吉野ヶ里歴史公園(1)
よしのがり
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町
ここでは銅鐸を作っていたよ
先日は「よみがえる邪馬台国・吉野ヶ里と出雲王国」という
特別企画展を見て来ました。
前に書いたように、そこで弥生時代の縫い針を見つけたのはラッキーでした。
今回特に興味を持ったのは「銅鐸の鋳型」です。
何故なら、福岡の綱脇八幡宮の伝承に、
「神功皇后が金工に新たに宝剣を作らせた」というのがあるのですが、
どうして旅の途中にそんな事が出来たのだろうかという疑問が
ずっと心に引っ掛かっていたからです。
1・鋳型はどうしたのだろう。金工は持ち歩いていたのだろうか。
2・鋳型は再利用出来るのだろうか。
そんな疑問です。
吉野ヶ里にはそれに答えてくれる資料がありましたよ。
まず、会場入り口で迎えてくれたのが二つの銅鐸。

吉野ヶ里と出雲の銅鐸が並んでいて鳴らせるようになっていました。
サイズは30センチぐらいだったでしょうか。意外に小さい。
元のサイズはどうだったのか、説明がなかったのですが、
とりあえず音を鳴らして見ました。
カーン。吉野ヶ里の方が低音でした。
鐘のような響きの余韻がないので、正直言ってうるさいです。
音楽にはとても使えません…。
会場には吉野ヶ里で出土した鋳型があったのでこれ幸いと材質を聞くと、
石英カンラン石で、
東背振山(ひがしせぶり・すぐ近くの山)や八女(やめ)で採れるものだそうです。
へえ、そうなんだ。

会場は撮影禁止なので、撮影OKの展示室で別の鋳型を撮ったのが上の写真です。
鋳型を作るためには左右対称に正確に彫って、一本の線の歪みも許されないから、
作るのにはすごい技術が要りそうですね。

これは吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸そのものです。
そして購入した冊子を読んでびっくり。

吉野ヶ里の銅鐸と同じ鋳型で作られたものが島根県で出土していたのです。
イラストではその二つが並べられています。
でも、よく見比べると文様が違うでしょ。右には目、鼻、鳥があります。
研究によると、最初に吉野ヶ里の銅鐸を作って、
その後に鋳型にさらに目や鼻などを彫り込んで、
二つ目を作ったのではないかという事でした。
これは何と魅力的な話。二つの国がどう関係したのか想像するのも楽しいですね。
取り敢えず、これで綱脇八幡宮での疑問の答えが出ました。
鋳型って、持ち歩いたり再利用したり出来たんです!
そして、その翌朝のこと。西日本新聞を見てびっくり。
そこに吉野ヶ里の銅鐸について記述があったのです。
(森浩一の交友録「忘れえぬ人」より、一部を抜粋)

この鋳型の素材について教えて貰ったばかりだったのですごく印象的な記事でした。
福岡では銅鐸が造られていた!
学説はどんどん作りかえられて行きます。

これは溶けた銅を取り扱うための道具などです。
弥生前期のものですから、紀元前から銅を作っていた事になります。
吉野ヶ里は鉄ももちろん出土しています。
ハイテクの工房があったんですね。
それにしても想像もしていなかったのは、出雲の銅剣や銅鐸の本来の色。
含有した金属の組成を元に復元作成された物は黄金色でした。
あの青緑色のしぶい色しか知らなかったので、
出雲の国は黄金色が揺らめくまばゆい世界だったのが分かりました。
それに対して糸島市の平原遺跡の復元された銅鏡はプラチナ色です。
白銅色という日本書紀の表現はぴったりなのです。
青銅器と言っても古代の色は全く違っていた。これは大きな収穫でした。
(つづく)
綱分八幡宮(つなわきはちまんぐう)はサイドバーからどうぞ。
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吉野ヶ里歴史公園(2)
奇蹟!弥生時代がまるごと残っている
吉野ヶ里はとても広くて駐車場が二か所あります。
自分が止めたのは東か西か覚えてないと迷子になりそうです。
しかも間違いと気付いて引き返すと延々と歩く事になります。
そんな弥生時代の国邑が丸ごと残っている奇跡のクニを歩きましょう。
東口駐車場から歴史公園センターで園内マップを貰いました。

大きな橋を渡るといよいよゲートです。
ウワっ。本格的!

