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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:(ナ行)神社( 3 )

中宿八幡宮・熊鰐の館跡だったー神功皇后の船を修理・熊鰐の末裔


中宿八幡宮
なかやど
北九州市八幡東区祇園
熊鰐の館跡だったー神功皇后の船を修理
熊鰐の末裔の方に会えたよ


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中宿八幡宮は桃園球場の近くにあります。
区画整理された地域にあって、周辺の道は一方通行です。一の鳥居です。

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拝殿は華やかな朱色。

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朱と紫と緑のコントラストが美しいです。

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御祭神は仲哀天皇 応神天皇 神功皇后。父と母と子が祀られていました。

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神殿です。
まずは由緒書きを読んでみましょう。(現代語にします)
中宿八幡宮 御由緒
御祭神 本座 足中津日子命(仲哀天皇) 品陀和気命(応神天皇)息長足比売命(神功皇后)
相座 建速須佐之男命 奇名田比売命
相座 大綿積神 菅若神 ほか (略)

御鎮座由来
今を去る事1800年余の昔、第14代仲哀天皇の御后、神功皇后は筑紫の香椎の宮で崩御された天皇の代わりに、皇子(後の応神天皇)を身ごもりながら群臣の動揺を考えて天皇の崩御を隠し、男装をして三軍を率いて九州騒乱の源、新羅征伐に出征された。
この間北九州を中心に動かれて苦節の末、三韓を従えられました。

その時、神告があって「三韓を従えたが、行き先に謀反の者がいる。厚く慎み給え。」と告げられました。そこで当宮の地に中宿りされて豊山の宮を造らせ、皇后みずから中宿(なかやどり)で忌み慎んで斎籠されて豊山の宮ともどもに皇祖の神の教えのままに天神地祇を祀られた。

事無く皇后は大和に御帰還ののち、この中宿の地の祭祀を行われた祭場に、村人らが祠を建立し、産土神(うじがみ)として奉斎し、何度も社を増改築、特に大内氏、麻生氏、近世では黒田氏の崇敬厚く今日に至り、現社殿は昭和36年に御改築した。
仲哀天皇の崩御を隠して、亡骸を豊浦宮の殯葬地に隠しても、
香坂王(かごさかおう)たちに知られるのは時間の問題でした。
香坂王の立場からは神功皇后はどのように見えたでしょうか。

新羅攻撃に戦わずして勝利し、百済や高句麗まで従えた勝利の女神として
神功皇后の人気は絶大なものになり、その皇子の方を天皇にという声は日々高まり、
それは香坂王の所まで届いた事でしょう。
皇太子であったはずの香坂王は身を守るためには戦うしかありませんでした。

それを伝えたのが神託。
そして神託どおりに香坂王と忍熊王は謀叛を起こしたのでした。
(正しくは皇后方の方が謀反のはずだけど…。)
こうして決戦をすべく、皇后軍は再び船路での戦いに挑む事になりました。
神功皇后はこの中宿宮に忌宮を造って天神地祇に祈りました。

あらたな戦いに備えて問題になったのは御座船の帆柱が折れていた事でした。
その事情をリーフレットから一部抜粋。
九州入りした神功皇后は御神託ありて航海の後の御船の帆柱を取替え、この地に忌宮を造営し天神地祇を祀られ御滞在された。この時、御先導お世話申し上げたのが、この地の県主熊鰐なり(後、花尾城主麻生氏より波多野姓を賜る)

『南に帆柱山を仰ぎ北に洞の海を望む海陸便の良い処、此の地に今し中宿りせむ』としてお休みされた場所が現在の中宿八幡宮である。
その神功皇后の船の修理を請け負ったのが熊鰐でした。
その修理の場所がここだそうです。
そして熊鰐の末裔が神職としてこの宮を守り続けていたのです。

私が訪れた日、祭事を終えられた宮司さんに詳しい話を聞く事が出来ました。
記憶を辿って大まかな内容を紹介します。

「こちらの由緒について伺いたいのですが。」
「ここは熊鰐の館で陣屋ですよ。ここで神功皇后は精進潔斎されて籠られたのです。」

「ここが熊鰐の館なんですか?神功皇后がここで祈ったんですか?」
「はい。私は崗の県主熊鰐の27代目です。麻生氏により波多野姓になりました。
ここは軍船の修理が行われた所で、神功皇后の船の帆柱が折れたので、
あの帆柱山から木材を採って来て、ここで修理をしました。

