2013年 12月 17日
宇美八幡宮(5)支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた
宇美八幡宮(5)
支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた
長野宮ノ前遺跡

これは宇美八幡宮の一の鳥居からの眺め。大好きなショットです。

この神社の参道は川から始まるのですが、支石墓はその近くに移設されています。
先日購入した「倭国創生」の図録を読んでいると、この遺跡のことが書かれていました。
「最古の戦死者たち」
(略)
さらに、長野宮ノ前遺跡では24基の木棺墓が主軸を合わせて整然と横並びに埋葬されていて、短期間に埋葬されたことをうかがわせる。その多くには頭部に赤い顔料が塗布され、二基の木棺墓から切先や茎が欠けた石鏃(せきぞく)が出土し、これらも副葬品ではなく体内に残存したまま葬られた可能性が高いと考えられる。
(略)
この遺跡の人たちは日本の歴史の中でも最古の戦死者たちだそうです。
武器は石器。
その切っ先が折れてしまっています。
12号からは刃渡り16.3cm近くの石鏃が出たのですが、
胸に2本、止めを刺すように交差していたそうです。
戦いが終わってムラに運ばれて、丁寧に葬送の儀式をされたのでしょうか、
頭に朱が塗られていたといいます。

驚いたのは、彼らは木棺に埋葬されていたということです。
しかも、24基が野外墓地のように整然と並んでいます。
この多数の木棺はすでに準備されていたのでしょうか。
木棺って、急に作れるようなものではないですよね。24も。
大量の木棺を加工する技術があり、一般兵(?)にも使用したとなると、
かなり高度な文化があったということになります。
この長野宮ノ前遺跡の時代が書かれていなかったのですが、
前後に紀元前4~500年の遺跡の記述があったので、
これもその時代の物と評価されているのでしょう。
現地説明板では紀元前300年となっています。
この当時、宇美八幡宮は祭祀されていたのでしょうか。
竹内宿禰がここに香椎から棺を持って来て埋めたのが紀元200年ごろ。
その末裔がそのまま留まって祭祀していますが、
この支石墓の人たちはさらに500年以上も前の人たちです。
遡っていく弥生時代
弥生時代は研究が進むにつれて、だんだん古代に遡っています。
かつて弥生時代は紀元前3世紀頃(初期)から始まったと言われていたと思いますが、
もっと早くから稲作をしている遺跡が見つかり始めてから、
今では紀元前5世紀ごろから弥生時代と言われているのではないでしょうか。
(もちろん紀元前10世紀説もあり)
そこで、従来の「初期・中期・後期」という分け方に「早期」が追加され、
「早期・初期・中期・後期」と四時代に区分されているようです。
具体的に何世紀なのかは学者によって違うという問題があり、
一般人には弥生時代が理解しにくくなっています。
中国正史と比較して学びたいとき、このアバウトな分類が、私にとっては大きな壁となっています。
世界に通じるように、「何世紀」という表現をするようになってほしいなと願っています。
あるいは、本や案内板には必ず何世紀と書いてほしいなと思っています。
さて、「倭国創生」に戻りましょう。つづきを読みましょう。
支石墓の下に縄文人が!
このように、糸島地方の早・前期の墳墓では、戦いの痕跡をとどめた墓が多く発見されていることがわかる。糸島地方では、弥生時代初期の戦いの事例が集中していることは従来から指摘されていうところであり、弥生文化が、この地において様々な軋轢の中で根を張り、拡大していったことを物語っている。
しかし戦いの対決軸が、縄文的な旧勢力 対 渡来系新興勢力といった単純なものではなかったことは、先の新町遺跡の戦死者の墓が端的に物語る。
その戦死者は、支石墓に埋葬されていることから、稲作文化を将来した渡来系であるはずであったが、出土人骨から推定される人物は在地の縄文系であった。戦いの本質についての研究は、まだ緒に就いたばかりといえる。
これを読んで驚いたのが支石墓の被葬者の問題。
新町遺跡の支石墓に埋葬されていたのは渡来人ではなかった!
「縄文系の在地人」だったというのです。
この名称、「縄文人」と簡単に言っちゃいけないのかな?(どう違うんだろう)
実は、支石墓と言えば被葬者は渡来人、と当然のように言われることについて、
博物館でも疑問を投げかけたことがあります。
「どうして、支石墓の被葬者は渡来人と言えるのですか?」
「それは朝鮮半島に支石墓が沢山あるからです」
「???」
この論法は一般人には、あまり説得力がないなと思いました。
定説では「文化は半島から日本列島に流れている。逆はない。」
というのですが、どうやって証明されたのだろうかと常々疑問を持っていました。
『日本書紀』を読むと、倭人が何度も何度も朝鮮半島に渡っているので、
だんだん違和感が出て来たのです。
どれもこれもが渡来人なら、倭人はどこにいる?
そんな疑問、土井ヶ浜ミュージアムでお話しましたね。
(土井が浜は中国の一地方とDNAが一致したらしい)
だから、支石墓の下には縄文系在地人が埋葬されていたという結果には得心が行きました。
天津神と国津神
コノハナサクヤ姫は国津神、ニニギの命は天津神。
そんな二人の出会い。
一夜を契っただけで、同居していなかったという状況からすると、この糸島に、
国津神のムラと天津神のムラがそれぞれあったと考えられます。
両族は戦いや通婚などいろんな形で融合して行った。
だから、本に書かれた、糸島での「戦いの対決軸が、
『縄文的な旧勢力』対『渡来系新興勢力』といった単純なものではなかった」
と書かれていた点にすごく納得しました。
あの細石神社が三雲南小路遺跡を祭祀した施設で、その墓に埋葬された王と王妃が
地元で言われるようにコノハナサクヤ姫とニニギノ命の墓だとすると、時代はいつか。
墓の年代から割り出す事ができます。
それは前述の本では「弥生中期」となっていました。
いったい何世紀だろうか。
こうして るなの思考はストップするのです。
(一説では金印・西暦57年より少し前らしい)
キリストの時代?
大山津見一族はその時代に糸島にいたと仮定することになります。
(るなには、さくや姫とニニギノ命が一緒に埋葬されている気がしないので、
三雲南小路遺跡には大山津見命が祀られていると今のところ仮定しています。
しかし、大山津見命はもう少し古い時代の気がする…)
一方、天孫族は福岡の中だけで考えたら、南から北へ移動しているように見えます。

というのは、系図を見ると、天孫族は最初に高木の神一族と通婚していますが、
高木の神といえば、高良山周辺や英彦山周辺が中心でした。
天の忍穂耳は英彦山や宝満川沿いに祀られています。
その後、糸島の大山津見一族、志賀島・壱岐島の綿津見の神一族となると、
北上しているように見えるのです。
これは、今までのイメージと正反対なので、とまどっています。
どうなることやら。
糸島の遺跡の中に、あるいは神社の伝承に、
コノハナサクヤ姫とニニギの命の時代を再現できるのでしょうか。
神話でなく歴史を求めて、この美しい伊都国をもう少しさまよいたいなと思うのでありました。

(宇美八幡宮)
地図 宇美八幡宮 細石神社
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