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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:(ヤ・ラ・ワ行)神社( 10 )

八女津媛神社と「せーふぁーうたき」



八女津媛神社と「せーふぁーうたき」

昨日、収録語にお茶を飲んでいて、バスハイクで八女津媛神社に行く話をしました。
すると、久高島とそっくりなものを見て驚いたという話が出て来たのです。

磐座からしたたり落ちる水が共通するというのです。





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八女津媛神社は「神の窟」の上から水がしたたり落ちています。











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「媛しずく」といって美人になる水とも言われていますが、祭の時はこの水を祀っているそうです。

久高島の「せーふぁーうたき」は二つの巨岩によって造られる三角形の空間がよく知られていますが、そこからも同様に水がしたたり落ちて、下は鍾乳石のようになっているそうです。「しずく」の話は初耳でした。

山岳の中にある八女津媛神社と、島にある「せーふぁーうたき」に共通する「磐としずく」。

不思議な共通点ですが、久高島の話を聞くと、「媛しずく」の原初の意味はもっと違ったものだったのではないか、と考えるようになりました。

ちなみに、景行天皇に八女津媛の話をしたのは猿大海ですが、この人は水沼族です。
その屋敷が久留米の赤司八幡神社にあったと宮司さんから聞きました。

水沼は月の変若水を扱う巫女ですから、ちょっと関連があるかもしれませんね。

水沼と変若水は『神功皇后伝承を歩く』下巻の大善寺玉垂宮の所に書いています。

ラジオの方も久留米の話になるので、水沼の三女神の話が少しずつ出てきます。

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by lunabura | 2019-01-19 22:20 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(0)

八女津媛(やめつひめ) 『日本書紀』



八女津媛(やめつひめ) 

『日本書紀』


今日は八女津媛を読みましょう。

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景行天皇は熊本の阿蘇から筑後の三池に着くと
高田行宮(あんぐう)に滞在しました。

それから7月7日に八女に入りました。

この時、藤山を越えて南の粟岬の方を見て、
「山の稜線が重なってなんと美しいのだ。神の山なのか」
と言われました。 

 この時、道案内をしていた水沼県主の猿大海(さるおおみ)が、
「女神(ひめがみ)がいらっしゃいます。
名前を八女津媛と言います。いつも山の中にいらっしゃるのです」

と申し上げました。
八女(やめ)国という名はここから付きました。


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福岡をさまよううちに、
景行天皇にも何度も出会いましたね。

景行天皇はヤマトタケルの父ですが、
今日の一文は阿蘇から筑後に出て来た時の話です。

この時、道案内をしたのが猿大海ですが、
赤司八幡神社で、
「猿大海の屋敷はここにありましたよ」
と聞いた時、
「え?え!」と絶句しました。
まさか、そんな話に出会えようとは。

猿大海は八女津媛のことを良く知っていたのですね。
景行天皇も遠くから眺めるだけだったのでしょう。

景行天皇は三女神信仰が篤く、この赤司八幡神社や
福成神社、日王山などで祀っています。


話は戻りますが、
阿蘇から有明海を通って筑後平野に出る時、
高田行宮まで水先案内をしたのが宇津羅姫でした。

宇津羅姫は「七支刀を持つ神像」のあるみやま市
瀬高の女王でしたよ。

だから、物部氏も女王国だったのですね。

「高田行宮」がまだ見つかっていないのですが、
地元の人は御存じのようです。

こうしてみると、水沼族と物部氏 VS 土蜘蛛 葛築目
女王国同士の対立が見えてきますね。

何度も繰り返して少しずつ見えてくる古代社会。
筑後地方は女王国がいくつもあったことになります。


さて、「宗像三女神」など、
今日の締め切りの提出が終わりました。

ライオン広場の時間が7日(土)と8日(日)では
時間帯が違っています。
応援に来てくださる方、確認してください。

二日の内容は同じですが、多分雰囲気は変わるんだろうな。

というのも、パワーポイント無し、資料無しで
古代史を話すことは、私には経験が無く、
とても出来ないので、
アナウンサーさんとの対話形式をお願いしたからです。
これなら、楽しくやれそうです。
アナウンサー(MC)の方も二度目なら
質問内容が変わってくるでしょうからね。