鳥居だ!蘇塗だ!ソッティだ!
忌宮(いみのみや)神社で話が盛り上がったソティが三つも止まってますよ!

これは展示場にあった「韓国の蘇塗」の写真。似てますね。
そして入場して見回すと、

逆茂木(さかもぎ)だ!
延々と付き立てられた尖った丸木は出土状況を再現したものです。
これだけの防御が必要なのは、この時代が戦闘続きだったという事です。
実際に首のない遺体や矢が打ち込まれた遺体などが出土しています。
別れ道で右の道をたどると、「南内郭」に出ます。
王や支配者が住んでいたエリアです。

物見櫓(ものみやぐら)です。なんとこれが四棟も立っていた!
かなり必死で守ってます。

物見櫓からの眺めです。ずっと向こうの山々が見えるようになりました。
広場の右奥にも物見櫓が見えます。その左下に王の家があります。
写真の左半分は二重になった環濠と逆茂木。そこから更に左を見ると、

倉と市があるエリアです。
その先はまるでゴルフ場に見えますが、
「グランドゴルフコース」とマップに書いてありました。(・.・)
やっぱりそうなんだ…。(草が生えなくてよさそう…。)

このような竪穴住居も再現されています。
当然、覗きたくなるのですが、

(お、お邪魔しました。)
王と妃でした。

もう一つ覗くと、「!!」
(あ、いえ、別に用事はないんです。失礼しました。)
と言いたくなるような人形たち。
そして他には弁当持ち込んで食べてもいい竪穴住居もありました。
楽しいですね。今度は弁当持って行こうっと。
さて、お次はメイン会場の主祭殿のエリア「北内郭」です。

吉野ヶ里のシンボルです。上りましょう。最大の建物です。
柱の穴が16ありました。
唐古遺跡や中国などの建物を参考にしてデザインされました。

二階のようす。
かなり広いのですが、こんな風に人形が並ぶと圧巻です。
男女が混じって座っているのは、このクニが男女平等だった事、
着物の色は豊かな文化があった事を示しています。
考古学的な発見を活かしたようすがよく伝わって来ます。

三階に行くと、祭祀の様子が再現されています。
正面に三種の神器が榊に掛けてあります。
巫女の姿はアメノウズメの服装のようですね。
アメノウズメの命は天の香具山の天の日影(ひかげ)をタスキにかけて、
天のツルマサキをかずらとして、
天の香具山の笹の葉を手に持てるように束ねて、
天の岩屋戸の前に、桶(おけ)を伏せて乗り、踏み轟かして神懸かりしました。
(古事記)
左では男の人が琴を弾いています。当時の琴は男の人が弾くものでした。
右の男の人は審神者(さにわ)です。(神さまが本物がとうか見分ける人)
これは日本書紀の香椎宮のシーンがモデルだと思われます。
そうすると、琴が仲哀天皇、巫女が神功皇后、審神者が竹内宿禰です。
何だか急に身近に感じて来ます。
この吉野ヶ里の当時の人口は環濠に守られたエリアに約300人。
吉野ヶ里のクニ全体では約5400人だったそうです。
この主祭殿を出たら既に2時間を超過。
墳丘墓などは次回のお楽しみとして帰ることにしました。
何せ、一つのクニを廻るのですからね。バスも走ってるほど広い。
園内マップではお勧め見学ルートがあるので、それを見て歩くのがよさそうです。
吉野ヶ里遺跡についてはまた折々に紹介したいと思います。
**
今日はガイドブックの原稿を渡して来ました。(*^_^*)
皆さんの応援コメントにとても力を頂きました。
ありがとうございました。
吉野ヶ里歴史公園
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吉野ヶ里歴史公園(3)
王墓と祭祀線と徐福伝
墳丘墓には行かなかったので、王墓についてはまたの機会にと思ったのですが、
今朝の夢で「王墓」と出たので書く事にしました。
次回訪問する時のための予習かな。
資料は「弥生時代の吉野ヶ里」(佐賀県教育委員会)です。
太陽祭祀線
前回、北内郭の主祭殿に登りましたが、地図をよく見ると
この主祭殿を守る二重の環濠は左右対称の不思議な形をしています。(赤丸)

