ブログトップ

ひもろぎ逍遥

カテゴリ:老松神社(各地)( 3 )

老松神社(朝倉・下渕)熊鷲の本拠地が見える


老松神社(下渕)
おいまつじんじゃ
福岡県朝倉市下渕840
熊鷲の本拠地が見える
前回、「美奈宜神社(林田)」では、
佐田川の下流で水軍が一夜で陣営を作り上げて、
羽白熊鷲を挟み打ちにする作戦ではなかったのか、
と書きましたが、

その間、皇后軍の本隊は大己貴神社から古処山が見える場所に進軍しました。

c0222861_108203.jpg

松峡神社(まつお)から仙道古墳を左に見ながらいよいよ秋月方面へ。
写真の左端に見える円墳が仙道古墳です。左の山が阿弥陀が峯。
右の山は大己貴神社(おおなむち)の御神体山です。
この右側を廻り込んだ所に大己貴神社があります。
そこで見え始めたのは古処山(こしょ)。羽白熊鷲の根拠地です。
敵前逃亡者が現れたために皇后は大己貴神を祀りました。

そこからいよいよ川沿いに遡って行きます。
秋月に行くには二つの道路があるのですが、より山際の古道を行くと、
こんもりとした杜が見えました。

c0222861_108385.jpg

老松神社です。

c0222861_1085537.jpg

いきなりの大古木に先制パンチ。

c0222861_109149.jpg

古木の茂る神社でした。

c0222861_1093148.jpg

拝殿です。

c0222861_109497.jpg

秋月藩に近いからでしょうか、崇敬厚かったのがよく分かります。

c0222861_10104100.jpg

神殿です。新しく造成されたようです。

案内板があったのですが消えかかって、よく読めませんでした。
いろいろ総合すると、
皇后軍の秋月周辺の駐留地を「七ヶ森」と言い、
ここは「三府の森」(みふのもり)という陣営です。
皇后の丈競岩(たけくらべいわ)がここに移されているそうですが、
これは気づかなかったです。

c0222861_10103110.jpg

境内の裏手にまわると、古処山(こしょさん)がよく見えました。
二つの山の右の方です。
その手前の山には見張りがいるに違いありません。
その奥は秋月野鳥。羽白熊鷲の根拠地「のとりのたふれ」。

こちらからよく見えると言う事は向こうからも丸見え。
軍勢の数もすべて把握される地形です。
ここは平野のど真ん中。周りよりほんの少し高くなっている程度。
逃げも隠れもしない覚悟の陣営だったのが分かります。
川沿いに進めば道は敵の根拠地に通じる。


もうどこで戦闘が始まってもおかしくない。
直線でわずか5キロ。
向こうから進撃すれば1時間後に戦闘が始まってもおかしくない。
老松神社はそんな陣営の跡でした。


地図 老松神社 秋月野鳥










ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2011-11-17 10:16 | 老松神社(各地) | Comments(2)

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か


老松神社と蜘蛛塚
おいまつじんじゃ と くもづか
福岡県みやま市瀬高町大草311
女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か

田油津姫(たぶらつひめ)の古墳と言われる蜘蛛塚を目指しました。
老松神社の境内にあるというので、杜を探しながらです。
田園の中の集落の曲がりくねった道の所にありました。

c0222861_16131425.jpg

いかにも古社です。

c0222861_16133163.jpg

みごとな楼門が建っています。

c0222861_1630725.jpg

内側から。

c0222861_16152434.jpg

拝殿は新しく建造されたばかりのようです。


さて、目的の蜘蛛塚の方は一の鳥居のすぐ左にあり、その上に御堂が建っていました。

c0222861_16161720.jpg

石段の高みがそのまま墳丘の高さになります。
古墳の名は「蜘蛛塚」と言いますが、もともとは「女王塚」と言われていたそうです。

c0222861_16164345.jpg

御堂の真裏に廻ると墳丘の姿がまだ残っています。
雨が降ると血が流れると言われている事から、
石棺の中の朱が流れ出していると考えられています。

町指定文化財 蜘蛛塚(大塚) 瀬高町大字大草字大塚
昭和56年2月23日指定
この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
瀬高町教育委員会