それでも、三女神の特色である、道主貴とか、磐座とか、
漢字が難しいのに、知らない方に話すのは難しいなと
悩んでいたら、
昨夜のアイデアは、「ブログにレジメを出せばよい」
ということでした。
なるほど!
そうすればスマホを見ながら聞いてもらえばいい。

そう閃くと、その後は眠れませんでした(^^;

そして、今日は第3のマスメディアからの締め切りが突然来ました。
その締め切りが明後日(;’∀’)


ということで、コメントのお返事がまだ書けません。
何故なら、いただいたコメントはリンク先や記事を読んで、
きちんとお返事したいからです。
少しお待ちくださいね。
知人に知らせたいという方、どうぞ、どうぞ。




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by lunabura | 2017-10-02 20:39 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(0)

淀姫神社 伊万里市「末羅県鎮守の霊場」



淀姫神社 

「末羅県鎮守の霊場」
豊玉姫を祀る宮
 
伊万里市大川町

伊万里(いまり)市から武雄(たけお)市に抜ける途中、
山中で通行止めに遭った話を前回したが、迂回する途中で、淀姫神社の前に出た。







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「こんな所に大きな淀姫神社がある」
「お参りしなさいということだね」
ということで参拝した。

佐賀には淀姫神社が多い。
既に何社か記事にしているが、すべてが川の合流点にあった。
川の氾濫を鎮める女神だと総合的に考えている。








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こちらは神社の前の風景。盆地のようにもみえる。
地図を見ると、松浦川に支流が流れ込む小平野のようだ。

この小平野も何千年もかけて激しい雨に流された土砂で形成されたのだろう。

ここは佐賀県伊万里市大川町大川野。








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いかにも古社らしい風情がある。









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参集殿だろうか、
まるで武道館のようにも見える建物に心が引かれた。

お武家が少年剣士たちに武道を教えていそうな、
映画の舞台になりそうな雰囲気のある建物だ。





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御祭神:與止日女命・建御名方神・菅原道真公








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神殿が白色で珍しい上に、女神の華やかさがある。
右手には龍と波が描かれていた。與止姫そのものだ。




幸いにHPがあったので、由緒の一部を引用しよう。
 

【由緒】
大川野盆地中央の伏熊山に鎮座する当社は 第29代欽明天皇の御代24年(563年)に御鎮座されたと伝えられています。

古代、『魏志倭人伝』に登場する末廬国(まつらこく)が唐津地方に栄えた頃であり、古くは「末羅県鎮守の霊場」とうたわれました。

かつては「河上大明神」と称されており、松浦川の鎮守の神でありました。現在も鳥居の扁額は「河上社」と掲げられています。

 與止日女命(ヨドヒメノミコト)を主祭神とし、後代に建御名方神(タケミナカタノカミ)、菅原道真公を合祀しています。

この建御名方神は、古くは長野原の古鳥居(現 肥前長野駅の北側)にあった「諏訪大明神」の御祭神で、今から千年以上前に合祀されたと伝えられています。



前回は武雄の磐井八幡宮を紹介したが、
欽明天皇は磐井の次の時代の天皇だ。6世紀の鎮座だという。

ここは末盧国のエリアでもあるらしい。






【與止日女命 (よどひめのみこと)】

与止日女命はまたの名を豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)といい、海神・大綿津見神(オオワタツミノカミ)の娘にあたります。

 記紀神話では海神・大綿津見神と豊玉姫命は、海神宮(わたつみのみや)にやってきた火遠理命(ホオリノミコト)=山幸彦に、潮の満ち引きを自在に操る「潮満玉(しおみつたま)・潮干玉(しおひるたま)」を与えます。

陸に戻った山幸彦は、低い土地や高い土地に田んぼを作りますが、水をつかさどる玉を持っているので、いつも豊作となります。

豊玉姫命が五穀豊穣の神様として祀られる由縁です。古来、大川「松浦川」の氾濫に苦しんだ人々が、潮満玉・潮干玉を以って水を自在につかさどりたいという願いが垣間見えるようです。

 また、豊玉姫命は、山幸彦と結婚し身ごもりますが、天の御子を海の中で産むわけにはいかないと、陸に上がり浜辺に茅(かや)の代わりに鵜の羽で産屋を作ります。

しかし途中で産気づき、鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を「鵜の羽も葺き終わらないうちに」あっさりと出産されます。このことから、縁結び・安産の神様としても信仰されています。