また大倉・勝山の竹竿を切り出したのです。昔は3号線は海で、若松区は島でした。神功皇后は皇后崎で上陸されたのです。ここで船団も造ったのです。」
そう言われて改めて宮司さんの御顔を見ると、
穏やかな笑顔は私の熊鰐さんのイメージそのものでした。
(熊鰐さんに会えた!)
思いがけず、探していた熊鰐の館に辿り着いていました。

実は「熊鰐の館あと」は他に、遠賀川河口の岡湊神社の対岸にもあるのです。
(そこも山鹿小学校にお世話になって見つける事が出来ました。別館だと思っています。)

熊鰐の二つの館。
加えて伝承の数々をプロットしていくと、熊一族は洞海湾の湾岸エリアを領有していて、
その中心地がこの中宿八幡宮だという事が見えて来ます。

熊鰐の一族は皇祖の祭祀と造船と兵士たちを担う海人族です。
熊の一族―これは熊野族というものではないか。
その考えは八幡の熊野神社で芽生えていたのですが、もっと検証が欲しい所です。

場所的には前回の竹内宿禰の陣営の旗頭神社とは近距離です。
旗頭の陣営で彼らが守ったのは鉄の生産地だろうと考えたのですが、
物部氏を筆頭に生産される鉄器の中の大工道具を駆使して
この熊鰐の館では造船が行われたと考えています。

鉄を供給するのは物部氏の中でも、大倉主を祀る高倉神社の嶋戸物部氏とか
企救(きく)郡の企救物部氏あたりではないかとおもいます。

この宮のあちこちからノミや槌の音や働く声が聞こえてきそうです。

この宮の南にある皿倉山や帆柱山には神功皇后の登山の伝承もあり、
帆柱山という山名も神功皇后の船の帆柱の供給地という事から付いた名前でした。
それは拝殿の後ろに聳えています。

さて、境内にはさらに神宮皇后のゆかりの、こんな祠が。

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胎石神社(たいせき)(はらみいし)
神功皇后がこの地に着いたとき、奇石を見て、「私が皇子をはらんだ時の腹に似ている」と言って崇(あが)められた。その後、萬治1年社殿を建立。以後村里の女房、産前に詣で安産を祈る。また奇病まで治されるとあれば今なお難病平癒を祈る人多し。御神体に触れればなお良いという。 (現代語に)


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ということで、ちゃんと手を入れられるようになっていました。とりあえず、ナデナデ。

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ほかにも摂社がいろいろとありましたが、それは皆さまの参拝のお楽しみに。

さてさて、この熊鰐は皇子の為に素敵なプレゼントを用意していました。
感激した神功皇后は豊山八幡神社で…。
私たちも次回はそこに行ってみましょう。



地図 中宿八幡宮



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by lunabura | 2012-04-01 20:40 | (ナ行)神社 | Comments(2)

曩祖八幡宮・連合軍はここで別れの酒宴を開いた


曩祖八幡宮
のうそはちまんぐう
福岡県飯塚市宮町2-3
連合軍はここで別れの酒宴を開いた


福岡県神社誌を見ていると、
神功皇后皇子を連れて大分宮から更に東の山々を越えて、
再び下関の豊浦宮へ向かう足取りが見えて来ました。
豊浦宮には仲哀天皇の亡骸が待っています。

今回は飯塚から行橋の間の4社の皇后の足跡を辿って行きます。

曩祖八幡宮能祖八幡宮とも書きます。
飯塚市の中心部なので付近地図を印刷し、ナビには電話番号も入れて準備万端。
ところが付近に着いてから入り口が分かりませんでした。
ついに美容院や駐車場に尋ねて、
ようやくローソンの傍の路地から入る事が分かりました。
皆さんニコニコと笑顔で、道路にまで出て教えて下さって
ありがとうございました。

入り口が分からなかったのは鳥居が無かったからでした。
その入り口は車で入るための脇の路地だったのです。
正面からだと大きな鳥居がありましたが石段の為に車は入れません。
神社のHPに入り口が詳しく載っています。
参拝する方は参考にしてください。

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歩いての参道は古くから信仰を集めたような風情で狛犬などが密集し、
さらに大きな楼門が迎えてくれます。
楼門の表には左右に将軍像があり、内では狛犬が守護していました。

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右側の獅子は彩色も見事に残っていました。
黒に赤の配色が粋で、筋肉の質感やタテガミや尾の燃え立つような造形は
座っているのに天を翔ける能力があるのをよく表現しています。
見れば見るほど素晴らしいですね。