説明板を見ると、被葬者には二人の候補がありました。
一人は景行天皇に殺された首長で、葛築目(くずちめ)と言う名も伝わっています。
もう一人は神功皇后に殺された田油津姫です。

葛築目は男か女か
「葛築目」の「目」は「め」で「女」の可能性があるのですが、
蘇我の稲目と言えば「男」なので、男女どちらかは表記からは分かりません。
しかし、ここが女王塚と呼ばれていた事、子安観音が祀られている事から
被葬者はこのクニの女王の可能性が高いと思われます。

いづれにしろ、この古墳には「天皇家に殺された女王の記憶」が残されています。

またこの古墳が前方後円墳だったとすると、通説の論理で行くと、
この地域を支配するようになった畿内の権力者が権力を誇示して
前方後円墳を作ったという事になって、時代は下がります。

どうも、伝承と古墳の形式が合いません。

神功皇后の時代を古墳時代に引き下げるか。
前方後円墳の始まりを引き上げるか。(大胆すぎる?)
結論は将来の発掘を待たねばなりません。

同時代の人たちの古墳を見回すと、
国乳別命(くにちわけ)の前方後円墳(久留米市)の周りからは
弥生時代のものが出土してましたが、
仲哀天皇の古墳(藤井寺市)は5世紀後半の築造。
息子の応神天皇陵(藤井寺市)は5世紀初頭の築造と、親子で逆転しています。
まだまだこの世界は研究の途上にあるようです。

熊襲や土蜘蛛って誰なんだ?
そもそも、この戦いの発端は何でしたっけ?
そうそう、熊襲が朝貢しなかった事が始まりでしたよね。

日本書紀では「熊襲」については、鴨別(かものわけ)に攻撃させたら
おのずから降服したと、チョコっとだけ書いています。
流れからは不自然で、辻妻合わせに後で挿入した印象を受けます。

そこで、これまでに登場した国々の場所を書いて見ました。

c0222861_16213742.jpg

神功皇后軍に殺された王・女王たちを青色で書いてます。

関西で生れて関西で育った日本書紀の編者が考える熊襲の実態は、
羽白熊鷲や田油津姫など、「敵対した国々」を総合した漠然としたもののようです。

「土蜘蛛」とは、かなり早くから入植した渡来人で、
山の中で鉱山を掘っていた人たちで、中東系だから手足が長いので、
イメージから蜘蛛の漢字を当てられました。
田油津姫もそんな種族の誇り高い姫だったと思われます。

この田油津姫の国の呼び方を考えました。
ここは数年前まで山門郡だったので山門(やまと)の国と呼びたいとおもいます。

この山門の国の朝貢品は何だったのでしょうか。
香春岳は銅、羽白熊鷲は鉄だったので、この山門国も金属関係と予測しました。

手掛かりは、この神社の名前が老松神社という事にあります。
老松神社といえば菅原道真(すがわらみちざね)です。
もちろん平安時代の人なので、関係ないと思ったのですが、
道真公の祖は天穂日命(あめのほひ)で、熔鉄の神です。
もともとここは鉄の神が祀られていて、
のちに悲劇の道真公もまた祀られるようになったのでしょう。

ここは有明海と筑後川に近く、豊かな葦原だったので
スズ鉄の生産をしていた可能性があります。
そばの女山(ぞやま)あたりの鉱物なども調べると全容が見えてくるでしょう。

るなの推理コーナー
景行天皇は帰順しなかった山門の国の女王・葛築目(くずちめ)を殺して、鉄製品を朝貢させるようにすると、それを支配、管理するために子供の国乳別命を近くの高三潴に封じた。国乳別命は地元の豪族と結びついて水沼(みぬま)の君の祖となる。

一方、葛築目を殺された山門の国では、次の王、もしくは二代目かに香春岳の田油津姫を迎えて女王か妃にした。

こうして再び力を取り戻した山門の国は国乳別命に朝貢するのが理不尽で、朝貢を取りやめた。

その報告を国乳別命から聞いた仲哀天皇は下関に遷都して、景行天皇が残した筑紫の支配権を確立するために乗り出した。

こんな感じかな…。
手に入ったコマを並べると、こんな仮説が生まれました。

調べて行くと、この老松神社はクニの聖なる場所というのが分かって来ました。
山門国の都造りについて興味深い記事があったので、資料が揃ったらまた報告します。

さて、続けてもう一つ有名な権現塚古墳に行きましょう。

地図 蜘蛛塚・老松神社






気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2011-09-25 16:35 | 老松神社(各地) | Comments(0)