やはり、松浦川の氾濫を鎮める神として淀姫を祀ったようだ。
與止姫を豊玉姫とする例は時々見られる。
本来、與止姫は豊玉姫とは別神で、
夜渡(よど)七十の津波を鎮める神だと考えている。

夜渡七十とは七十年に一回、有明海から津波が遡上する現象をさす。
夜渡祭があるところは、津波の喫水線に当たることを
数年前に調べた。

真鍋は七十年というサイクルは、この夜渡七十に限らず、
災害のサイクルだということを言い伝えている。
今がその時なのだろうか。

さて、
豊玉姫は玉依姫とともに、潮満珠、潮干珠と考えられている。
豊玉姫は潮満珠なので、津波の寄せ波の象徴でもあり、
與止姫と同じといえば同じ現象なのだ。

「トヨ」と「ヨド」が混同されるようになったのだろう。




参照 河上大明神 淀姫神社 HP
http://www2.ihn.jp/~t-nk.410/index.html

鎮座:佐賀県伊万里市大川町大川野






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by lunabura | 2017-08-13 22:19 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(4)

淀姫神社・豊姫はここで亡くなった


淀姫神社

佐賀県武雄市朝日町
豊姫はここで亡くなった


竹内宿禰を一カ月近く追って来たのですが、その途中、
配偶神の豊姫の死地に立つとは想像もしていませんでした。


私の中では、これまで、ずっと謎めいていた姫神だけど、
ここ武雄では豊姫の軌跡が濃厚に残っていました。

昨日、お話会を終えてなお、心に残り続けるのがこの姫神だったのです。

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ここは広い平野、石段は無く、石の橋を渡っていきます。



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御祭神は淀姫命 ほか 六柱。

淀姫神社ですから、祭神が「淀姫」なのは当然なのですが、
境内の由緒書には思いがけないことが書いてありました。
「淀姫」とは「豊姫」のことで「神功皇后の妹」の事なのです。

淀姫神社の祭神は神功皇后の妹の淀姫命で、またの名を豊姫ともいい、朝日村の村社であった。
神社の創建のいわれは、神功皇后の朝鮮出兵の時、妹の淀姫が後をしたって武雄温泉に来られ、丸山の風景をながめ、長旅の疲れを慰められたという。
 皇后の旅立たれた後、淀姫は二十二歳の若さでここ川上の地で亡くなり、御霊を祀るため建てられたと伝えられている。

淀姫すなわち豊姫は姉を慕って武雄温泉に来て、のちここで亡くなったというのです。

わずか22歳。

年齢まで伝わっていたんですね。

姉の息長帯姫が皇后となった時、豊姫は13歳頃でしょうか。
姉は15歳ぐらいでしょうか。

これは『日本書紀』とは合わない想定ですが、
実は私はずっとこの年齢ぐらいではないかと思い続けていました。
昔の女子の適齢期は中学生ぐらいの年齢なんですね。

息長帯姫(神功皇后)が8年近く懐妊しなかったのは、
まだ幼い時に嫁いだからではないかという思いもありました。

昔は、年に二回年を取ったので、記事通りに三十代で嫁ぐことはなかっただろうとも。

古代は姉妹で嫁ぐ例も多いので、息長帯姫と豊姫は共に嫁ぎ、
のちに、豊姫は竹内宿禰に下されたのだろう、なんて想像もしてました。

この縁起には竹内宿禰の姿が見えませんが、武雄温泉にはその姿が見えています。

神功皇后三韓より凱旋の時、筑前にて御病臥、神諭あり「三日路の処に温泉あり入浴すべし」と、直ちに大臣武内宿禰を従え、御臨幸ありしと。
(佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告上巻)

神功皇后が筑前で病臥したというなら、産後の肥立ちが悪かったのでしょうか。
病気を押して武雄まで湯治に来ています。

るな的想像では、この時、豊姫も一緒だったのではないかと。
ところが豊姫も病に伏してしまい、竹内宿禰は豊姫に心を残しながらも、
皇后を守護し続けて、筑前へと旅立ったのではないかと。

そして、豊姫は一人で黄泉の国に旅だった。
「武雄市史」には、お付きの者が一人いたことが書かれています。





豊姫は志式神社や高良玉垂宮の縁起に、
海神から干珠満珠を貰った人として登場していました。


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私は、豊姫が竹内宿禰の妻だったということを聞いても
イメージが湧きませんでした。