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拝殿です。まるで江戸時代に入り込んだみたいです。

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境内は広く、巨大な石燈籠に巨大な楠。
この裏の足元に

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「曩祖の杜趾」と書かれた石碑がありました。
ここが神社の始まりの場所でしょうか。
神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられています。このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるといわれております。

と神社のHPに説明があります。
ここは周囲より少し高度がある丘です。
大分宮で軍勢の解散をしたのですが、別れ難かったのでしょうか、
ここまで共に来て、皇后が天神地祇を祀ったあと酒宴を開いています。

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この曩祖の杜趾のすぐ前に稲荷神社がありました。
急な石段がありますよ!ここで製鉄してたかも。
となると、大きな氏族の居住地だったと思われます。

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石段を上ると、これまた赤と黒の色が珍しい稲荷社です。
楼門の獅子と同じ配色です。

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裏参道の眺めです。ここに来ると、さあっと風が吹き渡りました。
ここは丘の頂上部で、周囲から風が集まって来ます。
広さと言い、高さといい、那珂川町の風早神社とそっくりです。
やはり製鉄や鍛冶などをしていた所だな…。

さて、この曩祖八幡宮の由緒について、福岡県神社誌に詳しく書かれています。
漢文なのですが、頑張って現代語訳してみます。
神功皇后が征韓から戻って、粕屋郡の蚊田郷で皇太子の誉田別命(ほむだわけ)を産んだ。後の応神天皇である。産(うみ)から、その地を宇彌(うみ)と呼ぶ。

翌年、皇后は皇太子を抱えて穂波郡に遷り、行宮を営んで住んだ。そこで筑紫のまつりごとを行った。従軍の士を呼んで、大いに戦利品を分けて褒賞を与えた。そこでその地を「大分」(だいぶ)と言うようになった。

皇后はついに東に遷都しようとして、将士たちを召して自分の国に戻るように伝えた。将士たちは曩祖の林で酒宴を催した。皇后は祭壇を築いて、遠祖と天神地祇を祀った。故にその林を「曩祖の社」と言い、祭壇を「壇上」と言う。「遠祖、曩祖」というのは「祖先」という意味である。また「曩と納」は発音が同じなので、後世「納祖」と書くようになった。

皇后は別れに臨んで歌を詠んで「いづれの日にか逢おう。」と言った。「いづれ」がこの村の名前になった。「飯塚」(いいづか)となったのは発音が近いからである。

見ると川が流れていて、船の帆が風をはらんでいた。
「帆と波が競っているようだ。」
と皇后が言ったことから、地名を「帆波」というようになった。今「穂波」と書くのはここから来ている。

のちに応神天皇が昇天した後、なおもこの森が懐かしく、神霊が降りられたが、留まる所がなかったので、能祖郷の人たちが林の中に祠を建てて奉祭したことから、能祖八幡宮と呼ぶようになった。

みんなが別れを惜しんで最後の酒宴をした現場がここなのですね。
なんとなくしんみりとした、いい話です。
神功皇后が筑紫に来て2年が過ぎました。
初めて遠賀川流域に天皇とともにやって来た皇后が
天皇を亡くしながらも軍勢をまとめて、全ての戦いに勝利しました。
物部氏を中心とする軍勢はこれで敵がいなくなったのです。
これからの平和を約束された、喜びの宴でした。

曩祖八幡宮HP
http://nouso.or.jp/


地図 曩祖八幡宮、大分宮







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by lunabura | 2011-08-17 14:46 | (ナ行)神社 | Comments(0)

波折神社・瀬織津姫と鷺大明神と神功皇后


波折神社
なみおりじんじゃ
福岡県福津市津屋崎町
瀬織津姫と鷺大明神と神功皇后


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さあ、梅雨の晴れ間を縫って福津市へ。
渡半島の手前にある波折神社に行きました。
津屋崎千軒と呼ばれる、古くからの街並みが今なお生きている一角に
波折神社はありました。

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神社のすぐ手前には保育園があって、子供たちの歓声が聞こえて来ます。
3.11を体験した後は、子供とはまさに天からの使いだとしみじみと思います。

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波折神社は漁師町らしい活気に満ちていました。

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命も漁もすべて神に守られているからこそ、という信仰の原点が漲っています。
由緒書きがありました。現代語に変えて書きます。
波折神社縁起
祭神 瀬織津大神、住吉大神、志賀大神の三座。
縁起によれば、神功皇后が新羅を遠征されて凱旋なさった時に、この三神がこの浦の渡村の鼓島に現れた事から、皇后はこの浦の岡分河原崎の宮之本という地字に神垣を造って斎祀された。