明らかに中心軸を持っているのが分かりますね。
軸は夏至の日の出と冬至の日没ラインに乗っているそうです。
これは彼らの作るカレンダーが夏至の日の出を基準にしている事を示しています。
その軸上に建物が二つあります。ここで祭祀するのでしょうか。
これは次回訪問のお楽しみ。
王墓祭祀線
環濠の主軸に対して主祭殿の向きは、ずれています。
この16本の柱の軸は北にある王墓の中心軸に繋がっていました。
その中心軸を南に延長すると祭壇があります。
大きな地図で見るとさらに長い祭祀線が見えて来ます。

物見櫓でガイドの人が他の人に説明をしていたのですが、
「南北の祭祀線がある事から、中国の影響を受けています。
東背振山から引いています。」
という言葉が聞こえて来ました。
その前の話を聞いていないので間違えていたら申し訳ないのですが、
今思えばこの王墓祭祀線だと思われます。
正確には南北線は写真のように少しずれています。
南北は厳密に測量されるはずですから、
このずれは研究するべき大事なポイントですが、今の私には分かりません。
「中国の影響」と聞いて私は徐福の渡来を思い浮かべました。
徐福は目の前の有明海から上陸しました。
徐福伝説は和歌山の方が有名で、佐賀県の伝承はあまり知られていません。
何隻も一緒にやって来たので、日本の各地にバラバラになって到着しています。
その一つが佐賀県で、金立(きんりゅう)という所です。
私も断片的に聞くだけで、もっとすっきりと
アウトラインが分からないかなと思っていたのですが、
これまた森浩一氏が見事にまとめた記事が掲載されました。
「忘れえぬ人―森浩一の交友録 13 内藤大典さん」
(西日本新聞2011,11,15)です。その一部を抜粋します。
内藤さんは(略)日本でも有明海沿岸、とくに佐賀平野にある徐福伝説と弥生遺跡を対応させ、解明の手掛かりがえられないかと着目された。(略)
徐福は秦の始皇帝と同時代の方士(宗教家)である。徐福は東方に理想的な国土のあることを知って、始皇帝に航海の費用を出させ、前210年ごろに山東半島から船出をした。
この旅は三千人の童男や童女や百工をつれ、五穀の種子をも携えたもので(目的地に着いてから)、平原広沢(の地)をえてそこに止まり、王となって戻らなかったという(『史記』秦始皇本紀、准南・衝山列伝)。
これは大規模な集団をつれての計画的な移住記事とみてよい。これに類する記録は沢山ある。その後秦は衰退し、滅亡する。そのことを予想しての行動であろう。
三千人の童男・童女とは、移住先で結婚して子供を増やせる若い男女の意味であろう。歳をとった老男老女では、新しい土地で人口が増えることは期待できない。
日本列島には約十ヶ所の地が徐福伝説をのこしている。有明海沿岸地域と鹿児島県や宮崎県、日本海沿岸では丹後、太平洋沿岸では和歌山県と三重県にまたがっての熊野などである。
これらの徐福伝説のある土地のうち、地域の信仰と結びついているのが、これから述べる佐賀平野である。なお福岡県八女市にも根強い伝説がある。
僕は前に自分なりに徐福伝説を整理するために、以上の関係する土地を踏査し、図説日本の古代一巻の『海を渡った人びと』の中の「有明海を通じての交流」の章に「生きつづける徐福伝説」を書いた。平成元(1989)年だった。
その中で述べたことだが、佐賀平野を見下ろす背振山の一つの峰として金立山(きんりゅうさん)がそびえ、そこに金立神社の上宮がある。中腹に中宮、麓の佐賀平野に下宮がある。
佐賀平野の徐福伝説は金立山の眼下に展開する佐賀平野、さらに海岸の佐賀市諸富町にかけての地域に残っているのである。
この地域では、農民の信仰行事として正月に「金立さんみやーい(詣り)」が続いているし、五十年に一度の例大祭では、徐福が金立山に入ったと伝える逆の道筋を通って神輿(みこし)が通る。
金立神社には、徐福一行の有明海上陸を描いた「金立社画図縁起」一幅が伝わる。これを実見した時、よく描かれていることと中世まで製作年が遡(さかのぼ)りそうだと感じた。