しかし、古代の人はみんな知っていたのでしょうね。

私はここに来て初めてそれを得心しました。





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ここは「がばいばあちゃん」のロケ地。



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水がとても豊かな所でした。



佐賀県武雄市朝日町中野10247






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by lunabura | 2014-09-22 21:18 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(0)

若八幡宮 神功皇后が立ち寄った


若八幡宮
宮若市沼口195
神功皇后が立ち寄った


神功皇后のガイドブックの百社を選んだ後、どうしても伝承が確認できない神社がありました。

古い本に一行書かれていたのを調べ、参拝したのですが、宮の方は不在。
何度か電話をかけでも連絡がつかないので、別の神社にまで掛けました。

そこには石碑があったと教えていただいたので、再び電話をしてみても、
どうしても連絡が取れない。
未確認のまま本には出せないので、ついに断念。
図書館に行って、想定ルート上に伝承のある宮を調べる事にしました。

そして、『宮若町誌』についに伝承を見つけたのです。
それが、今日紹介する若八幡宮です。

昔、神功皇后が異国遠征のときにこの地に立ち寄った。そのゆかりの地に、保元二年(1157)九月二十四日、村人は力を合わせて神社を建立した。


こんな素朴な社伝に心ひかれます。

ただ、そこに存在する。
これこそ、「古代が、すぐ近くに息づいている」世界ですね。

神功皇后が通過しただけの神社は省いてもいいのではないか、と言われたのですが、
私にとってはそのような神社こそ宝です。

地図を広げて現地を探すと、何度もその前を車で通過している所だと分かりました。

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山口川の向こう。
近くの目印は工場が散見されるくらい。
その川の向こうに鳥居と灯籠がありました。
まっすぐ200m。

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それらしき杜(もり)。

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落ち葉が参道を彩っています。

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古木の間を通って境内に出ると、石垣の上に拝殿が見えました。

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氏神様の宮のようです。
御祭神は応神天皇 神功皇后 武内宿禰 ほか。
八幡宮の三柱目が珍しく武内宿禰ですよ。


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一目ぼれした古木。
名前が知りたい。

仲哀天皇と神功皇后が靡山(なびきやま)を見ながらゆるやかな勾配を下って来て、この川に出て来ました。

境内は川より少し高い地点。


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境内からわずか見える山々の稜線に、とても心が解放されました。
皇后たちもきっと同じ景色を見たことでしょう。

ちょうど、この正面辺り、わずか一キロの所に竹原古墳があるのです。
あの装飾古墳。

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馬を連れていた武人。ブーツを履いていたね。

仲哀天皇と神功皇后を迎えた時代から数百年たって、そこに眠る男。

歩いて15分。(川があるけどね)
どんな古代社会があったのでしょうか。
装飾古墳というものは何にもまして、驚きと真実を与えてくれます。

船に乗ってやって来た男。
もし、この武人がずうっと船に乗って来るとしたら山口川を遡って来なければなりません。
この川は遥か遠賀川に注ぎます。
ですから、玄界灘から岡の湊を通って来たことになります。
火を噴くドラゴンは夜空の星座だと、るなは確信しているんですがね。

竹原古墳(1)福岡県宮若市竹原 この優美な装飾壁画は通年公開!
http://lunabura.exblog.jp/15619249/

竹原古墳(2)日本の古墳に火を噴くドラゴンが何故描かれている?
http://lunabura.exblog.jp/15638086/

さて、仲哀天皇の一行は川を渡って、山口八幡宮に向かいます。
その後、いよいよ厳しい見坂峠を越えて福津市へ。
時は真冬。

車で走ると、途中、三か所ほど鳥居が見えます。
見坂峠のピーク付近とそれを挟んで前後二か所。
車が多いので止められないのですが、そこで一行は休息したのではないかと考えています。


若八幡宮
宮若市沼口195



「神功皇后伝承を歩く」 上巻 22 掲載神社


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by lunabura | 2014-01-24 22:21 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(0)

山口八幡宮・神功皇后はいよいよ見坂峠を越える


山口八幡宮
福岡県宮若市山口
いよいよ見坂峠を越える
 
仲哀天皇の一行は遠賀川流域から物部の里々を通って、
那の国への峠へと向かいます。その前に休息したのは山口八幡宮でした。

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山口川にかかる橋を渡ると大きな灯籠が迎えてくれました。
この先には九州自動車道のガードがあり、そのまままっすぐ行くと
数軒家が建っていて、それが終わる所に鳥居が真横に立っています。
右側を注意して見ていないと見逃しそうです。

