研究したい方のために出来るだけ単語を残しています。

2「ゆばりほし」は弩(ど)の形状から来たもの。
私はかつて、枕草子の「ゆばり」は「尿」だから「彗星だ」と
習った気がするんですが…記憶が薄れました。

眞鍋氏は「ゆばり」は「弓張り」からだと伝えています。
これなら清少納言も平安のお姫様に読ませられるな…。
弩星(ゆみはりほし)石見星
朔望の光環を描写した名である。又の名を石見星という。石弓を張った形に見立てたのであるが、石見(がらみ)とは熔金の品質を鑑別する名人のことであった。なお「がら」とは星の胡語でもあった。

ゆみのほし
呂昧(ゆみ)又は盧微(いび)と書いていたらしい。
いずれも爐(ろ)の火加減を調整する達人のことであった。筑紫では特に呼子(よびこ)と俗にいっていたらしい。金星が盈虚(えいきょー満ち欠け)を繰り返す姿にあわせて風雨の有無を慎重に見はからっていた姿を思い出させる。
弩(ど)は勉強したばかりでした!(サイドバー → 弩)
金星が満ち欠けするので、その形から弓張りという名が付いた訳です。
金や鉄の工人たちは金星を観察して雨風を予測し、
少しでも品質がよいものを作ろうとしました。
そしてその暮らしの中から、いろいろな言葉が生まれました。
佐賀県の呼子(よぶこ)という地名も工人の言葉だったんですね。

ところで、金星の満ち欠けを肉眼で見える人いますか?
私は視力が悪いので、想像もできない世界です。
     (つづく)



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by lunabura | 2015-05-03 08:32 | <星の和名・天文> | Comments(2)

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