このような徐福伝説がる佐賀平野に、弥生時代の集落跡としての吉野ヶ里遺跡がある。内藤さんは佐賀平野の徐福伝説と吉野ヶ里遺跡の関係を解明するため、晩年に著作を始めた。
原稿がある程度できるとコピーが送られてきて意見を求められた。僕も忙しい時期だったが、できるだけ協力した。原稿が予定の半ばまでに達し出版社も決まったころ、内藤さんの生涯は終わった。
一言つけ加えると、一昔前には弥生時代には農村(ムラ)ばかりという見方が支配的だった、だが吉野ヶ里の出現によって、そのような固定観念が激変した。
『魏志』倭人伝に国邑(こくゆう)という言葉がでている。この国は倭国とか日本国などのように広大な範囲ではなく、伊都国とか奴国など、今日の一郡か一市ぐらいの範囲である。小都市とみてよかろう。吉野ヶ里遺跡も国邑の一つとみられる。
吉野ヶ里遺跡では各種の青銅器を製作していた。しかも玄界灘沿岸地域より早く開始されていたとみられる。この政策にたずさわったような人が百工(のうちの一つ)であろう。
(後略)
地名が県外の方には分かりにくいと思いますが、
金立と吉野ヶ里の距離はわずか約8キロです。
吉野ヶ里の集落が形成され始めてしばらくして、
すぐ近くに秦の文化を持った集団がやって来て住みついたのです。
影響が多大だったと思われます。
内藤さんの研究が出版されなくて残念ですね。
私の夢はこの徐福の記事を読み直せという事だったようです。
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吉野ヶ里歴史公園(4)
松原照子さん邪馬台国は?
3.11をヴィジョンで見た事で有名な松原照子さんのHPの今朝の記事です。
一日で消されるので、ここに紹介しておきます。
女王卑弥呼
Date: 2011.12.10
日本人の心を鷲掴みにしている謎をいっぱい秘めた女王卑弥呼が、我国にはいたと云います。あの時代、東アジアの中心は中国でした。大国中国に「日出 処の天子書を日没する処の天子に致す つつがなきや」と、隋の皇帝に書を認めたと云われる。もう一人の有名人、聖徳太子もいました。
卑弥呼から聖徳太子の時代まで、100年くらいしか経っていないと聞こえて、凄く新鮮でビックリしています。100年と云う月日は、そんなに永く感じられません。
だって、日本には100才を越える長寿の人々が多いからです。65歳の私にしてみれば、65年って過ぎてしまえばアッと云う間でしたもの。
この百年と云う月日、今も昔も時を刻むリズムは同じでも、人々の心の持ち方や考え方が違うだけで、一日の過ごし方も変われば、夜が昼のように過ごせる今と違い、太陽のありがたさも今とは随分と違っていた事でしょう。
あの頃の中国から見た我国は、小さき者と云う意味で倭人と名付けたくらいですから、中国は我国を小国と思っていたようです。
女王卑弥呼と書くだけで、もうすでに心を躍らせておられる方もおられる事でしょう。
「弥生時代」がどんな時代だったのか。
「邪馬台国」とは?いったい何処にあったのだろうか?
あの吉野ヶ里が邪馬台国だったのだろうかと心の中で思いを巡らせていると、吉野ヶ里の集落らしきところが、濠で囲われている事を目の前の画像で発見。これから見て、身を守る敵でもいたのかもしれません。
「今日はどれくらいの時をタイムマシーンに乗ればいいのだろう」と、自分勝手な思いを巡らせていると、物見櫓の上に自分がいるかのような錯覚をするくらいリアルに景色が見えています。
辺り一面には田畑が見られ、お日様が遠くの山々の間に沈む美しき事。あなた様にも見て頂きたいと心から思っています。
続きと書くとお叱りを受けますが、かなり長い文章になりますので、今日は此処までと致します。
幸福への近道 http://shohweb.com/
吉野ヶ里の記事を書いたばかりなので、このシンクロに驚き。