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周囲は山と田んぼです。

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石段を上ると巨大なクスノキや狛犬たちが迎えてくれました。

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拝殿は新築されたばかりのようです。

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神殿は昔のままの姿が残されていました。
二の鳥居の手前に由緒書きがありました。(現代語に改変)
山口八幡宮 由緒
鎮座地 福岡県 鞍手郡 …
御祭神 主祭神 応神天皇    
相殿 神功皇后 武内宿禰明治5年11月3日 村社に被定。
社説に曰く、昔、神功皇后がこの村を行幸された時、ここでお休みになった。それより見坂越え におもむかれ、遥かに海原を眺められた。

その後、延喜2年(西暦902年)9月9日。初めて小方隼人と言う人が皇后の行幸の例にならって八幡宮を建立する。今の宮所がこれである。

昭和7年9月9日鎮座1000年祭を執行する。詳細は宗像神社の末社記にある。
また筑前早艦および筑前国続風土記拾遺附録にも記述がある。年中数度の祭事がある。(略)
この宮の名前は「若八幡宮」から「八幡宮」という名に変わり、
今は「山口八幡宮」となっています。
祭神は応神天皇になっていました。
原文には延喜2年に「皇后の行幸の例に任せ八幡宮を」とあるので、
当時、神功皇后の行幸先が八幡宮に置き換えられて行った背景が伺えます。

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狛犬がいくつもありました。

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参拝を済ませた帰り道に山口川の橋から見坂峠方面を写しました。
見坂峠という地名の由来は
神功皇后がそこから初めて海を見た事から付いたと言われています。

この先は比較的緩やかな上り道になりますが、
下りは絶壁のような急坂となり、ヘアピンカーブが出て来ます。
冬はチェーン規制があるような所です。
その途中にも小さな鳥居が二か所ほどあり、休息所だったのかなと気になるのですが、
車が止められず通り過ぎるだけです。

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見坂峠からは今でも一瞬だけ海が見えます。ずっと向こうの水平線が分かりますか?
山道を歩き続けた一行は陽光きらめく海を見て
きっと嬉しかっただろうなと思われるような峠道です。

さあ、いよいよ那の国です。
香椎宮までのルート上に小山田斎宮や五所八幡宮があります。


小山田斎宮(Ⅰ)オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
      (Ⅱ)オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
      http://lunabura.exblog.jp/i3/


五所八幡宮 ムーミンの木に会いに来たよ
      http://lunabura.exblog.jp/i106/


地図 山口八幡宮






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by lunabura | 2012-02-10 21:18 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(0)

若松恵比須神社・竹内宿禰は海の底に光る石を祀った


若松恵比須神社
北九州市若松区浜町
竹内宿禰は海の底に光る石を祀った 

洞海湾の入口に若松南海岸というレトロな港の風景が残る通りがあり、
そこから区役所の裏手に向かうと若松恵比須神社があります。

神社は境内の三方向から入ることが出来て、
車は右側から入って許可を受けて境内に止める事が出来ます。
ここへ向かう目印は赤い若戸大橋です。

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「若戸」の名は「若松と畑」の文字を組み合わせたもので、
前回の戸畑から若松に行くにはこの橋を通らずにはいられず、
こうして境内に立つと、神社の境内を削って出来たのかなあ、
お世話になってるんだなあと思いました。

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これは正面のようす。橋の下から撮っています。

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これは左側にある一の鳥居です。

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かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せていたそうです。
埋め立てが進んでいますが、それでも海のそばに来た開放感があります。
砂利の色が蜜色で、海の砂のように丸いです。

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恵比須神社の名の通り、拝殿には恵比須様の絵が。
本来の名前は事代主(ことしろぬし)です。

「若松」と言う地名は竹内宿禰がかつての美しい松林を愛でた事から付いた名だそうです。
あるいは手植えしたとも言われます。
そう、竹内宿禰は仲哀天皇一行と一緒に来ているのですね。