おお、この宮は神功皇后が凱旋して戻ってきた時に、三神が鼓島に現れたので、
宮之本という所に神籬を作って祭祀したのですね。
またもや神功皇后です。

実は皇后の帰着地については伝承が何か所かあります。
今回はこの波折宮も候補地の一つとして見て置きたいと思います。

瀬織津姫(せおりつひめ)
さて、主祭神の瀬織津姫はこの逍遥では初めてですね。
記紀には出て来ませんが、大祓いの祝詞に出て来る姫神です。
該当する部分を、ものすご~く簡略に訳してみます。

天つ神は天の岩戸を開いて祓い清め、国つ神は高い山から低い山まで祓い清め、風の神があまねく吹き渡って、残っている罪穢れはないかと祓い清め、早川の瀬にいる瀬織津姫がそれを大海原に持ち出して、大海原にいるハヤアキツ姫が呑み込んでくれる。

それを息吹き戸主の神が根の国底国に吹き飛ばして、根の国底国にいますハヤサスラヒ姫という神が背負ってさすらって無くしてしまう。

こうして罪という罪がないように祓い清めて下さいと、天つ神、国つ神、八百万の神々に申し上げる。

人々が「祓い給え清め給え」と祈れば、
八百万の神々がこうして天地を翔け巡って罪穢れを払って、
それを川のほとりの瀬織津姫が海に流してくれると言う訳です。

神社で「払い給え。清め給え。」とお祈りした時の罪穢れは
こうして消えていくんですね。
八百万の神々様、わたくし、ずいぶんとお世話になってます。(ぺこり)

瀬織津姫を主祭神とするこの宮も、
そう言えば、もうすぐ大海原という境目にあります。

鼓島ってどこにあるのか、調べると、渡半島の端っこでした。
地図 鼓島 織幡神社 



この三柱の神々はある時、漁師たちを守ってくれました。
縁起の続きを読んでみましょう。
昔、この浦の漁夫三人が沖に出て釣りをしていたが、大風荒波に遭い、雷鳴さえ加わり、海が大いに振動したために、漁夫たちがこの三神に救いを祈ったとたんに、お姿を現され、隆起する波穂の上に立って、雲のような波がしらを、袖を振って打ち払うと、逆巻く荒波は見る間に治まって遥か沖合に過ぎ去り、すぐに海上は静かになった。

三人の船は荒波を折って、かろうじて鼓島に漂着した。三日間風待ちをして飢えてしまうと、再び三神が現れて飲食を与えた。これを食べると人ここちがついて、力の限り波濤をしのいでこの浦に漕ぎ着いた。

はじめ三神が船の上に現れた跡に三つの石があったので、持ち帰って御神体として祭った。これより波折大神と呼んだ。
こうしていにしえ、かの河原崎の宮之本に祭られていたが、時が移って84代順徳天皇の承久3年にここにお移しした。

奇蹟が起こったのですね!

境内を廻ると
海から持ち込まれた珍しい石や貝などがいろいろと奉納されていました。

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珍しい猿の彫像がありました。猿は製鉄精銅の民が祀る神だと
読んだ事があるのですが…。

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これは蛭子(えびす)大明神と彫られています。
御神体は卵型の海の石です。

鷺大明神
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これは「佐磯社」の祠の中の御神体です。
由緒書きに「鷺大明神」とあるのが該当するようです。

「鷺大明神」についてにわか勉強してみると、
スサノオの一人が、その人でした。
疱瘡に掛かってしまって、愛を断念した事から、
「自分に祈る人には疱瘡を防ごう」と誓ったという話がありました。
同じ苦しみを誰もしないようにと誓願されるとは、
なかなか出来ないことです。
そういえば、この祠の女神は寂しげな顔をして、男神に背を向けています。
そんな訳があったのですね。

疱瘡(天然痘)は渡来船とともに日本に入って来て、
多くの人々の命を奪いました。
鴻盧館ではツインの館を作って、渡来人を一つの館にしばらく留めたのも、
こうした病気を持ち込ませないための工夫でした。

波折と言う名前からは思いもしなかった女神たちが祀られているのを知りました。
来てよかった…。





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by lunabura | 2011-07-10 23:34 | (ナ行)神社 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25