老松神社(小郡市)羽白熊鷲に勝った神功皇后は田油津姫攻撃に取りかかった


老松神社
福岡県小郡市上岩田
羽白熊鷲に勝った神功皇后は
田油津姫攻撃に取りかかった

時には勘違いが思いがけない所へ導いてくれることがある。
この老松宮に来たのもそんな勘違いからでした。

媛社神社天忍穂耳神社が七夕さまなら、その間には白鳥座があって、
中心付近に盤座(いわくら)でもあるんじゃない?
そう思って地図を眺めてみるけど、よく分からない。
少し北に上岩田老松神社というのがある。とりあえず行ってみよう。

その程度の考えでした。白鳥座の場所は後で見直すと見当違いでした。

c0222861_13312982.jpg

国道500号線を走ると、こんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
神社の脇から入ってしまったので、改めて正面から撮り直しです。
勢いよく流れる用水路にかかった小さな橋を渡ると、うっそうとした杜の中。

c0222861_13315068.jpg

夕暮れの雨の中とはいえ、かなりの異世界の趣。

c0222861_13323326.jpg

デジャヴでも起こりそうな、夢の中を彷徨うような世界でした。

c0222861_13325153.jpg

参拝を済ませて、真っ暗な拝殿に向かってフラッシュ焚いてみると、左右に木像。
老松神社と言えば、普通は菅原道真公を祭っています。
これらの神像もそれに関する木像でしょうか。

祭神
由緒書きがありました。
老松神社(老松宮)
祭神 菅原眷族神 高良玉垂命 住吉大神
由緒 この老松宮はもと、上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は神磐戸と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変わったのであろう。

菅原眷族神とあるのは、菅原道真公そのものでなく、側近を祀っているのでしょうか。
「昔の社殿は1070年、上岩田の庄領家菅原氏の造立」とあるので、
末裔がいたのかな…。まっ、よく分からない。

次の祭神は高良玉垂命。こんな所に、例の謎多き神が。
次の住吉大神と一緒なので、高良玉垂命は竹内宿禰の事かも。
各地の神社で「高良の神」とあれば、今のところ何処でも竹内宿禰を指していました。
筑紫の国では高良玉垂命は竹内宿禰と考えるのが一般的だったようです。
ただ、これが真実かどうかは分かりません。
最近、るなは疑(うたぐ)り深い。(御勢大霊石神社でのショックが大きかった。)

ところが、由緒書きを読み進めると、あれ?
大昔、神功皇后が秋月の羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐せられ、次いで、筑後国山門県の田油津姫(たぶらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。

今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦(ちゅうれん)の折、武内宿禰に御剣を祀らせられた。その不動岩が境内にあったが、現在は不明。又、境内に大岩窟があったが、正保年間(1644)これを破壊し、その巨石を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。  (略)

神功皇后がここにも来てる。しかも、これは仲哀天皇の崩御後だ。
そして既に羽白熊鷲とは戦った後。
次のターゲットは山門県(やまとのあがた)の田油津姫。
その為の陣営を整え直して、ここに行在所(あんざいしょ)を作ったんだ。

仲哀天皇は軍卒を励ますために廻っている時に流れ矢が当たったと
御勢大霊石神社で伝えているので、敵はずいぶん近くにいる。
すると、この時点での敵は羽白熊鷲しかいない。
流れ矢ではなく、狙われたのではないか。
この時は宝満川を挟んで戦ったのではないか。

天皇が負傷したあと、親衛隊の物部軍は血相を変えて川を渡って攻撃したはず。
その勢いに、さすがの羽白熊鷲も本拠地の秋月に押し戻された。

竹内宿禰が仲哀帝の遺骸を香椎宮から豊浦の宮に送り届けると、
神功皇后は羽白熊鷲と戦うのに躊躇しなかった。
皇后の指揮のもと、物部軍は宝満川を渡り、松峡宮、大己貴神社へと進軍した。