立札があったので、由緒を読みましょう。
由緒
当社は約1650年前の創建と伝えられ、往古、仲哀天皇・神功皇后が熊襲征伐のため、筑紫の国へ行幸啓された折、洞の海へと向かう皇后の船が進まず、武将・武内宿禰が漁夫に海中を調べさせたところ、「海底に光る石」が見つかり、「是は海童(えびす)神の心なり」という天皇の仰せによって、神祠に祀ったことに由来する。

武内宿禰はその後、再び当社近くの美しい海浜を訪れ、若々しい松が連なる姿を愛でたことから、この地を「若松」と呼ぶようになったと伝えられています。
この由緒をもし3年前に読んだとしたら、あまりよく分からなかったのだろうなと思います。
今では、御馴染みの三人組という感じで、な~るほどという印象です。

前回の飛幡八幡宮で、
戸畑の北の海にあった千曳(ちえい)の岩を仲哀天皇が祀った話が出て来ましたが、
そこで天皇と皇后は別の船に乗り換えて、広い洞海湾の入口を渡ったのでしょうか。
皇后の船が進まなくなって、船を寄せると、海の底に光る石を見つけて、
それを恵比寿神(事代主神)として祀りました。それが御神体となっているそうです。
他にも伝承がいくつかありますが、海の中の石を祀ったという骨子は同じです。

このような由来から御祭神は
事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命
大山咋神、大物主神(だいこく様)
天照大神、豊受大神、素盞鳴大神
となっています。
恵比須神社に日吉神社が合祀されたそうです。

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拝殿横には「若松」の名にちなんで松が植えられていました。

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これは境内社「笠森稲荷神社」。
御祭神は宇賀魂神、イザナギ、イザナミ神、椎根津彦神、猿田彦神

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もう一つの境内社「天満神社」
御祭神は菅原道真公、応神天皇、恵比寿幸魂
ここは交通の要衝だったのでしょう。
菅原道真公の伝承もちらほらと出て来ます。

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厳しい環境の中で御神木は命をつないでいます。

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珍しい方位石がありました。
境内の一角の波打ち際に置かれていたものを移設したそうです。
江戸時代末期のものと推定されています。

さてさて日本書紀によると、不思議にもここから天皇と皇后は別行動を取ります。
仲哀天皇は外海を通り、皇后は洞の海(くきのうみ)を通ります。
これについては、女性は波の穏やかな内海を通ったのではないかという説がありますが、
別の事情が見えて来ました。
さあ、次回からその航路を辿って行きましょう。
 

地図 若松恵比須神社









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by lunabura | 2012-01-29 17:19 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(2)

矢埜竹神社・皇后軍は矢の竹を切った


矢埜竹神社(田神社)
やのたけじんじゃ
福岡県朝倉市矢野竹
皇后軍は矢の竹を切った

矢埜竹神社は喰那尾神社から900mほどしか離れていません。
喰那尾(くいなお)神社は山の頂上にありましたが、
矢埜竹(やのたけ)神社は谷に下って行く所にあります。

ケンポナシの古木があるので有名らしいのですが、どの木かな。
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ガードレールの切れ目から入って数軒で目に入るのがこの巨木。これが神社の目印です。
このまま道を進むとすぐに突き当たるので右に曲がると境内の駐車場に出ます。

正面が何処か、よく分からず、きょろきょろして鳥居を見つけて
扁額を見ると「…埜竹…」という字が辛うじて読めました。

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このように時を経た物が好みなのでついつい写真を沢山撮ってしまいます。

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参道の長さはわずか10mほど。

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石灯籠が残っています。
石灯籠ってずっと昔の時代は一つだけだったそうですね。

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参道を終えて振り返るとこのように「下がり宮」になっています。
ここが「下がり宮」だというのは地元の方に教えてもらいました。
この特殊な形に特別な宮の思いがします。

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本殿です。

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本殿正面です。御祭神を隣家に尋ねたりしましたが、分かりませんでした。

この神社は何故か、あれこれと尋ねるのがはばかられて、
踏み込む気持ちになれません。

そして本殿の裏手に廻って驚きました。石の祠が真裏にあったのです。
隠れキリシタンのように、本殿でお参りすると
この祠を参拝するようになっていました。

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これがその祠です。
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神紋を見ると2本の矢が彫られています。「並び矢」です。