松原さんが吉野ヶ里を御存じだったのも嬉しいけど、
この景色が心のスクリーンで見えたらしいというのでドキドキ。
私が物見櫓から見た景色と同じでしょうか。
吉野ヶ里遺跡は写真で分かる通り電線が全くなくて、乱開発されず、
周りの景色が2000年前のままなんですね。
大和という地名のすぐ近くで、邪馬台国の有力な候補地ではありますが、
まさか、松原さんの口から出てこようとは。
(卑弥呼から聖徳太子が100年というのは聞き違いじゃないかな…。)
工業団地として失われる寸前に高島忠平氏によって救われたこの弥生遺跡。
目が離せなくなって来ました。
(つづく)
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吉野ヶ里歴史公園(5)
卑弥呼の死と狗奴国
さて、前回の続きがHPに出ていたので書き写します。
女王卑弥呼(2)
Date: 2011.12.11
目の前に夕日が今日の終わりを告げているかのように消えて行く頃、微かに祈りをあげている声が聞こえた。その声を頼りに、3階建ての中に私は吸い込まれるように入って行くと、顔に入れ墨をした人が一人、何かの儀式なのか頭には少し黄みを帯びた布を額から後ろに結び、両手を高々と上げて祈りらしき唸り声をあげていた。この場所は、吉野ケ里ではないようにも私には理由なく思い、その光景に見とれてしまった。
でもネ、私が今一番興味を持ったのは、顔の入れ墨。この入れ墨、どうやら部族を現す印の様にも見えたし、アフリカの現地人が今もなお顔に入れ墨ではないものの、色んな色で顔を描いているあれを思い出し、1800年もの時の流れをしばし忘れてしまっていた。
私はあの時代の方が「いいなぁ~」とも思ってしまった。いつの世もあの時代のように自然界に感謝を表す祈りを奉げて暮らす生活、これこそ人間本来の姿に見えたのでした。文明って何なのでしょうネ。
目の前の光景を見ていますと、何故かあの時代が羨ましく思えたのでした。
卑弥呼と呼ばれる女王がいた時代。中国は黄巾の乱が起き、漢帝国は混乱の時代に突入していたようです。そして、40年後の220年。中国はかの有名な三国志の物語がスタートするのでした。
ここまで書くと卑弥呼がそんなに遠くない時代の人のように思えなくなって来るから不思議です。卑弥呼と三国志を結ぶ線こそ見えないものの、私の心は俄かに喜びの声をあげていたのでした。
もしかすると今まで書いた内容に聞き違いがあるかもしれませんが、心地が良いので先に進みます。
アァ、突然卑弥呼らしき人が大きな声で「くなぁ~」と叫んだので驚いて見ていると、祈りの手を止めて北東の方向を指し、こんな言葉を大声で言った。
この言葉の意味は分からないなりに、「来るな=くなぁ」と私は思ってしまった。
幸福への近道 http://shohweb.com/
う~ん。続きを読むと、邪馬台国は吉野ヶ里ではないようですね。
それでは何処なのか?書いてなくて残念。
さてこの文で、卑弥呼らしき人が「くなぁ~」と叫んだとあります。
これって「狗奴国」(くなこく)じゃないかなと、るな的には思いました。
邪馬台国と戦っていた国ですね。どうやら北東にそれがあるらしい。
そこで、今日は「狗奴国」のにわか勉強です。
吉野ヶ里歴史公園では「魏志倭人伝」の冊子が無料で配布されていました。
写本と書き下し文と注釈の付いている優れものです。
気合いが入ってますね~。
みんなに勉強してねと、言う事でしょう。さっそく役に立ちました。
狗奴国が出ている所だけ、またもや、るな流の訳文で。
女王国から北、その戸数や距離については省略します。その他の国も遠くてはっきりしません。斯馬国(しまこく)があり、次に…(19国の名が列記されている)、次に奴国(なこく)が有って、女王の境界が尽きる所です。(略)
その南に狗奴国があって、王は男子で、その官に狗古智卑狗(くくちひこ)がいましたが、女王には属していませんでした。帯方郡(たいほうぐんー朝鮮半島にある)から女王国までは万二千里あります。