ここに来て、るなはこんなストーリーを考えるようになりました。

新羅(辰韓?)との戦いを決断するのに、
あれほど占いばかりした彼女とは全く様子が違う。
神功皇后はこの時は無我夢中だったんだ。報復なのだ。
夫を殺された怒りのために、彼女に迷いはなかった。
戦いの先頭を切る彼女に、親軍は頼もしささえ感じただろう。
新たな主上の誕生だった。
そうして、ついに羽白熊鷲を討った。

でも、山門(やまと)の田油津(たぶらつ)姫は何故?
何故、田油津姫をいきなり殺したのだろう。


この時の陣地と敵方の本拠地を地図に書き込んでみました。
c0222861_13361114.gif

仲哀天皇は御勢大霊石神社で羽白熊鷲と対峙したので、宝満川を挟んでの戦いだと思われます。
「松峡神社は神功皇后の行在所」という伝承があるので、
仲哀天皇の崩御後に、皇后軍は川を渡って歩を進めたと考えます。
それから、敵をもう一歩追い詰めて、大己貴神社に出ました。
地図では朝倉市と書いてあるところのすぐ北に大己貴神社はあります。
そして、ついに羽白熊鷲を滅ぼしました。

その後の攻撃目標は田油津姫。彼女のクニはかなり下流です。
皇后軍はこの老松神社に陣営を構えました。
津古(つこ)から船で」と書いてあることから、ここは岬か島だったようです。(標高18m)

この先、物部の本営たる高良山までは、皇后を連れて行っても大丈夫です。
しかし、彼女を南下させたかどうかは疑問。
戦場に皇后を連れて行って、主上を再び失う失態など、もうあり得ない。
神功皇后はこの老松宮に留まったのかも知れない。

(と、空想にふけっていたルナは、はっと現実に帰る。)

という訳で思いがけず
神功皇后の田油津姫攻撃の陣営跡に来てしまったのでした。

不動岩と古墳
由緒書きでは、神功皇后の時代には不動岩があったという。
やったね。まさか、盤座があったとは。
神磐戸とまで呼ばれていたので、ここは聖地だったんだ。
竹内宿禰に剣を祀らせたというから、いつものように銅剣だろう。

「大岩窟があった」というのは、古墳の石室ではなかったかと思いました。
というのも、境内にはこのように石が並べられていたのです。

c0222861_1339840.jpg

半サークル状に並べてあるので、独特の雰囲気を醸し出しています。
後で小郡市誌を開くと、やっぱりこの境内には二つの古墳がありました。
老松神社古墳(上岩田古墳群)
一号墳は規模が直径15m。見かけの高さ1.5m。
二号墳は直径12m。見かけの高さ3m。時期は不明。

c0222861_13394562.jpg

これは境内右手の猿田彦の石碑です。加工した岩もごろごろとしています。
その裏手の少し高くなっている所が、古墳だったのかもしれませんね。
ここは宝満川の近くなので、大きな洪水があれば川に洗われてしまい、
表土が流れて石室が露出した可能性があるかもとおもいました。

「1644年に大岩窟を破壊して巨石を稲吉の堰に再利用した」とあるので、
あの媛社神社の近くに運ばれたようです。

上岩田注連ねりそうそう、ここの「人形しめ」を忘れちゃならない。
正式には「上岩田注連(しめ)ねり」と言うそうです。
c0222861_13402647.jpg

ここだけの注連縄で、代々その創り方が受け継がれています。

それに加えて、神殿には鬼面が。
c0222861_13404350.jpg

う~。私のカメラではこれが限界。
これまで見た鬼面の中では、高良下宮社に一番近い感じ。
この神社は江戸時代後期に再建されています。

帰ってから地図を見直すと、あれ?
ここは筑紫の飛鳥のそばでした。

まいった。御原国は面白い。
遺跡がやたら多いので、少しずつ訪れて行きたいと思います。

飛鳥
御勢大霊石神社
大己貴神社

地図 上岩田老松神社 飛鳥 
  





気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2011-07-07 14:00 | 老松神社(各地) | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25