後で、紹介していただいた方に電話で尋ねると、現在ここは田神社というそうです。

羽白熊鷲の伝承がないかと尋ねたのですが、それは分からないという事でした。
皇后軍が竹を切って矢竹にしたという伝承は伝わっていました。
その特殊な竹は川の方、少し登った遺跡の所に今も生えているという事です。
遺跡がある?!と思ったのですが、具体的には尋ねそびれました。

矢は消耗品です。
皇后軍の兵士たちは矢じりだけは沢山所持していて、
矢竹は現地調達だったのでしょう。
矢に使える特殊な竹をここに見つけて、必死で矢を造ったのを
村人は見ていて、今に言い伝えたのではないかと思いました。

地図 矢埜竹神社









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by lunabura | 2011-12-19 17:36 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(0)

若宮八幡宮・「三十六歌仙絵」


若宮八幡宮
福岡県宮若市水原395
岩佐又兵衛の「三十六歌仙絵」があった宮
古代の交通の要衝


宮若市は福岡~犬鳴峠~北九州の東西ラインと
宗像~見坂峠~飯塚の南北ラインの交差する所にあります。
古代からの交通の要衝です。
その交差する中央点近くに若宮八幡宮はあります。

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「若宮八幡宮」という小さな信号機からまっすぐ進むと、突き当りに神社は見えます。
如何にも古社らしい風情は遠くからでもすぐに分かりました。

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小さな池にかかる太鼓橋を渡ると、時を経た狛犬や手水舎などがあって、
次第に歴史の深い層に入っていくようです。

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神門があります。江戸時代だぁ。

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神門に掲げられた山笠の札を見ると祭りの熱気が伝わって来ます。

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拝殿の中を覗くと床几が沢山並べられていて、
祭りの神事で参拝する若衆たちの神妙な後姿が目に浮かぶようです。

参拝を済ませて、振り返ると案内板がありました。
若宮八幡宮の岩佐又兵衛筆の「三十六歌仙絵
岩佐又兵衛勝以(かつまさ)(1578~1650)は江戸時代初期に活躍した著名な画家で、浮世絵の祖といわれ、屏風絵や絵巻物などに優れた作品を残している。

この若宮八幡宮の「三十六歌仙絵」は豊頬長顎と呼ばれる又兵衛独特の人物表現がみられ、各画面に又兵衛の用いた印章が押されているところから、又兵衛真筆の作品であることがわかる。

彼は「三十六歌仙絵」を得意にしていたが、36人ともそろっている作品は仙波東照宮(埼玉)の扁額とこの作品の二組だけである。またこの作品に描かれた歌仙の組み合わせは非常にめずらしく、又兵衛の歌仙絵の中でも、代表作のひとつといえる貴重なものである。

この歌仙絵は役場の金庫に保管されていたものを改めて鑑定してみて、
作者が分かったそうです。昭和60年の事です。
新聞でもかなり大きく報道されたので印象に残っています。
その写真は拝殿の壁に展示されています。本物は福岡市美術館にあるそうです。
ここに何故この絵が来たのか、いろんな謎解きがされています。
調べるの、面白そうですね。
(でも江戸時代はパスしよう。るなは弥生人ではないかと最近思う。)

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これはいくつもあった古木の中でも群を抜いて長寿だったクスノキです。
いきいきと葉をつけていて、とても元気です。幾久しく栄えたまえ。


そうそう、肝腎の御祭神は
応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰
です。
このブログで何度もお目に掛る顔ぶれですね。

祭神に関する縁起は残っていないようですが、
ここは仲哀天皇神功皇后遠賀川流域から香椎宮に向かう時に、
通ったルート上にあります。
だから祭神の内、神功皇后と武内宿禰はここに来たに違いないと思っています。

鞍手から白山嶺を超えてようやく平地に下りて来た所にこの宮があります。
ここから先は見坂峠という難所が待っています。

鞍手郡から香椎宮にかけて神功皇后伝説のある神社を載せてみました。
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見事に古代の道が浮かんできました。
鞍手郡は物部氏の本貫地と言われていますが、
鞍手郡誌によると、弥生時代から古墳時代にかけては
ニイギタ物部が中心だそうです。地名にも「新北」が残っています。

こうして仲哀天皇の遷宮のルートを整える準備は大変だったはずです。
言いかえれば、このルートは物部氏が抑えているルートなのですね。

日本書紀によると、一行は仲哀8年1月21日に香椎宮に着いているので、
真冬の山越えです。今でも雪が降ると通行止めになるような所です。
雪解けを待たずに移動したのは何でだろう。
福岡って夏は草木が生い茂るから、夏は大変だもんね。
古代の人には雪なんて大した事でもなかったのかな。
知れば知るほど、新たな謎が出て来ます。