男子は大人も子供も顔や体に入れ墨をしています。昔から中国に使いを派遣していて、みな自分たちの事を大夫(たいふ)の身分だと言っています。(略)
正始6年。魏は倭の難升米(人の名前)に「黄色の軍旗」を帯方郡を通して与える事にしました。(黄色の軍旗は皇帝が部下に権限を与えたしるし)
正始8年。王頎(おうき)が帯方郡の太守になりました。倭の女王・卑弥呼は、倭の載斯(さいし)と烏越(うおち)などを帯方郡に遣わして、狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみくこ)と始めから不和で、互いに戦っている状況を説明しました。
それによって、魏は塞曹椽史(そくそうえんし)の張政たちを遣わして、詔書と黄色の軍旗を難升米(なんしょうまいー人名)に与え、檄(げきーさとし文)を作って告喩しました。
その結果、卑弥呼は非業の死を遂げました。
狗奴国の関わりだけ訳して行ったら、卑弥呼の死が出て来ました。
かなり驚いています。
女王国と狗奴国の位置関係は今なお解決していないので、
それについては解釈しませんが、流れを見てみましょう。
ここに登場する人で押えておきたいのは、
邪馬台国の卑弥呼と対立する狗奴国の卑弥弓呼。
また魏の帯方郡(朝鮮半島にある)の王頎と倭王の使いの難升米です。
(倭の女王、倭の国王の関係は私には分かりません。)
正始8年(247)に新しく帯方郡の太守として王頎(おうき)が赴任してきた時、
卑弥呼は使いを出して
邪馬台国と狗奴国との対立が激しくなった状況を説明したのですが、
それがかえって卑弥呼の立場が弱体化した事を暴露してしまう事になったようです。
それというのも、その2年前、4年前に倭王が魏に使者を派遣していて、
魏は難升米に皇帝が部下に権限を与えたしるしである「黄色の軍旗」を与えました。
これは倭が女王国を見放し、実力者が難升米に移った事を暗示しています。
「檄」というお触書きが公布されてしまいました。
その結果、卑弥呼は非業の死を遂げました。
卑弥呼は「以死」という死に方をしたのですが、
研究によって、自殺や刑死など、非業の死を遂げた時に使われる表記だと
分かって来ました。
それで、最初の松原さんのヴィジョンに戻るのですが、
「くなぁ」と言ったのが、
狗奴国の策略に陥れられた卑弥呼の絶叫に思えて来ました。
松原さんは卑弥呼の最大の危機をヴィジョンで観たのでしょうか。
これからも折々に卑弥呼という人を見て行きたくなりました。
さて、魏志倭人伝はいろんな解釈があると思います。
私の解釈を叩き台にして、補足意見や訂正や説などをコメントください。
それで理解が深まればと思います。
帯方郡
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昨日は吉野ヶ里公園に行ってきました。
出雲王国展があっていたからです。
なんと縫い針があった!
現代とほぼ同じ寸法。骨で出来てました。
あの小さな穴も、管玉に穴が開けられる人たちだからお手のものでしょう。
一番の目的は物見やぐらから羽白熊鷲の居城のある古処山が見えるかどうか
確かめたかったからです。
古処山方面はあいにく森があって、確認出来ませんでした。
それにしても、物見やぐらは4棟も出来てましたよ。
逆茂木のおびたたしさといい、かなりの緊張状態です。
羽白熊鷲対吉野ヶ里はどんな関係だったのかな。
吉野ヶ里は久々だったけど、とても面白かったし、気持ちがよかった。
二時間でようやく半分見学したかな。
一つのクニがまるごと残されたのは奇跡!
佐賀の大和あたりは「吉野ヶ里公園」と「巨石パーク」がダントツに面白い!
古代史ファンへのお勧めスポットです。
記事はまた後日書きます。

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