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by lunabura | 2011-07-12 18:14 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(2)

若八幡宮・多々良川―古代の製鉄―イラスト


若八幡宮
福岡市東区多々良
多々良川―古代の製鉄―イラスト

福岡市には多々良川という名前の大きな川が流れています。
「多々良」まさしく「蹈鞴」と同じ発音です。

今回は地元の地名と地形に詳しい聖洲さんに
古代の多々良川を案内してもらいました。

多々良川の下流の右岸から300メートルほど入ったあたり、
車が一台ようやく通るような細い路地を通ると「若八幡宮」がありました。
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石段を上っていきます。

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拝殿は小さな丘の頂上にあり、周囲を見晴らすことができます。
境内の広さは、先週紹介した風早神社とほぼ同じで、川の傍という点も似ています。
すると?―そうです。
やはりここには古代には製鉄所があり、鉄を守る神様が祀られていたそうです。

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拝殿前から参道の方を撮りました。

次は現代の多々良地区の航空写真です。こんもりとした所に若八幡宮が見えています。
(写真を一度クリックすると、自由に動かせますよ)
地図 若八幡宮 顕孝寺 香椎宮

1000年以上も前にワープすると、こんな感じ!
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聖洲さんがこの神社の周囲の古代の光景を再現してくれました。
今立っているところは中央の上の森あたりになります。
手前の川は多々良川。現在はまっすぐの堤防が作られていますが、
古代にはこうして岬になっていて、地名にもその名残が残っているそうです。
また、ビルの下からは古代のドッグの積み石が発見されています。

絵の左に黒煙を上げている大きな窯があります。製鉄の窯です。
調べても古代の製鉄窯は残っていないので、全く想像だそうです。
でも、それらしい雰囲気があります!

すぐ近くに小舟が停留していますが、砂鉄が山のように積まれています。
燃料は、ここから少し離れた八木山で天然の無煙炭が露天掘りで採れていて、
「しょうけ(籠)」に入れて運ばれていたそうです。
地の利がとてもいい所だったのですね。

「しょうけ」と言えば、八木山が難所のために神功皇后の赤ちゃんを「しょうけ」に入れて運んだために「しょうけ越え」という地名が起こったという伝説が有名ですが、
この無煙炭を運んだ話と入れ替わって伝わっているのだそうです。
そう言えば、そうですね。赤ん坊をショウケに入れて運ぶ方が難しい。

絵には遣唐使船が描かれていますが、これは遣唐使船というより、
韓半島などから直接やって来る民間の大型船だそうです。
その船が繋留されているのは顕孝寺
当然ながら大陸から韓半島までの最新情報が入ってきます。
この情報を求めて、はるばると香春岳の採銅所や宇佐(神宮)から
情報収集に集まって来ていたそうです。

次はここで採れていたスズ鉄のイラスト。

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葦の根元にバクテリアが鉄を集めて、茶色の塊が出来ているようすです。
葦は海と川の水が交わる所で育つそうで、それを刈り取って乾かして燃やし、
灰にして水に混ぜ、沈殿させて比重差を利用してスズ鉄を採ったそうです。
聖洲さんの子供頃までは葦がいっぱい生えていて、鳥も沢山いたそうです。
古代では多々良川の三つの支流で葦を刈り取ったあと、
一部に稲を蒔いていたそうです。一年ごとに稲作の場所が変わったとか。
葦と稲の輪作なんです!

これは同じ絵の全体のようす。
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ここには神功皇后の伝説も残っていました。
彼女は出産するために、この辺りから上陸したと伝わっているそうです。
左には名島神社。そして廻り込むと向こうに香椎宮が見えています。

神功皇后はこの辺りで破水しかけたという話もあるそうです。
タタラの鉄が流れ出す様子とあいまってそんな伝承が生まれたのか、
実際そうだったのかは遠い昔の事で、霧のかなたです。

それにしても、イラストのお蔭で古代社会のイメージがよくつかめました。
聖洲さん、ありがとうございました。

ここも安徳台のあった那珂川町と同様に那の国なんですよ。




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by lunabura | 2011-05-27 10:13 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Comments(12)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25